Sunday, August 20, 2017

預言者イエス=朴裕河と15人の使徒

浅野豊美・小倉紀蔵・西成彦編著『対話のために――「帝国の慰安婦」という問いをひらく』(クレイン)
1.本書出版の経緯と編集方針
(1)ドグマとの闘い
(2)イエスの受難
2.本書の基本的特徴
(1)第1の欠落:「応答しない」
(2)第2の欠落:「批判者を明示しない、引用しない」
(3)第3の欠落:「法を否定する」
(4)第4の欠落:「解決策に関心がない」
3.復活の日のために

1.本書出版の経緯と編集方針

(1)  ドグマとの闘い

しっかりした編集方針のもと、15人の執筆者が一糸乱れず編集方針を守って、ていねいにつくった本である。編集方針が確固としていて、言葉も明晰で、誤読の余地がない。迷いもブレもなく、目的に従ってまっしぐらの直球である。

日韓で政治的社会的問題となった朴裕河『帝国の慰安婦』を擁護する15人の著者による論文集である。
本書編集の直接のきっかけは「まえがき」(西成彦)に書かれているように、2016年3月に東京大学で開催された研究集会<「慰安婦問題」にどう向き合うか/朴裕河氏の論著とその評価を素材に>である。
「対話」を求めた研究集会(3.28集会)だったが、「オウムのように過去の主張をくり返す」(3頁)、「『ドグマ』にしがみつこうとする『帝国の慰安婦』批判の声は想像以上にかたくなで、『対話』らしい『対話』は成立しなかった」(5頁)からであるという。

つまり、問題は批判者の「ドグマ」である。あるいは、
「踏み絵」(24頁、浅野豊美)、
「自らの鏡に見えているものに誠実でありたいと考える人を窒息させようとする人たち」(44頁、東郷和彦)、
「レッテル貼り」(78頁、中山大将)、
「誹謗中傷」(96頁)
「悪意あるデマゴギー」(96頁)
「狂信」(104頁)
「病理」(104頁)
「集団ヒステリー」(112頁、以上の5つは、四方田犬彦)、
「暗黒の恐怖が渦巻いている」(277頁)
「恥ずべき暗澹たる汚点」(285頁、以上の2つは小倉紀蔵)である。
批判者は「暴力」「暴力的」である(本書に頻繁に登場する指弾の言葉である)。
――本書はこうした悪罵のオンパレードである。他人を罵る表現に磨きをかけるためにひたすら時間を費やした金字塔である。
本書の著者たちは冷静に学問的に話しているのに、批判者はオウム、ドグマ、デマゴギー、狂信、病理、集団ヒステリーである。このことを何十回でも言わなくてはならない。

このように宣言して、本書では15人の著者が、歴史学、文学、フェミニズム等々の領域からこの問題に切り込んでいる。

私も、オウム、ドグマ、デマゴギー、狂信と切り捨てられている側の一員だ。例えば、次の出版に関わっているからだ。
前田朗編『「慰安婦」問題の現在――「朴裕河現象」と知識人』(三一書房)
前田朗編『「慰安婦」問題・日韓合意を考える』(彩流社)
「戦争と女性への暴力リサーチセンター」編『日本人「慰安婦」』(現代書館)
「戦争と女性への暴力リサーチセンター」編『「慰安婦」バッシングを越えて』(大月書店)
日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会編『性奴隷とは何か:シンポジウム全記録』(お茶の水書房)

なお、私も上記3.28集会に参加した一人であるが、発言の機会は与えられなかった。批判派50名、擁護派50名という規模なので、それはやむを得ない。秘密集会であったことに違和感を抱いたが、それも当時の「雰囲気」の中で主催者が選択したことであり、とやかく言うことではないと思った。ともあれ、この集会を企画・実現した主催者に感謝している。

(2)イエスの受難

この件では、朴裕河をハンナ・アーレントに喩える驚愕の珍事があったが、本書では、なんとエドワード・サイードに喩える(93~95頁、四方田犬彦)。そして、本書の随所で、朴裕河は実直誠実な研究者であり、不当な「誹謗中傷」に耐えているとされる。不当な批判が裁判にまでなり、朴裕河は精神的にも物理的にも迫害されているという。
こうした記述がえんえんと続いた後に、「もし彼女が精神を病んだり、自死したりしていれば、批判者たちはひとりの知識人の社会的生命のみならず、生存さえ奪った」ことになるという(257頁、上野千鶴子)。他人にここまで筋違いの因縁をつけて恫喝を加えるのだから、ぶっ飛んでいる。チンピラヤクザそのものである、と思ってはいけない。著者たちは、まじめなのだ。
何しろ、朴裕河は「民族の預言者」(264頁)であり、『帝国の慰安婦』は「十字架」(274頁)であり、すべては「イエスの受難」(274頁、以上の3つは天江喜久)であるのだから。

