Friday, July 27, 2012

2010年の民族差別と排外主義


ヒューマン・ライツ再入門25

2010年の民族差別と排外主義



雑誌『統一評論』541号(2011年1月)





一 対向するメッセージ



 日本政府、メインストリームメディア、そして「在日特権を許さない市民の会(在特会)」と自称する犯罪集団の動向を見ていると、日本がいつの間にか深刻な人種差別に満ちみちた国家・社会を形成していることに気づく。

 戦前の大東亜帝国によるアジア侵略と、そのもとでの民族差別の異常性はあるものの、少なくとも、戦後改革と日本国憲法のもとで、いわゆる「戦後民主主義」は、自由、平等、基本的人権、個人の尊重を掲げてきたはずである。実際には出入国管理や外国人登録法など管理と抑圧の法制度が整備されてはいたが、タテマエ上は自由と権利を尊重する民主的社会を形成したことになっていたはずである。外国人差別、部落差別、障害者差別は一貫して続いてはいたが、少なくとも差別をなくし、克服していく方向性についての社会的了解はあったはずである。

 ところが、いまやそれは極めて疑わしい状況である。二〇一〇年に大きな「政治問題」にさせられてしまったのが、朝鮮学校への高校無償化問題である。それでは、日本社会と朝鮮学校が、いかなる形で向き合っているかを見てみよう。

 朝鮮学校が日本社会に向けて発信したメッセージは何だったろうか。

 第一に、サッカーのワールドカップにおける朝鮮学校出身者の活躍であった。それ以前から、朝鮮学校卒業生がサッカーで活躍していることは知られていたが、ワールドカップにおいて、祖国と民族を語りながら自らの道を模索する在日朝鮮人の活躍は日本社会にも印象的なメッセージとなったはずである。

 第二に、ボクシングの世界チャンピオンの登場である。高校インターハイなどのスポーツ大会で、ボクシングやラグビーなど朝鮮学校の活躍が続き、ついには卒業生が世界チャンピオンになった。

 第三に、朝鮮大学校卒業生の司法試験合格である。朝鮮大学校には一九九九年に法律学科が設置され、学生は日本の法律を学び、司法試験その他の資格試験をめざしてきた。これまでに八期の卒業生を繰り出してきたが、そのなかから、過去に三人の合格者が出て、すでに弁護士になっている。今回、四人目の合格者が出た。

金敬得弁護士(故人)以来、在日朝鮮人弁護士は他にも数多い。日本の大学を卒業、または大検などを経て司法試験に合格してきた。それに加えて、朝鮮大学校法律学科卒業生が合格し始めたのである。

以上、朝鮮学校が日本社会に向けて発信しているメッセージの代表例である。

 それでは、日本社会が朝鮮学校に向けて発信したメッセージは何だろうか。

 第一に、高校無償化からの朝鮮学校除外問題である。二〇一〇年二月の中井大臣発言以来、長期に及ぶ政治問題となり、いまだに解決していない。これは、日本政府が「朝鮮人は差別をしてもいいんだ」というメッセージを発し続けているということである。

 第二に、在特会による朝鮮学校襲撃である。二〇〇九年一二月の京都朝鮮学校への襲撃がもっともよく知られるが、その後も何度も嫌がらせが続いている。また、朝鮮大学校に対する在特会の嫌がらせもある。全国の朝鮮学校は安心して日常の生活と授業をすることが困難である。

 これが日本政府と日本社会が朝鮮学校に対して押し付けているメッセージである。まさに現代排外主義と人種差別(民族差別)である。



二 二つの詩集



 もちろん、日本社会が総体として排外主義と人種差別に勤しんでいるわけではない。全国各地で、市民が自発的に朝鮮学校支援の声をあげ、日本政府に抗議の声を送り届けてきた。在特会の蛮行を非難する声明も幾つも出してきた。メインストリームメディアのなかでも、朝鮮人差別にさまざまな形で切り込んで、社会のあり方を問う記事が見られる(「東京新聞」、「共同通信」がすぐれた記事を書いている)。

 各地の市民も取組みを続けている。京都では、事件一周年にあたる二〇一〇年一二月四日に、再び在特会による朝鮮学校に対する嫌がらせ行動があったが、市民がカウンター・デモを企画し、朝鮮学校支援の声をあげた。

 なかでも特筆されるべきは、詩人たちの活動である。二〇一〇年八月一日付で発行された『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』(同刊行会、代表河津聖恵)は幅広い市民の共感を呼んだ。

