Monday, January 03, 2011

ガダルカナルの空と海に

ガダルカナルの空と海に

ガ島の慰霊碑

 ガダルカナルといえば「ガ島=餓島」だ。第二次大戦時、日本軍兵士が飢えとマラリアで倒れ、無残な死に方をした犬死の島だ。でも、それだけだろうか。

 ガダルカナル島はソロモン諸島の主島で、北部のホニアラが首都だ。

ソロモン諸島といえば、ソロモン沖海戦も知られる。ソロモン諸島周辺で日本海軍と連合軍の死闘が繰り広げられた。一九四二年八月八日~九日のサボ島沖海戦と、八月二四日の東部ソロモン海戦が有名だが、ルンガ沖海戦も続く。このためソロモン諸島海域、特にルンガ岬手前には数多くの艦船が沈没したまま眠っている。ダイバーにとっては最高のスポットとなっている。

 ガダルカナル島には「地獄の門」「アウステン山」「血まみれの丘」「タンベア」「エスペランサ岬」などに激戦の跡地がある。ホニアラでタクシーを雇って、地獄の門やタンベアを一日でまわってみた。

 ホニアラ東部の海岸で上陸作戦が戦われた。猛烈な機銃掃射で日本軍をなぎ倒した米軍だが、撃っても撃っても、次から次へとバンザイ突撃してくる日本軍に音を上げたという。まるで生き地獄なので地獄の門と呼ばれた海岸に、今は何もない。忘れ去られた小さな入り江だ。

 アウステン山麓のヘンダーソン空港争奪戦は文字通りの死闘となった。山の斜面の草むらに潜んで敵の視線をかいくぐりながらの戦闘だ。結局、数知れぬ日本兵がここで飢え死にした。丘の頂上に「ガ島戦没者慰霊碑」が建てられている。アウステン山には「平和公園」とも称する慰霊碑と像が建立されている。でも、なぜか、不思議な気がする。

 いったん激突を回避して西部に展開した日本軍はタンベア海岸やエスペランサ岬に出たが、ほとんどがマラリアに倒れ、死者が続出した。世界有数のマラリア地帯なのだ。まさに犬死だ。もとより日本兵に人権などなかった。

ホニアラからタンベアは地図の上ではそう遠くないが、舗装道路はなく、砂利道や泥道を、ジャングルを越えていく。タンベアにも慰霊碑がある。

 帰路につく前に日が暮れてしまった。帰りはジャングルの真っ暗闇をタクシーで駆け抜けたが、泥道にタイヤがスリップするたびに降りて後ろから車を押す羽目になった。世界有数のマラリア地帯で、全身、蚊に刺されてほうほうの体で帰ってきた。

 アウステン山にもタンベアにも日本軍慰霊碑がある。激戦地となった各地に慰霊碑がある。サイパンにも、タラワにも、マキンにもあるという。民間人が建立したので正確にはわからないが、厚労省が把握しているだけでもアジア太平洋地域に一六〇〇ほどあるそうだ。――でも、何かおかしくないか。

 第一、「死んだら九段下で会おう」、じゃなかったのか。「英霊」は靖国神社に還ったのじゃないのか。それなら現地に日本兵の霊はいない。残っていたら、悪霊だろう。そこに慰霊碑を建ててどうする。

戦争神社靖国

 靖国神社の思想は、天皇制軍国主義そのものだ。安上がりの国民を使い捨てにするだけではなく、植民地主義を支える思想である。抵抗する者には徹底した殺戮と弾圧の嵐となるが、服属する者には「大御心」からの恩恵が下賜される。陛下のために死んだ者には靖国への合祀が保証される。次の戦争のために。

 ガ島をはじめとするアジア太平洋各地の島や海に散った日本軍兵士は、御国のために戦った「英霊」として靖国に合祀される。ニューギニア、キリバスのタラワ・マキン、パラオのペリリュー島、硫黄島・・・至るところに激戦の跡があるが、「英霊」は靖国に還ったはずだ。

 ところが各地に日本軍慰霊碑が建立されている。日本政府ではなく、ほとんどが旧軍人や遺族など民間人が立てたものだ。サイパンにはずらりと多数の慰霊碑が並んでいる。部隊ごとに、あるいは都道府県ごとに、建てたからだ。

 いくつもの疑問がある。

 第一に、「英霊」は靖国に還っているのに、なぜ南太平洋に一六〇〇もの慰霊碑なのか。遥かなる南太平洋の地、ジャングルを超えてようやくたどり着くような場所に、なぜわざわざ慰霊碑なのか。誰も靖国の思想など信じてはいないのだろうか。無論、慰霊碑はもともと死者のためではなく、生者のために建てるものだ。戦友や家族が落命した地を訪れて慰霊を行いたいという「自然」な感情によるのかもしれない。

 第二に、日本人はなぜ日本人の慰霊碑だけを建てるのか。アジア太平洋各地で落命したのは、日本軍人だけではない。おびただしい朝鮮人が軍属として派遣され、各地で落命している。タラワ島では二〇〇〇名とも言われる。当時は日本人だったという理由をつけて、遺族の思いを踏みにじって靖国に祭り上げながら、日本人は日本人の慰霊碑だけを建てる。ガダルカナルにもサイパンにも、朝鮮人軍属の慰霊碑を見ることがない。かろうじてタラワ島のベシオに朝鮮人軍属の慰霊碑がある。在日朝鮮人のタラワ・マキン島同胞犠牲者遺族会の建立だ。一部の日本人も協力したとはいえ。