神の子にして預言者であるイエス=朴裕河の著書『帝国の慰安婦』への批判など許されるはずがない。それはオウムであり、ドグマであり、狂信であり、暴力である。それゆえ預言者を守るために15人の使徒が立ち上がったのである。

15人の使徒は次の通り(なぜ名前を明示・列挙するかは後述する)。
浅野豊美(早稲田大学教授、国際政治
小倉紀蔵(京都大学教授、韓国思想
西成彦(立命館大学教授、比較文学
東郷和彦(京都産業大学教授、国際政治・元外交官)
外村大(東京大学教授、日本近現代史
中山大将(京都大学助教、北東アジア地域研究
四方田犬彦(明治学院大学教授、比較文学
熊木勉(天理大学教授、朝鮮現代文学
中川成美(立命館大学特任教授、日本近現代文学
加納実紀代(女性史研究)
藤井貞和(詩人・日本文学
熊谷奈緒子(国際大学准教授、国際関係
上野千鶴子(東京大学名誉教授、会学
天江喜久(台湾・長栄大学副教授、台湾近現代史
金哲(延世大学校名誉教授、東アジア近現代文学

2 本書の基本的特徴

本書には数多くの特徴があるが、それをいちいち列挙できない。ここでは、その一つであり、基本的と思われる、「欠落、否定、無視、忘却」に限って示しておこう。明確な編集方針をしっかり守り、決して道を踏み外すことのない使徒の懸命の努力がうかがえる。

(1)  第1の欠落:「応答しない」

3.28集会前半の一つ焦点は、『帝国の慰安婦』には数えきれない事実誤認があり、しかもその事実誤認がすべて朴裕河の主張に都合の良い方向での事実誤認であるという論点であった。
批判者側は数人が次々と事実誤認を論証し、「事実誤認の上に学問が成り立つのか」と迫った。「朴裕河はSTAP細胞の小保方晴子だ」という趣旨の発言が締めとなった。
擁護派はこれについて応答しなかった。問題を特定せずに、一般的に「仮に事実誤認があったとしても」といったレベルの応答がなされるにとどまったといえよう。このため対話が成立しないのは当然であった。本書も同じことの繰り返しである。15人の執筆者たちは、事実誤認を認めようとしない。

そして、「なぜ<数>を問うのか?」(中山大将)のように、論点そのものを審判に付し、批判派が数や多寡を問うことそれ自体を批判する。数や多寡を問題にしたのは朴裕河であるにもかかわらず、中山は、批判派を非難する。

中には「確かに歴史的事実の誤認や不適当な説明」(50頁、外村大)があることを認める表現もあり、歴史研究において史料群を調査すると「自分にとって“都合の悪い史料”に出会ってしまう、ということは往々にしてありうる」(52頁)とし、「“都合の悪い史料”を無視することは、プロパガンダでは許されるかもしれないが、研究の世界においては行ってはならない」と正論を唱える。ならば、朴裕河はどうなのか。“都合の悪い史料”を書き換えているのではないかと疑われている『帝国の慰安婦』はどうなのか。ところが、外村の矛先は朴裕河ではなく、慰安婦をめぐる従来の歴史研究に向かう。「不都合な史料について考える作業は軽視されてきたのではないだろうか」(54頁)と。かくして事態は反転する。朴裕河の事実誤認は容認され、天上の星よりも高く評価されるが、それ以前の歴史研究の側にこそ問題があったことにされる。
ここで外村の学問方法論においては許される事実誤認と許されない事実誤認があることが判明する。そう考えないと理解できない。外村は許される事実誤認と許されない事実誤認をどのように区別しているのだろうか。外村自身が、歴史研究において、いったいどれだけの許される事実誤認を駆使してきたのか、それは書かれない。

私は刑事法専攻である。日本において刑事法を専攻するということは、自分の理論において他人に死をもたらすことがあるということである(私は死刑廃止論者だが)。刑事法においては、てにをはのミスも許されない。てにをはの一文字の違いで、死刑か無罪が分かれるのだから。従って、刑事法学の世界では、慎重さが求められると同時に、誤りは速やかに訂正しなければならない。擁護派・中山・外村のような主張をすることはおよそ考えられない。歴史学では許される事実誤認や許される書き換えがあるという事実が、本書を読んでわかったが、納得しかねる。たぶん、それは私のドグマであり、狂信なのだろう。

