星野智幸『虹とクロエの物語』(河出書房新社、2006年)
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朝日新聞6月6日朝刊に、星野が「コロナ禍読書日記」を書いている。「私はゾンビ映画を好きなのだけど、ゾンビ映画の世界の原則は、『怖いのはゾンビより人間』である」と書き出す。ゾンビの襲来にもかかわらず、人間は「醜悪ないがみあい」を始めるからだ。なるほど、と思う。
『虹とクロエの物語』には、ゾンビではないが、「吸血鬼」のユウジが登場する。4人の「人物」視点での語りで物語が進行するが、表題の「虹とクロエ」の虹子と黒衣は、高校時代にサッカーボールをけりあった親友だった。この2人が流れ着いた「無人島」に隠れていた「吸血鬼」のユウジ。そしてユウジとクロエの間に生まれるはずが、生まれてこないまま「妊娠二十年の胎児」の「わたし」。この4人の視点で、過去を振り返り、出遭いとすれ違いと別れが物語を作る。
虹とクロエは高校を卒業して、別の大学、別の道を進み、ユウジとの交錯を経て、遠く離れていく。40歳を迎えて、高校の同窓会で出会い直しを試みるが、すれ違いを確認することになる。胎児のわたしには、20年の歳月があるわけではなく、永い眠りの後の目覚めとともに、一気に「妊娠二十年の胎児」として自我に目覚める。この3人には20年の歳月はいちおう流れたが、歴史ではなく、現在が語られると言って良い。他方、ユウジは「吸血鬼一族」の歴史を背負っているが、その血を絶やすために人間世界から逃れ、島に引きこもることによって歴史を喪失していく。失われた歴史は戻らないが、虹とクロエが「過去を背負ったまま、現在から再スタートする」ことはできる。そうして「わたし」にも過去が紡ぎあげられることになる。
この不思議な物語で、星野が何を言おうとしたのか。私はいまも掴みかねている。1965年生まれの星野の世代は、高度成長からバブルの時代に青春を謳歌できたが、1990年代の「失われた10年」、それに引き続く「失われた20年」に直面して、2005年に40歳を迎えようとしていた。社会の中軸として活躍する年代になって、いまなお大人になれない自分たちを発見することを余儀なくされたということだろうか。それでも、人はそれぞれの人生を生きなければならない。切り拓いていかなければならない。「青春小説」ではなく、「青春回想小説」でもなく、「青春やり直し小説」でもなく。