武田徹『日本ノンフィクション史――ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで』(中公新書)
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<「非」フィクションとして出発したノンフィクション。本書は戦中の記録文学から、戦後の社会派ルポルタージュ、週刊誌ジャーナリズム、『世界ノンフィクション全集』を経て、七〇年代に沢木耕太郎の登場で自立した日本のノンフィクション史を通観。八〇年代以降、全盛期の雑誌ジャーナリズムを支えた職業ライターに代わるアカデミシャンの活躍をも追って、「物語るジャーナリズム」のゆくえと可能性をさぐる。>
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日本文学史はたくさんあるが、ノンフィクション史はないと言うことで、武田はノンフィクションの歴史を渉猟し、整理する。
ノンフィクション事始めは、もちろん大宅壮一である。戦前は林芙美子や石川達三ら従軍作家のルポがあった。戦後もサークル誌運動、安部公房、共産党系ルポなどが並列していく。次いで「トップ屋」の時代を梶山季之と草柳大蔵に代表させる。そして、1960年に刊行の始まった筑摩書房の『世界ノンフィクション全集』によってノンフィクションの土俵が出来上がる。やがて、テレビにおいてドキュメンタリー番組、ノンフィクション映画が広まる。
1970年代、ニュージャーナリズムの時代に大宅壮一ノンフィクション賞がはじまり、そこから沢木耕太郎が登場し「私小説」ならぬ「私ノンフィクション」が試みられる。武田はここまではいわばオーソドックスにノンフィクション歴史を追跡しているが、1980年代以後は、様相が変わる。その後もノンフィクションはたくさん書かれたが、時代の現実に挑んだのは、むしろ田中康夫の『なんとなく、クリスタル』や、21世紀の「ケータイ小説」であるという。
この時代のもう一つの特徴として、大学に籍を置く研究者による「アカデミック・ジャーナリズム」があり、袖井林二郎、野田正彰、山根一真にはじまり、宮台真司、佐藤俊樹、古市憲寿、開沼博らが続くと言う。
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ノンフィクションを系統的に読んでいない者にも、おおよその流れはよくわかり、納得しながら読むことができた。文字通り「日本ノンフィクション史」として重要な著作だ。
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ドキュメンタリー、ルポルタージュ、ノンフィクションの定義、位置づけ、相互関係は、論者によって把握の仕方が違うが、いずれにしてもノンフィクション作品を構成する素材、資料、取材の在り方、文体など方法論が不十分だったという。フィクションとノンフィクションの関係も単純に区別しえない。定着したノンフィクションだが、方法論の模索はこれからも続くだろう。
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日本ノンフィクションが文学、小説から離れ、自立していく過程の記述も面白い。その点では当時、ノーマン・メイラーやトルーマン・カポーティのノンフィクション・ノベルがあったが、武田は取り上げていない。私はメイラーやカポーティを熱心に読んでいたのだが。
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本書には本多勝一も猪瀬直樹も鎌田慧も登場しない。立花隆はついでに触れられる程度で、佐野真一は『週刊朝日』差別事件が少し、という具合に、登場しない、あるいはごく軽くしか扱われない重要な作家がたくさんいる。たぶん、存命中の作家は取り上げにくいのだろう。ケータイ小説やアカデミック・ジャーナリズムに話が飛ぶのもそのためだろう。
10年後、20年後に、武田の「続・日本ノンフィクション史」が書かれることを期待したい。
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関係ないけど、今夜は、我が青春のPink Floydの管理社会批判、The Wall
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