佐藤嘉幸『権力と抵抗――フーコー・ドゥルーズ・アルチュセール・デリダ』(人文書院、2008年)
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1971年生まれの著者の、エティエンヌ・バリバールの下での博士号論文を出版したものだ。出版当時、購入したが、難しくて読み通せなかった。だから、次の著書『新自由主義と抵抗』は購入しなかった。
ところが昨年、佐藤嘉幸・田口卓臣『脱原発の哲学』(人文書院)を読んで、感銘を受けた。
そこで、今年の「脱原発市民会議かながわ&ハーベストムーンLIVE2017」の脱原発シンポジウムに、著者の佐藤嘉幸を招いた。
佐藤は『脱原発の哲学』の一端を披露してくれた。参加者にはとても好評だった。シンポジウムは私が司会進行をしたが、3人の発言者のそれぞれが面白く、考えさせられるものだった。しかし、いかんせん時間が足りなかった。佐藤が本調子になってしゃべるようになった時はすでに時間切れという結果となった。もっと聞きたいことがたくさんあったが、司会の力不足だ。という以前に、企画そのものが最初から時間不足になる運命だった。佐藤には次の機会にぜひ再度話をしてもらいたいし、共著者の田口卓臣にも登壇してもらいたい。
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というわけで今回、『権力と抵抗――フーコー・ドゥルーズ・アルチュセール・デリダ』に再チャレンジ。難しすぎて理解できないところも繰り返し目を通しながら、ともかく最後まで読むことが課題だ。いちおう、その目標は達成したが、本書の内容を的確に理解したかとなると、そうは言えない。
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「第1部 場所論と経済論」では、主にフーコーとドゥルーズのテキストを読み解きながら、主体の服従化された様態の変容を追跡し、フーコーにおける抵抗を「自己への生成変化」、ドゥルーズにおける抵抗を「他なるものへの生成変化」と呼ぶ。権力への抵抗のための戦略としての主体の変容と単独性の構築――自らの内面に取り込んだ権力に、主体はいかにして抵抗しうるのか。この問い自体は、これまで他の論者も取り上げてきたのを読んでいるので、なんとかついては行ける。
「第2部 構造の生成変化」では、主にアルチュセールとデリダのテキストを通じて、そしてラカン論への批判を通じて、社会構成隊の生成変化の可能性を論じる。権力装置によって再生産される構造をいかにして変容しうるのか。「死の欲動」に関する論述には歯がたたなかったが、イデオロギー論と構造論は比較的飲み込みやすい。アルチュセールの偶然性唯物論の射程も。他方、デリダの政治的戦略は、「贈与、赦し、歓待といった無抵抗の抵抗の実践」だという。「他者性の受け容れが、国家主権という残虐性のシステムを撹乱」するという。アルチュセールとデリダの社会的再生産に対する抵抗を、佐藤は「運命的なものへの抵抗」と呼ぶ。
ここに至るまでの佐藤のテキスト解読の徹底性、強靭さには驚かされる。「現在性の哲学」は、主体と社会構成体の変容を必然化する。偶然性の彼方で、偶然性を導入することで、必然となる抵抗の理論。
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『権力と抵抗』と『脱原発の哲学』がどのような関係にあるのか、私には説明できない。原理的考察と実践的考察と単純に分けてしまうと、まずいかもしれないので、機会があったら、佐藤に聞いてみよう。そのためにも、『新自由主義と抵抗』も含めて、全部読んでおかなくては。田口卓臣『怪物的思考』(講談社)も読もう。
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<目次>
序論
第一部 場所論と経済論
第一章 場所論Ⅰ/第一部への序論
1・1 経験的‐超越論的二重性/1・2 ニーチェと外の思考/1・3 フーコーの権力理論のアポリア
第二章 経済論
2・1 器官なき身体と死の本能/2・2 他なるものへの生成変化/2・3 非人称的力能
第三章 場所論Ⅱ、あるいは異種混交性の思考
3・1 抵抗の戦略としての生存の技法/3・2 倫理の問題系への転回/3・3 魂は身体の牢獄である/3・4 倫理的主体化と単独性/3・5 内在性/第一部への結論 他なるものへの生成変化と自己への生成変化
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第二部 構造の生成変化
第四章 死の欲動、偶然性、抵抗/第二部への序論
4・1 ラカン的〈もの〉/4・2 差延の経済/4・3 マゾヒズムの一次性/4・4 欲動の迂回/4・5 無抵抗の抵抗/4・6 デリダ的切断
第五章 イデオロギー
5・1 ラカン理論に対する「切断」/5・2 局所理論から一般理論へ/5・3 ディスクールの理論としてのイデオロギー理論/5・4 精神分析理論から構造変動の理論へ/5・5 構造的因果性と偶然性/補論 「鏡像的中心化」について
第六章 構造
6・1 社会構成体の脱中心化/6・2 経済的なものと政治的なもの/6・3 構造変動と偶然性/第二部への結論 偶然性、物質性
結論 抵抗とは何か