Saturday, July 01, 2023

ヘイト・スピーチ研究文献(223)権力の濫用?(e・完)

榎透「権力の濫用――ヘイト・スピーチ規制を考える前に」『専修法学論集』144(2022)

4 ヘイト・スピーチにおける権力の濫用を正視する

最後になるが、権力の濫用問題にはもう一つの議論すべき重要な領域がある。

その議論のためには、ヘイト・スピーチにおける権力関係――ヘイト・スピーチを生み出す基盤を考察する必要がある。榎の議論では見事に排除されている重要テーマである。

ヘイト・スピーチは、一般的な定義を基に考えれば明らかなとおり、(1)行為主体たる発話者が、(2)一定の属性を基に標的となる個人や集団に対する差別や暴力を、(3)公衆に、(4)煽動する行為である。

端的に言えば、(1)マジョリティのAが、(2)マイノリティに対する差別や暴力を、(3)マジョリティの公衆に、(4)煽動する行為である。

これがヘイト・スピーチと呼ばれ、被害が大きいと評価されるのは、マジョリティとマイノリティの間に非対称の権力関係があるからである。国家権力ではなく、それ以前に存在する社会的権力である。

1に、マジョリティとマイノリティの関係。

マジョリティは、マジョリティであるというそれだけで、マイノリティに対する優位性、特権性を有し、社会的権力関係を背景に行為し、発言することになる。

「**人は出ていけ」という発言が悪質なのは、マジョリティからマイノリティに向けられているからである。

99%の日本人がマジョリティである日本社会では、日本人が、1%のマイノリティに対して侮辱、迫害のヘイト・スピーチを行ってきた。

日本社会で、仮に1%未満のマイノリティが99%のマジョリティである日本人に対して、「日本人は出ていけ」と言ったとしても、通常、ヘイト・スピーチにならない。日本人は日本から排除される危険性がなく、痛痒を感じないからである。ヘイト・スピーチの前提はこのような権力関係の存在である。

2に、公権力とマジョリティの関係。

この点は、それぞれの国家・社会における人口比や歴史によって異なるが、日本のように99%の日本人がマジョリティであり、憲法が日本国民の「国民主権」を定め、「国民の権利」を定め、外国人の権利を顧みない国では、公権力はマジョリティだけのものであり、マジョリティの利益だけを保障し、追求しがちである。換言すると、社会的権力関係がそのまま国家権力に反映する。

公権力が、マイノリティの保護法益を尊重して、マジョリティをヘイト・スピーチで規制することをあまり期待できない。現に日本ではヘイト・スピーチ規制がなされず、マジョリティの日本人憲法学者は日本人の表現の自由を絶対化しようとし、マイノリティの表現の自由には見向きもしない。マジョリティがマイノリティにヘイト・スピーチを行っても、表現の自由を口実に、これを放任しようとする。

3に、公権力とマイノリティの関係。

公権力はマジョリティの利益を保障することを優先し、それと矛盾しない範囲において、マイノリティの利益も保障することがあるに過ぎない。公権力自体がしばしばマイノリティを排除し、抑圧し、差別する。マイノリティに課税するが、税の配分になったとたんに「国民の血税」などと虚偽の主張を基に、マジョリティだけに配分する。マイノリティが外国人・外国籍の場合には、在留資格や出入国管理の仕組みを通じて、文字通り排除することもある。マイノリティが差別やヘイト・スピーチの被害に苦しんでも、救済することなく、放置しがちである。

以上の実態を前に、権力の濫用について考える必要がある。権力は濫用されるなどと言う一般論は意味を成さない。権力の濫用はどのようなベクトルで作動するのかがポイントである。以下の点は誰にでも理解できることだろう。アメリカにおける白人と黒人の関係を想起しながら考えてみよう。

1に、公権力はマイノリティ保護のための立法を積極的にしようとしない。反差別法やヘイト・スピーチ規制法の制定には人権活動家やマイノリティの多年にわたる奮闘を要した。

2に、公権力は既存の刑法の適用に際して、マイノリティを保護するためにマジョリティを規制することを回避しようとする。ヘイト・スピーチ規制法がない状態でも、名誉毀損罪、侮辱罪、脅迫罪などがあるのに、公権力はマイノリティ保護のために既存の刑法を適用しようとしない。

3に、公権力は時に加害と被害を取り違えることがある。マジョリティがマイノリティに対してヘイト・スピーチをして、被害者のマイノリティが抵抗し、反撃しようとすれば、時にマイノリティが加害者にされてしまう危険性がある。

つまり、権力が濫用される場合も、その濫用はマジョリティに有利な方向で作動するのが普通であって、マイノリティには不利益に作動する。それゆえ、ヘイト・スピーチ規制法を制定した場合も、その運用においては、法の趣旨を逸脱して、ヘイト・スピーチ規制をサボタージュすることが生じる可能性がある。

人種差別撤廃条約に基づいて設置された人種差別撤廃委員会は、こうした問題について、各国政府に勧告してきた。ヘイト・スピーチ法を制定することだけではなく、その運用について勧告してきた。

1に、警察官など法執行官にマイノリティを採用することである。

2に、法執行官にヘイト・スピーチとその法適用について教育・研修することである。

3に、ヘイト・スピーチの捜査や訴追基準に関するガイドラインの作成が必要となる。

権力の濫用を防ぐための第一歩である。

榎は権力の濫用を語る。そのこと自体に私は異論を唱えない。

私が疑問に思うのは、ヘイト・スピーチ問題において権力の濫用について考えるなら、真っ先に誰でも思いつく重要論点があるのに、榎がそれには決して言及しようとしないことだ。榎はこうした論点についてどのように考えるのだろうか。