加藤典洋『敗者の想像力』(集英社新書)
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オビに<『敗戦後論』から20年、日本は、今こそ敗北と向き合え>とある。なるほど20年か。でもいまさら加藤でもないよな。どうせまたのらりくらり、ねじれねじられの茶話が続くのだろう、などと思ったが、目次を見ると、大江健三郎論に70頁も使っている。一応読まなくては。
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想像力と印象論と根拠なき決めつけと言う、文芸評論の実力発揮だが、多彩な顔触れが登場するだけに、楽しめる。何しろ、小津安二郎、カズオ・イシグロ、林達夫、朴泰遠、曽野綾子、目取間俊、ゴジラ、会田誠、シン・ゴジラ、庵野秀明、山口昌男、多田道太郎、吉本隆明、鶴見俊輔、宮崎駿、手塚治虫をひっぱりだして、「敗者の想像力」を論定しようとするが、話があちこち飛んでいくだけで、論証がない。最初の命題を最後にも繰り返しているが、1センチも深まっていないと感じられる。それでも読者を引っ張っていくのが、加藤の魅力かもしれない。
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ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』については、すでに論じてきたためか重視されていない。今や手あかがついた感じがするからだろうか。他方、白井聡の『永続敗戦論』に言及がないのは、いささか理解できない。
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さて、加藤の大江論ふたたび、だ。今回は、岩波沖縄裁判と『水死』の関連を問いかける論考となっている。「最後の小説」を唱え続けた大江が、『燃えあがる緑の木』3部作に続いて、ついに「おかしな二人組」3部作に至り、そこで終わるはずが、『水死』や『晩年様式集』に至ってようやく小説をやめる。
なかでも『水死』が書かれることになったのは、時期的にも、内容から見ても、沖縄・慶良間列島における集団強制死の記述(『沖縄ノート』)を口実に、歴史修正主義者たちが大江を名誉毀損で訴えた民事裁判が契機となっているのではないか。加藤はこのように問い、裁判経過を解説し、『水死』のあらすじを紹介し、大江の作品史を再確認し、戦後文学における位置にも言及している。加藤の主張自体は正しいと、私も思う。沖縄裁判と『水死』の照応関係の記述もよくできているし、かつての国家主義と戦後民主主義の連関、そして大江の転換と覚悟を読み解く手つきもたしかだ。加藤自身「乱暴なこと」と言いながらであるが、大筋は正しいのではないか。
ということは、「ぼろぼろな戦後に殉じる」覚悟を加藤も引き受けようとするのだろう。大江が裁判闘争と『水死』で、孤独と覚悟をあらためて打ち出し、宣言し、実演したように、加藤も「負けることを最後までやりとげる戦い」に乗り出していくのだろう。
加藤にとって大江は「もっとも長い時間、もっとも深く影響を受けた、恩義のある小説家である」という。文芸評論家にとって、そうした作家の最後の作品群を読み解く課題を自らに課すのは当たり前のことではある。
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もっとも、加藤自身がわずかながら言及しているように、大江と加藤の関係と言えば、あの「事件」を忘れるわけにはいかない。
http://maeda-akira.blogspot.ch/2017/07/blog-post_80.html
『取り替え子(チェンジリング)』を論じた加藤の評論を、大江がその小説『憂い顔の童子』中で、実名で名指しし、非難し、あろうことか加藤の評論を燃やすシーンを描いた、あの衝撃の事件である。主人公・長江古義人の罵声と怒りは加藤に突き刺さったはずだ。そこからの空白を経ての大江論ふたたび、である。
もっとも逆に言えば、大江がここまで怒り、小説中で加藤の実名を挙げて非難したことは、もとをただせば、図星だったのではないか、という解釈も成立しうる。加藤はそう考えているかもしれない。「私にとっては光栄なことだ」というのはやせ我慢だけではないかもしれない。しかもそのすぐ後に、「この人が私にとっては、やはりもっとも大事な小説家であり、もっとも刺激を受ける小説家であることを今回もう一度、確認することができた」と述べ、最後の最後に「受けていただけるか心もとないが、この本を、大江健三郎氏の一九九四年にはじまる『後期の仕事』に、捧げる」とまで書いている。
ストーカー評論家の執念極まれり、とでも言おうか。ここまで来ると、あっぱれ、と言うしかない。
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加藤は、『沖縄問題二十年』の新崎盛暉は2005年までに「物故」したという(本書217頁)。あれれ、いつ? と思うが。共著者の中野好夫と同年代とでも思ったのだろうか。大江の著作や沖縄裁判の著作を基に論じているが、沖縄についてさしたる関心を持っていないのだろう。新崎盛暉が何者であるか、加藤は知らないようだ。こういうところにも加藤らしさが浮き彫りになる。書き飛ばせ、間違いなど恐れるな!*
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もう一つだけ書いておきます。
加藤典洋は、宮崎駿の『千と千尋の神隠し』のところでは(180-181頁)、もとの世界(A)から、異世界(B)に行き、帰り着く世界(A)ももとの世界とは少し違う(A’)と主張し、これがアメリカ映画にはない、この作品の「特異さ」だなどと間抜けな主張をしています。
加藤によると、アメリカ映画はA-B-Aしかなく、
宮崎駿は、A-B-A’ という特異な作品をつくったのであり、
それが「敗者の想像力」のためだとつなげます。
呆れたお馬鹿さん。
『猿の惑星』ひとつとってもA-B-A’ということはわかるはず。
というか、パラレルワールドものの常識です。
「想像力」のないお粗末な文芸評論家と、無能な編集者によるばかげた本です。