(2)  第2の欠落:「批判者を明示しない、引用しない」

本書では、15人すべてが、「批判者」を非難しながら、その「批判者」の氏名を名指ししない。「批判者」の文献・出典を明示しない。編集方針として明確に「批判者を明示しない、引用しない」と決めたのであろう。そう考えない限り、ありえないことが起きている。
他の著作で、このようなことがありうるだろうか。15人の著者が、同じ「批判者」をひたすら非難しているにもかかわらず、その「批判者」の名前を書かない、文献も引用しない、出典を確認できない、という稀有の事態である。
本書で用いられるのは、
「一部の市民運動」(19頁)
「この本をめぐる批判」(26頁、以上の2つは浅野豊美)、
「制度的レイプ派」(40頁、東郷和彦)、
「諸研究者」(81頁、中山大将)、
「彼らの一部」(111頁、四方田犬彦)
といった言葉ばかりである。

本書には韓国挺身隊問題対策協議会の名前が頻繁に出てきて、何度も非難されている。ところが、韓国挺対協の主張をその文書から引用することはしない。論者が自在にまとめた言葉で語られるに過ぎない。
本書には吉見義明の名前が出てくる(54頁、外村大)が、「重要な資料を発掘し」たとされるだけで、吉見の研究内容は紹介されず、主張が引用されることもない。
本書には女性国際戦犯法廷が出てくる(171頁、西成彦)が、時代背景の説明のために出てくるにとどまり、女性国際戦犯法廷がいつどのように開かれたのか、主催者はだれか、判事はだれか、どのような判決かは紹介されない。
本書には、松井やより、西野瑠美子、中原道子、鈴木裕子、大森典子、金富子、小野沢あかね等々が登場しない。吉見義明、林博史、戸塚悦郎、荒井信一、鄭栄桓らも登場しない(吉見の名前は上記の形で一度出てくるだけである)。VAWW NET/RACも登場しない。

このことが意味することは、次の3つにまとめることができるだろう。
1つは、朴裕河が事実や証言の引用箇所を明示しない方法を愛用しているので、本書でも同じ方法を採用した。
2つは、具体的に名指しして引用すると、反論される恐れがある。反論を許さないために、相手を特定しない方法が望ましい。誰かが反論してきても「いやそれはあなたのことではありません」。
3つは、批判者はオウムであり、ドグマであり、暗黒の恐怖である。まともな人格的存在として扱う必要はない。預言者を批判するなどという裏切りと堕落と暗澹たる汚点である。名前を出すのも汚らわしい。
4つは、もともと15人の使徒は事実誤認を容認している。事実誤認が許されないなどと狂信する批判対象を明示しないのは驚くに値しない。相手に反論を許さず、一方的に叩いて叩いて叩きまくること、それだけが真実への道なのである。

私は、上記で15人全員の名前を列挙した。煩瑣だがいちいち頁数も明示した(ブログの記事で、普通、ここまではしない)。

批判する時には相手の氏名、具体的な主張内容を特定し、出典を明示するのが通常の方法だと思う私は、悪意あるデマゴギーであり、狂信であり、病理であるに違いない。

(3)  第3の欠落:「法を否定する」(ただし、都合の良い時は「法」を使う)

法の否定は2つの局面で明示される。

1つに、国際法の否定・軽視である。「慰安婦」問題では、国連人権委員会や国際労働機関で議論がなされ、国際法に照らして結論が示された。性奴隷制であり奴隷条約違反及び奴隷の禁止の慣習国際法違反。強制労働条約違反。そして戦争犯罪と人道に対する罪。女性国際戦犯法廷や、本書で批判派とひとくくりにされているらしき論者の多くが、国際人権法と国際人道法を引用してきた。
朴裕河が韓国挺対協批判を通じて、国際法に基づく議論を切り捨てたことは有名である。特に国際法における奴隷制概念は諸悪の根源であるかのごとく扱われる。15人の使徒も預言者に従って法を否定し、国際法を排除する。

奴隷制については興味深い記述がみられる。「慰安婦」が「預金通帳」を持っていた、私有財産を持っていた。だから、「”salve”とは呼べないと考えても不思議ではない」(80頁、中山大将)。
1990年代から何度も議論されたことだが、アメリカ黒人奴隷に典型的なように奴隷は「私有財産」を持っていた。いつでも取り上げることのできるカギかっこ付きの「私有財産」であるが、奴隷も蓄財して自由身分を買い戻すことが認められていたのだ。こうした常識を否定する中山は藤岡信勝や小林よしのりと祝杯を挙げることになる。

