Friday, April 05, 2019

桐山襲を読む(2)100年の大逆のクロニクル


桐山襲『風のクロニクル』(河出書房新社、1985年)


5つの「通信」に記された1968年の学園紛争の情景と、100年前の祖父の世代の神社合祀阻止の闘いの二重構造の物語である。

学園紛争の情景も、主人公とその仲間たちの出会いから別離に至る小説本文と、「劇中劇」として主人公によって綴られる演劇によって、並行して進行する。

党派の論理を超えてつくり出されるはずだった全共闘の論理の破綻。権力との闘い、<革命の葬儀屋>との闘い。闘争の中の恋。心身ともに傷つき、言葉を失って回復不能の<語れない石>となって故郷へと帰る若者。その故郷においてかつて闘われたはずの神社合祀阻止の闘い。6万6000もの民衆の神々の殺戮と、天皇の神々による支配。破壊された神社、再建する神官、<語れない石>となった孫の根拠地。<革命の葬儀屋>に肉体的に破壊された彼女の故郷・沖縄の地への訪問。

桐山の想像力は、学園闘争における権力との闘いと、100年前の神社合祀阻止の闘いを繋ぎ合わせ、そこに沖縄の神女をも繋げてみせる。パルチザン伝説やその後の「亡命」の地として演出された「沖縄」。パルチザン伝説では双子の兄が言葉を失い、クロニクルではNが言葉を失う。儚くついえた夢と闘いの果てに言葉を失う青年を桐山は繰り返し提示する。ここに南方熊楠と柳田国男を絡ませるのだから、なかなか用意周到だ。


「1970年代の丁度中間の年に<語れない石>となったきみが、この国の現在に甦らせようとしているもの――それは、<東方の祭王>によって滅ぼされたT村の神であるかも知れず、またその神を守る者として<体じゅうの穴から血を流した姿>となった祖父であるかも知れない。或いは、弟の身代わりとなるかのように土の中に埋められた<姉>であるかも知れず、また<革命の葬儀屋>によって殺害されていった彼女であるかも知れない。それが孰れであるか、僕は知ることがないのだが、祖父の年代と僕たちの年代を貫いて、この国そのものを否定するために、共通の血を流し、共通の死を死んだ者たちのために、きみはその死者たちと出逢い、その死者たちの意志を継承する場所――僕たちの時代の<黄泉帰りの場所>とでも呼ぶべきものを、あの神山の奥に定めたのではないだろうか?」


かくして桐山は、大江健三郎の『万延元年のフットボール』や『同時代ゲーム』の世界に足を踏み入れたわけだが、作品の仕上がりとしては、まだまだ、と言うところだろう。

100年の大逆のクロニクルを描くには、160頁の本作では不十分である。分量だけではない。父の世代の闘いの素描があまりにあっけないのが一つ。僕たちの世代の闘いはやや具体性を帯びているが、学生会館占拠闘争の断片にとどまる。そして、100年の大逆のつながりの必然性がよく見えない。

本書は初めて読んだ。パルチザン伝説でデヴューした桐山の35歳の構想力と、文体が確立されていく過程の記念碑と言うべきだろうか。