 さらに言えば、旧軍人や遺族などによる遺骨収集団のいかがわしさだ。遺骨収集団には厚生省(現・厚労省)が直接手を出している。太平洋諸島における遺骨収集に際して、日本人の遺骨と朝鮮人の遺骨をどうやって区別し、判定したのだろうか。日本各地の寺院などには強制連行・強制労働された朝鮮人の遺骨が保管されてきた。きちんと保管し慰霊を行ってきた例もあるが、多くは杜撰な状態だった。朝鮮人遺骨の返還が行われるようになったのは、ごく最近のことだ。アジア太平洋ではどうか。遺骨窃盗団ではないのか。

 第三に、六〇年もの歳月が流れたため、旧軍人はもとより遺族も高齢化して、現地訪問団はどんどん減少している。悪路難路を越えて訪れるのはごく僅かの人々に過ぎない。そうなると、一六〇〇もの慰霊碑は、まともな管理もされず、単なる迷惑施設として残ることになる。

日本軍と戦った英雄像

 日本軍慰霊碑の多くはいまやろくな管理体制もなしに、アジア太平洋の各地に放置されようとしている。現地の人々には迷惑施設でしかないだろう。

 ここまで考えてくると、参考になる二つの慰霊碑に気づく。

 まず、ガダルカナルのアウステン山にある米軍慰霊碑だ。ソロモン沖海戦でも、アウステン山でも、地獄の門でも、多数の米軍兵士が斃れた。後の大統領ジョン・F・ケネディもここで危うく命を落とすところを現地の人々に救われた話は有名だ。アウステン山の高台にある米軍慰霊碑は小さな公園となっている。

 日本人は日本人の慰霊碑を建て、アメリカ人はアメリカ人の慰霊碑を建てた。しかし、明らかな違いがある。米軍慰霊碑はきちんと管理されている。現地の人物が依頼を受けて管理人となり、朝夕に門の開閉を行う。訪問者には記帳してもらい、記録を残している。そして昼間は星条旗が風になびいている。清潔に掃除されていて、爽やかな気持ちで立つと、眼下にホニアラの海がキラキラと輝いている。その海に米軍艦船も眠っている。

 アウステン山の日本軍慰霊碑は白亜のモニュメントだが、ふだんは落書きだらけである。銘板も外されている。門塀もなく、管理がなされていない。日本から慰霊団が訪れるときにはきちんと掃除し、落書きも消されるのだろうが、いつまで続くことやら。

 現地の人々のことを考えてみよう。日本軍人の回想録を読むと、南洋の島々で日本軍と連合軍が戦った話ばかりである。しかし、無人島だったわけではない。現地の人々を巻き添えにした戦争だった。

 故郷の島をめちゃくちゃに破壊されたパラオの人々は日本に補償要求を出していたが、無視されたままである。赤道直下のトゥヴァルにも一度だけ日本軍による空襲があり、一人亡くなっているが補償はない。ナウルは日本軍に占領され、多数の人々がトラック島に強制移送され、甚大な被害を受けた。逆にバナバ島(キリバス共和国)の人々がナウルやフィジーに強制移送され、共同体が崩壊した。ポナペでもロタでもオーシャン諸島でも、至るところで現地人が虐殺されている。でも、日本人にとって、そんなことはどうでもいいことだ。太平洋諸島の人間をいくら殺そうが気にする必要はない――。

 南太平洋大学が調査し、出版した『大量死――ソロモン諸島人は第二次大戦を記憶する』には、ソロモン諸島人が日本軍と戦った証言が収録されている。ウィリアム・ベネットとジョージ・マエラは戦争英雄として有名だ。

 ベネットは、一九二〇年、サンタイザベル島のキア村生まれ。父親はニュージーランド人、母親がソロモン人。ソロモン行政区ドナルド・ケネディ隊第二指揮官として日本軍と戦った。サンジョルジ島のケバンガや、当時の首都ツラギや、セゲでの戦闘に加わった。

 マエラは、一九二四年生まれで、英軍ソロモン守備隊の一員として戦った。日本軍が村々から食料を強奪したこと、ジャングルの消耗戦を戦いぬいて生き延びたことが語られる。

 『大量死』によると、ガダルカナルでの死者は、日本軍一九〇〇〇人、米軍五〇〇〇人、ソロモン諸島人は不明であるという。誰も数えなかったのだ。

 首都ホニアラの中心に、一九八九年に建立された「ヴーザ像」がある。ジェイコブ・チャールズ・ヴーザ(一八九二年~一九八四年)は、米英連合軍に協力して日本軍と闘った現地部隊のリーダーである。ガダルカナルからブーゲンヴィルに至る戦線を闘いぬいた。ヴーザは手に斧を持って身構えながら、北の海を見据えている。日本軍は北からやってきたからである。英雄ヴーザが亡くなると、旧連合国がこの像を建立したのだ。今も花束に覆われている。

 日本は日本軍人の慰霊碑だけを建て、米英はソロモン諸島人の立派な銅像を建てる。この違いは、何か。

雑誌「イオ」2009年12月号