 「『うたびと』である私たちは、朝鮮学校無償化除外の問題を、まず何よりも言葉による暴力の問題と受け止めます。他者の魂へ加えられる深刻な暴力はまた、『うたびと』という存在への挑戦なのです。同時に私たち自身もまた、自省を激しく促されています。自分たちが『うたびと』として一体何をしてきたのか、日本人が自国の歴史ときちんと向き合い、そのことで自分自身と向き合うための、何らかのきっかけを作ることが出来たのか、歴史や他者に対する想像力に裏打ちされた言葉を生みだす努力を真剣に行ってきたろうか、と。/さらに『うたびと』とは『社会カナリア』でもあります。今回の問題が、この国の言葉と魂の危機から生みだされた事態であることと共に、万一除外が決定されることになれば、この国の将来に取り返しのつかない禍根を必ず残すことを、私たちは鋭敏に感じ取るのです。つまり『朝鮮学校無償化除外は決してあってはならない』という危機感と確信から、このアンソロジーは編まれました」(同詩集「はしがき」より)。

 石川逸子をはじめとする七九名の詩人・歌人たちの思いがぎっしりと詰め込まれたアンソロジーは、市民社会に反響を呼び、静かな、しかし、確かな波を送り続けている。付録として折り込まれた「朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー――京都朝鮮中高級学校生による詩と散文」の一部は、国会質問に際して国会議員によって朗読され、差別に安住する澱んだ空気を、一瞬、清澄なものに変えた。

 どのページからも引用したくなる一冊だが、一篇だけの引用にとどめる。



ムグンファ――一人無声デモをする友のために   河津聖恵



高台から見下ろす街の夜明け

ムグンファの汚れない光が花開き

この街が誰しもの故郷のように柔らぐ時刻

遥かな祖先の汗の匂いをたてる大路を

(今だ!)朝鮮虎の蒼い影は駆けだし

この国の閉ざされた心をふたたび舞う

通信使と民衆の歓喜の花びらの幻



街よ、花もとまどう真実の朝を祝福せよ

偽の眠りよ、脈打つ獣の熱に目を見開け



切り立てのプラカードの柄が風に鋭く光る

(今だ!)あなたの手はその痛みを掴む

「朝鮮高(級)生にも授業料免除を!」

天の赤と地の青とで書かれた文字を

頭上に掲げれば空の血は引いていくか

遠ざかる車の音 凝視するガラスの目

見て見ぬふりの通行人は

何を考え感じるのか(顔はみえない)

ひりひりとしたあなたの不信は

拳が握る痛みを芯にこの街を花ひらく

(これもムグンファか・・・)

やがて不信はたった一人の悲しみとなり

一人の悲しみを無数の悲しみが励ましていく

(そうだ、ムグンファ!

闇から希望へ向き直る花の恨の力だ!)



今ふり仰ぐ人のまなざしを受け止め

空よ、未来の子供たちのために色を深めよ

また一歩冷たい空気を歩む者の決意を感受し

地よ、恐れず声をあげる獣のために道を拓け



夜 無人のハッキョが高台から見るのは

星座のように瞬き 愛と痛みに捩れながら

なおも花ひらこうとする私たちのムグンファ



 他方、朝鮮学校生徒による詩集も編まれた。広島朝鮮初中高級部生徒たちによる『私たちも同じ高校生です――朝鮮学校への無償化適用を願うアンソロジー』である。

高級部二年生の文翔賢「無題」は次のような詩である。



あって当たり前の権利

 勝ち取れるだろうか



 あって当たり前の権利

 今まで一つ一つ手にしてきた



 あって当たり前の権利

 今回も必ず勝ち取れるだろう



 なぜいつも

 一つの権利を得るのが

 こんなにも難しいんだろう



 僕達も同じ

人間で学生なのに



今回も必ず

勝ち取ってみせる



また、高級部三年の李愛理「無題」は、こう綴る。

    

 響け、この思い、土の根っこまで

どんな 強い風が 遮ろうとも



育て、立派な葉をつけて

激しい雨が降り続けても



負けるな、しっかり根を張って

荒れ狂う波が押し寄せても



太陽の光をたっぷり浴びて

胸を張って堂々と響け

私たちの願いよ、根っこまで



差別や迫害も言葉に始まる。差別の言葉が暴力を呼び覚まし、他者に差し向けられる。京都朝鮮第一初級学校に投げつけられた差別と暴力が、高校無償化問題では朝鮮学校全体に向けられた。在日朝鮮人全体に対する迫害でもある。

