Monday, November 22, 2010

虚妄の民衆思想(2)

『無罪!』67号(2010年11月)/法の廃墟36

花崎平『田中正造と民衆思想の継承』(七つ森書館、二〇一〇年)に見られる花崎民衆思想とは侵略容認の民衆思想にほかならない、というのが前回の暫定的結論であった。同じことを別の視点で確認していこう。花崎は、民衆思想家として四人の男性思想家をとりあげる。男女平等が、正造の言葉でも花崎自身の言葉でも示されるが、アリバイづくりの印象を否めない。「四〇年以上にわたるライフワークの集大成」として四人の男性思想家だけを取り上げているのだから、女性思想家は取り上げるに値しないと判断したということだ。石牟礼道子、森崎和江、田中美津の名前だけは記している(二二七頁)が、人物や思想について紹介も検討もしない。その必要はないというのだ。いささか揚げ足取りであるが、このことをしっかりと確認しておきたい。次の論点にかかわるからである。

正造の「妾問題」

 江刺県官吏時代、一八七一年、三〇歳の正造は、一四~五歳の少女を妾とし、少女と同棲生活をしている。地元の人間から繰り返し批判されたが、「正造はそれらの意見、忠告を意に介さなかった」。このことは東海林吉郎『歴史よ 人民のために歩め--田中正造の思想と行動』(太平出版社、一九七四年)で指摘されているという。

花崎はその紹介した上で、東海林の本について「しばしば推測を加えた断定的な結論を下している憾みがある」と批判している(四一頁)。ところが、花崎は、正造が妾をもった事実を否定する根拠・資料について何も述べていない。正造が周囲から批判された事実を否定する事実も述べていない。東海林の著述のどこが「しばしば推測」なのか具体例を一つも指摘していない。本書の読者には何が何だかわからないようになっている。

一八七一年当時の日本社会において妾がどのように見られていたのか、妾を持つことがどのように評価されていたのかはここでは重要ではない。正造が妾を持ったことを現在の価値観から評価することも、とりあえずここでの課題ではない。

重要なのは、正造の思想と行動それ自体ではなく、二〇一〇年の現在、このような記述をしている花崎の思想である。東海林による正造への批判的言及に対して、事実に基づく反論をせずに「しばしば推測」とレッテルを貼ることによって花崎は何をしているのか。妾問題の焦点をずらしているに過ぎない。何のために焦点ずらしをしているのか。「妾問題」を前にして、精神のバランスを失っている花崎を見ることになったのは残念である。

花崎の正造「民衆思想」論の中心は、著作の第六章、第七章に詳しく紹介されている。「無私、無所有、無宿の生活」というものである。

正造は、各地を転々と訪ね歩き、支持者の家に宿泊しながら調査と活動を続けた。では、正造は、どこで何を食べて生きていたのであろうか。花崎の記述からわかることは、ほとんどの場合、正造は支持者の家で食事をしていたであろうことだ。もちろん、支持者たちは正造を歓迎し、喜んで食事を提供したであろう。正造は、農民たちのために懸命に調査と活動をしていたのだ。これは正造ほどの人物であるが故に可能となったことである。

ここでの問題は、家事労働なき正造の生活とその上に成り立っている思想を「民衆思想」と呼ぶことが適切かどうかである。これは、特権的な高等遊民の思想としか呼びようがないのではないだろうか(善し悪しを問題にしているのではない)。当時、家事労働を担ったのは誰か。封建制の残滓を色濃く残していた農民たちの生活の現実の中で、個人の判断など抜きに、女性たちが家事労働専門の役割を与えられていたことは明らかである。正造が女性たちの家事労働を搾取した、などと言いたいのではない。正造の無私の闘いに感銘を受けて、正造のために女性も男性も懸命に尽くしたであろうことは間違いない。

ともあれ、女性たちの家事労働の上に正造の高等遊民生活が可能となっていた。このことに花崎は全く言及していない。そして、「民衆思想」を語るのである。

「民衆思想」とは何か

 はたして花崎/正造の「民衆思想」とは何であろうか。花崎は「晩年の田中正造は、無私、無所有、無宿の生活に徹底していた。そこから発せられる言葉は透徹し、単純で誇り高く、一切を捨てた虚心、虚位の精神的自由の境地を現している」(九五頁)と言う。「定住する家はもちろんのこと、着替えの衣服さえ持たず、村から村へ、或いは町へ、一ヶ所に一晩以上滞在することもあまりなく文字どおり行脚する日常」(九六頁)とも言う。直訴事件以後の正造の思想の発展について、第六章、第七章で詳しく論じている。

ただちに疑問がわく。いったいどこが「民衆思想」なのだろうか。確かに正造は民衆の側に身を置き、民衆とともに闘った。正造は、日清戦争認識(侵略戦争を容認したこと)はともかくとして、基本的に民衆の平和、平穏、生活、暮らしを守り、権力の横暴を批判し、闘いつづけた。このことに疑問をさしはさむ必要はない。

しかし、正造の思想は「民衆思想」ではないと言うべきだろう。正造の生活は民衆の生活とは無縁だからである。民衆には生産があり、現実の生活がある。正造はあちこち流転し、各地の支持者の家に宿泊し、運動や調査をしながら移動して行った。高等遊民のごとく民衆の生活に寄宿していたのである。元国会議員でありながら民衆のために闘い続ける正造であるがゆえに、数多くの支持者に支えられていたのである。無私、無所有、無宿の思想は、民衆の生活実践とは関係のない思想である。民衆とともにありつつ、けっして民衆にはなれなかった正造の独自の思想である。それを高く評価するのは理解できるとしても、「民衆思想」と呼ぶのはレッテル詐欺でしかないだろう。レトリックだけなら、正造と農民全体が一つの共同体であったという形で説明することは一応はできるだろう。しかし「女性差別構造の上に乗っかった民衆思想」「女性差別容認の民衆思想」にとどまると言わざるを得ない。

 花崎は、随所で「これが民衆思想だ」と断定しているが、「なぜ」「民衆思想」であるのか説明がほとんどない。正造の思想が重要であるということは理解できるが、これが「民衆思想」であると断定されても、疑念が残る。花崎/正造の「民衆思想」とはいったい何なのだろうか。花崎は「私が知る限りの民衆思想家は、軍備全廃、戦争反対論者であり、(新井)奥邃も民衆思想家の共通の非暴力平和主義を基調に置いていた」(一六一頁)と述べている。しかし、先に紹介したように、正造は「日清戦争によって国民の正直を発見したとして『戦争、国民万歳』と日清戦争を肯定している」と書いていた(五三頁)。「戦争万歳」と言う戦争反対論者――アジアに対する侵略戦争を容認し、女性差別を容認する花崎/正造の「民衆思想」とは何なのだろうか。