Wednesday, November 04, 2015

上野千鶴子の記憶違いの政治学(4)

*1 今回から、「『慰安婦』問題と<粗野なフェミニズム>」を公開する。「『慰安婦』問題と<粗野なフェミニズム>」は「上野千鶴子の記憶違いの政治学」の続編であるが、発表媒体が異なるためタイトルを変えた。

*2 「『慰安婦』問題と<粗野なフェミニズム>」は『統一評論』395・396・397号(1998年7~9月)に3回連載された。以下、3回にわけて公表する。

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「『慰安婦』問題と<粗野なフェミニズム>①」『統一評論』395号(1998年7月)

「慰安婦」問題の動向

 日本軍「慰安婦」問題は九八年に入っても日本政府と「国民基金」の不誠実な対応によって、解決ではなく、さらなる混迷へと漂流を続けている。日本政府は、国連人権委員会第五四会期で「国民基金」の宣伝を行い「さらに理解を求める」と開き直っている。「理解しない被害者が悪い」という訳だ。「国民基金」は、被害者支援団体を中傷し、膨大な資金を投入した宣伝攻勢で屈服を迫っている。
 国際的には、人権委員会でクマラスワミ「女性に対する暴力」特別報告者の「国家による暴力」報告書が採択された。報告書は、他の一四か国の事例とともに、再び「慰安婦」問題を取り上げ、国際法に基づいた勧告を提示している。また韓国挺身隊問題対策協議会の努力で「アジア女性連帯会議」がソウルで開催され「慰安婦」問題を中心とする今日の「女性に対する暴力」問題への取組みの強化が図られた。韓国政府は、「国民基金」を拒否して闘うハルモニたちに闘争支援金を交付した。
 ところが、日本国内では、まったく違った文脈での論議が続いている。日本政府の無責任、「国民基金」の破廉恥に加えて、右翼による攻撃も続いている、日本軍国主義礼賛映画『プライド』の上映も行われている。
 これらとは別に、一見すると中立さらしさを装ったり、誠実さや「学問」を看板にして、現実の問題状況を恣意的に切り捌く論調が幅を効かせてきた。護憲派と改憲派の対立を固定的かつ戯画的に設定して、あたかも両者の対立を乗り越えるかのごときポーズをとりながら、実は改憲派に大きく途を開いた加藤典洋『敗戦後論』(講談社)はその典型である。最新の実例は、「自由主義史観」派と「戦後補償」派をやはり戯画的に対立させて、実証主義や国民国家を乗り越えるとの掛け声のもと、実は国民国家の責任追及を解除しようとする上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』(青土社)である。「国民基金」と「戦後補償」派の対立を、なぜか今、この時期にとりたててクローズアップして、数千万円の宣伝広告費を湯水のごとく費消している「国民基金」にわざわざ宣伝の場を提供した『インパクション』も同様の傾向を示す。
 それぞれ主張の内容も力点の置き方も異なるが、これらに見事なまでに共通しているのは、一面的で恣意的な図式を前面に押し出して、現実の矛盾から目をそらさせていることである。そこでは議論する、<主体>の、身勝手で内向きの<主体的>姿勢が、趣味的に語られる。現実の主体は視野の外に置かれ、時には攻撃対象とされる。

