Sunday, September 10, 2017

ヘイト・スピーチ研究文献(108)民事訴訟の意義

曽我部真裕「人権訴訟における民事訴訟の意義――ヘイト・スピーチ裁判を例として」『自由と正義』2016年6月号
表現の自由研究者で、ヘイト・スピーチに関連して発言してきた著者の論文である。
曽我部は、まず「ヘイト・スピーチ規制と表現の自由」として、日本における規制の現状を取り上げ、刑事規制はないが、民事規制はあるとして京都朝鮮学校事件の判決を一瞥する。ただ、集団に向けられた場合は民事規制も困難という意見があることを紹介する。行政規制として、ヘイト・スピーチ解消法を紹介する。
曽我部は、憲法学ではヘイト・スピーチ規制に消極的な見解が有力であり、「被害の実態を知る論者から批判を受けている」として、師岡康子と私の名前を挙げている。他方、憲法学界の外で政治的保守派が表現の自由を援用して規制に消極的な事実には違和感があると言う。「ここには、奇妙なねじれがある」という。
次に、民事訴訟の意義について、刑事規制と比較を通じて特徴を明らかにする。
曽我部は、繰り返し京都朝鮮学校事件に言及し、現場で警察官が街宣活動をせず、「マイノリティの地位や権利に対する無理解に起因するバイアス」を指摘し、それゆえ、「刑事規制を設けても本来の目的を熱心に追求するあまり過度に取り締まりがなされるようなことは想定しがたく、逆に、十分な適用がなされないかもしれない」と推測する。
また、京都朝鮮学校事件では「相当数の弁護士や法学者といった法律家が関わり、重要な役割を果たしていた」ことの意義を論じている。
その上で、曽我部は、「刑事規制の余地を完全に否定する必要はないものの、重層的な対応のうち主要なものの1つとして、当事者が自律性をもって権利あるいは地位を獲得していくプロセスとしての民事訴訟の可能性を追求することには重要な意義があるということになる」としつつ、「行政にもしかるべき役割がある」とし、大阪市条例を引き合いに出す。
民事訴訟の意義を論じることが主題であり、短い論文なので、ヘイト・スピーチに関する曽我部の見解が詳しく述べられているというわけではない。曽我部には、ヘイト・スピーチに関する他の諸論文があるので、それらも見る必要がある。
思い付きだが、若干のコメントをしておこう。
第1に、曽我部は京都朝鮮学校事件を代表例として論じているが、京都朝鮮学校事件をヘイト・スピーチの代表例とすることが果たして適切だろうか。曽我部だけではなく、マスコミも多くの憲法学者も、京都朝鮮学校事件を代表例としてきた。しかし、威力業務妨害罪と器物損壊罪で有罪が確定した事件をヘイト・スピーチの代表とするのは疑問である。法的定義を踏まえないマスコミはともかくとして、法学者がこうした議論をしているのは奇妙なことである。おまけに曽我部論文はヘイト・スピーチの定義をしていない。
第2に、「ここには、奇妙なねじれがある」という指摘はもっともである。リベラルな憲法学と反差別運動論との間の「ねじれ」。及び、リベラルな憲法学と政治的保守派の議論の間の「ねじれ」。前者のねじれについては、憲法13条や14条をどう見るのかを論じる必要があるはずだが、曽我部はそこには立ち入らない。
第3に、警察の姿勢について、現場で警察官が街宣活動をせず、「マイノリティの地位や権利に対する無理解に起因するバイアス」があるとの指摘はもっともであり、「刑事規制を設けても本来の目的を熱心に追求するあまり過度に取り締まりがなされるようなことは想定しがたく、逆に、十分な適用がなされないかもしれない」との推測もありうることではある。しかし、同時に、2016年のヘイト・スピーチ解消法の制定によって警察の姿勢がドラスティックに変化したように、より広い視野で物事を考えるべきである。ヘイト・スピーチ刑事規制は、それだけで現象するのではなく、その周辺の事情をも変えるのである。その認識抜きに、単純な推測をするのは必ずしも適切とは言えない。差別とヘイトをなくすための総合的法規制の検討こそ重要である。