差別への抵抗も言葉に始まる。魂の叫びが言葉を貫き、人々の感性を揺さぶる。この国の社会で対向する二つのメッセージを、二つの詩集が受け止め、読み解き、編み直す。差別の言葉を、反差別の言葉へ。憎悪の叫びを、出会いと共感へ。凝固した憤怒を、和解と連帯のシュプレヒコールへ。言葉を信頼し、紡ぎ出す営みが、ここにある。



三 人はなぜ、いつ、どこでレイシストに「なる」のか



 二〇一〇年一一月一〇日、第二東京弁護士会は、「現代排外主義と人種差別規制立法」と題する講演会を開催した。講師は鵜飼哲(一橋大学教授)と筆者である。

 前年一二月四日の在特会による京都朝鮮第一初級学校に対する襲撃事件が起きるや、ただちに批判の声をあげた鵜飼は、「東京新聞」談話において、在特会的状況を作り出した日本社会の問題性を指摘し、さらに雑誌「インパクション」において「雑色のペスト」を蔓延させる日本を読み解く特集を手がけた。ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を「緋色のペスト」と呼んだことに対応して、現代日本の排外主義を「雑色のペスト」と名づけた。

 第二東京弁護士会講演で、鵜飼は、「人はなぜ、いつ、どこでレイシストに『なる』のか」と問いかける。レイシスト(人種差別主義者)とレイシズム(人種差別主義)について、一九八〇年代初期におけるフランスでの人種差別問題に関して、「SOS反人種差別主義運動」代表のアルレム・デジールは、人種差別主義を三つに分類したという。

   狂信派――イデオロギー的な極右、「ネオナチ」

   懐旧派――植民地からの引揚者、帝国的過去と同一化

   「普通の人」――白人貧困層

これと比較すると、現代日本の状況はどの類型にもおさまらない。なぜなら、「普通の人」が参加しているといわれるが、必ずしも貧困層ではない。もっとも、思想的には、懐旧派と似た面もあって、過去及び現在の日本を持ち上げるための「逆差別論」が用いられている。「日本を日本人の手に」「日本人差別反対」という倒錯した論理が意図的に用いられている。過激な行動様式、身体表現は狂信派に似ている面もある。

 鵜飼は、現代日本の排外主義にも複数の潮流、動因があり、より厳密な分析が必要であるとし、特に、自宅でテレビ/ネットの情報環境で拡大するレイシズムの浸透性と脆弱性を見ておく必要があるという。その背景として、キャピタリズムの新自由主義的段階における「自己責任論」の台頭、すなわち国家による保護の剥奪が常態化し、社会的矛盾が拡大するなか、心理的には「犠牲の山羊」探しが生じている。排除によってしか自己主張できないナショナリズム、自負/理念/目標を欠いたナショナリズム、つまり自己目的化したナショナリズムが培養される。排除は他者蔑視であり、容易にレイシズムへと転化する。国際関係のレベルでは、むしろ国家ナショナリズムの<不足>が取りざたされるため、それを補完するという主観的意図のもとに、客観的には「国民」国家の基盤さえ破壊しかねないレイシズムが現れる。

 この点は、前田朗『ヘイト・クライム――憎悪犯罪が日本を破壊する』(三一書房労組)の問題意識と共通である。日本を守ると称するレイシズムが日本を破壊する逆説である。

 鵜飼は、最後に「<克服>の必用条件としての法文化の変革」を唱える。第一に、人種差別撤廃条約である。国連条約は、国民国家を前提としつつ、レイシズムを非合法化するものである。その限りで有効であり、活用するべきである。第二に、表現の自由をめぐる米国型法文化から欧州型法文化への転換である。先住民、旧奴隷、植民者、移民から成る複合社会においては、表現の自由の優越的地位が強調された。しかし、ファシズム、大量殺戮、社会の「自殺」を招く猛毒としての人種差別を経験した欧州では、「表現の自由」の理性的抑制が図られている。第三に、人種差別規制立法を制定した場合に予想される「倒錯的諸効果」、例えば、日本人による外国人告発に悪用される危険性の評定も必要である。第四に、制度的レイシズムと人種差別規制法の問題として、現実には、人種差別規制法どころか、日本政府が法的制度的に外国人を差別している(出入国管理制度の改悪、在留カードの導入)ことが指摘された。

 鵜飼講演に続いて、前田朗「二〇一〇年の排外主義と人種差別規制禁止法について」と題する講演が行われた。内容は本連載の繰り返しなので省略する。ヘイト・クライムの定義、保護法益、比較法的知見を紹介したが、鵜飼講演によって、考え直すべき問題の示唆を受けたので、今後さらに検討していきたい。