なぜ上野批判か

 上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』は「慰安婦」問題での「論争」を誘発した著者のこの間の論文を一冊にまとめたもので、新たな「論争」をさらに引き起こそうという意欲作である。すでにいくつもの好意的な紹介や書評も出され、論壇に多大の影響を与えている。
 ここで上野を取り上げて批判するのは、次の理由からである。
 第一に、上野からの批判に応接するためである。経過を列挙すると次のようになる。
           前田「規範と人権」インパクション102号
           上野「記憶の政治学」インパクション103号(①を批判)
           前田「上野千鶴子の記憶違いの政治学」マスコミ市民346号(②を批判)
           上野「現在進行形で続く被害者の沈黙を聞く」論座32号
           上野「ポスト冷戦と『日本版歴史修正主義』」論座35号
           前田『戦争犯罪と人権』(③を収録)
           上野『ナショナリズムとジェンダー』(③を批判)
そこで、⑦を中心に、そこには収録されていない④と⑤をも加えて、上野に対する再反論を試みたい。
  第二に、その問題が上野の議論全体の特徴を如実に示しているように思われる。そのことを明らかにして批判しないと上野に対する批判として不十分であるし、上野の議論が戦後補償運動に対して及ぼしている悪影響に警告することにならない。
 以下では、すでに書いた批判(③⑥)との重複を避けながら(完全に避けることはできないが)、いくつかの疑問点を提示して、上野の議論の主要な特徴を明らかにしていくことにする。なお、紙幅の都合から、上野からの引用の出典をいちいち明示はしない。

図式主義の陥穽

 上野は、国民国家とかジェンダーとかフェミニズムとか、多彩な概念を駆使して鮮やかに「論理」を展開し、<言説の闘争>に勇ましくも鳴り物入りで参入する。それを上野は「思想」といい「方法論」という。
 なるほど「国民国家とジェンダー」をめぐる理論的分析を踏まえて「慰安婦」問題に切り込み「記憶の政治学」に挑む様は、一見すると魅力的ではある。
 すでに③で指摘したような、数々の無視しえない事実誤認と論理破綻にもかかわらず、上野の言説がウケるのは、単に鮮やかで華麗な「論理」と巧みなパフォーマンスだけではなく、それなりに現状の気分を反映した論理構築がなされているからであろう。しかし、そこにこそ問題を指摘せざるをえない。
 さて、上野は「実証主義を超える」必要性を強調する。
 「今日、『慰安婦』をめぐる攻防は『強制連行はあったか、なかったか』『日本軍の関与を証明する公文書は存在するか』という『実証性』の水準で争われているように見える」
 かつて上野は「自由主義史観」も吉見義明・鈴木裕子らも、ともに「文書資料至上主義の実証史学」であると乱暴に極め付けた。そこでは「実証主義・実証史学」を多義的に用いていた。しかし今度は上野は「『自由主義史観』派は、『実証史学』の見せかけのもとに、『慰安婦』強制連行を証明する公文書史料がないことを問題とする」とし「もちろん吉見は単純な実証史家ではない」とする。
 これによって混乱は正されただろうか。そうではない。
 「『実証史学』の見せかけ」にすぎないはずの「自由主義史観」に対する批判が、その後の部分ではやはり実証主義批判として書かれている一方、「吉見は単純な実証史家ではない」というが、実証史家であるとの認識には変化がない。「単純な実証史家ではない実証史家」とはどのような実証史家であるのか、上野は明らかにしない。
 そして「『実証史学』には『文書史料中心主義』と、史料の『第三者性』『客観性』に対する絶対視がある」とする。「文書史料至上主義」に代えて今度は「文書史料中心主義」という。これなら批判をかわせると踏んだのだろうが、両者はどう違うのか、果たして区別できるのかすら明らかではない。「至上」であれ「中心」であれ、結局は「実証史学」として論難の対象となっているのだから、これは批判をかわすための小手先の区別にすぎないのではないか。
 こうした一見すると「瑣末な点」を取り上げて批判するのは、「瑣末な点」に見える箇所での概念の不明確と混乱が、図式主義の全体を通じて貫徹しているからである。

 「慰安婦」問題をもっぱら「自由主義史観」とそれを批判する側との対立に押し込んで、そのうえで両者は「実証史学」であるから乗り越える必要がある、という。両者はそれぞれどのような意味で「実証史学」であるのか。本当に「実証史学」であるのか。このことすら論証できないのに、いつの間にか同じ「実証史学」と断定して、自分はそれを乗り越えるかのようなポーズを取る。これは「単純な」図式主義ではないだろうか。