2つに、国内法の否定である。近代市民国家の法が否定される。朴裕河が訴えられた裁判の否定である。本書の随所で、名誉毀損を理由とする民事訴訟と刑事訴訟を繰り返し何度も非難している。法とか裁判とか検察など国家権力の装置であって、歴史学がこれに拘泥するべきではない。預言者を世俗の裁判にかけるなど許されるはずがない、と。近代法における裁判を受ける権利に唾を吐きかける。

ただし、15人の使徒は、都合の良い時だけ法を利用する。近代憲法における基本的権利としての学問の自由を根拠に、朴裕河免罪を主張する。そして、近代憲法における学問の自由を、学問ならば何でもあり、誹謗中傷の自由と読み替える。新聞や雑誌やTVやインターネットや街頭演説における名誉毀損が不法行為となり、時に犯罪になるのはよい。しかし、書物による名誉毀損があったとしてもそれは自由である。ここでは学問の自由が、学問の特権、学者の特権と読み替えられているのだが、そんなことを指摘するのは狂信である。ただし、学問の自由にも一定の慎重さを要するとの見解もあるが(231頁、熊谷奈緒子)、それも一般論にすぎず、朴裕河を擁護する。預言者を擁護することだけが目的となっている。

(4)  第4の欠落:「解決策に関心がない」

「慰安婦」問題について議論しているのだが、本書ではその解決策に関心が向けられることがない(ほとんどない)。国際法を否定し、国連人権機関からの解決勧告を無視する。

しかし、代替案は提示しない。アジア女性基金の積極的肯定(東郷和彦)、2015年12月の日韓合意の肯定(東郷和彦)、「平和の像(少女像)」への批判(本書各所)が明示されるが、それでは、慰安婦問題をいかに解決するべきか、には関心が向けられない。
法を否定し、国家権力を否定する仕草を続けながら、日本政府によるアジア女性基金政策を支持する態度しか示すことができない。こっそり権力に寄り添うことも忘れない。
使徒の関心が向けられるのは、あらゆる手段を用いて預言者を擁護することだから当然のことであり、これに疑問を抱くのはユダへの転落であり、暗澹たる汚点である。
中には、当事者を置き去りにしてはならないとの感想も示されるが(例えば82頁、中山大将)、そこから先を論じることはしない。
以上のように、本書では、周到な準備のもと細心の注意を払って編集方針を貫徹し、読者からいかなる誤読もされないように配慮している。
それゆえ、まともな研究者がやらないこと、やってはいけないことが満載である。
時間をかけて念入りに準備し、学問破壊の福音書として十全の内容を備えるように工夫したのである。

3.復活の日のために

 本書で15人の著者は何をしようとしたのか。それも具体的に、鮮やかに示されている。
聖なる15人の使徒は預言者を擁護するために立ち上がったのである。それでは、預言者を擁護するとはどういうことか。

サイードが「石を投げている写真なるもの」(94頁)、水に落ちた犬に「石を投げる」エピソード(110頁、四方田犬彦)にはじまり、イスラエル・パレスチナに注目を集める。
アーレントに言及したのも、やはりイスラエル・パレスチナに注目を集めることにつながる。
予想通り、朴裕河は「民族の預言者」(264頁)であり、『帝国の慰安婦』は「十字架」(274頁)であり、すべては「イエスの受難」(274頁、以上の3つは天江喜久)であると続く使徒の合唱は、いよいよクライマックスに近づく。
感動に打ち震えながら、「もし彼女が精神を病んだり、自死したりしていれば、批判者たちはひとりの知識人の社会的声明のみならず、生存さえ奪った」(257頁、上野千鶴子)と、朴裕河の「死」を予言する欲望にかられた絶叫が響き渡る。「死」を、「死」を、という激烈な欲望である。
自分たちが何を言っているのかすらわからない恍惚状態で、「死」を、との叫びだけが反響する。
そして、「『預言者』はあたかも十字架を背負ってゴルゴダの丘を上がってゆくようである。嗚呼、学問の自由の代価はかくも重いのか! しかし、十字架の先にあるのは復活の希望である」(274頁、天江喜久)と、朴裕河を無理やりゴルゴダの丘に登らせる。
誠実なる使徒たちは、ひたすら「死」を願う敬虔な祈りをささげる。「死」への欲望が赤裸々に語られる。「死」こそすべてである。
なぜなら「復活の日」を待ち望むことこそ使徒の使命だからだ。
「朴裕河氏の『英雄性』は、五年後、十年後にはいまと比較できないほど確固たるものとなっているだろう」(287頁、小倉紀蔵)。
かくして15人の使徒は「確固たる」意思と熱意と欲望で「死」を謳いあげ、「復活」を夢見る。
その日のために、15人の使徒は一切の疑念を断ち、ユダに転落することなく、預言者と心を重ね合わせながら、嬉々として最後の審判への苦難の途を歩むのである。