Thursday, April 14, 2011

「北方領土」とアイヌ民族の権利(2)

「固有の領土」という虚構



 一二月一七日、沖縄県石垣市議会は「尖閣諸島はわが国固有の領土である」として「尖閣諸島開拓の日」を定める条例を可決した。これに対して中国外務省は「中国の釣魚島の領土、主権を侵すたくらみは無駄で無効だ」という談話を発表した。竹島(独島)を日本領土として「竹島の日」を定めた島根県条例と同様に、石垣市の決定はまったく不適切である。仮に「尖閣諸島は沖縄/琉球に属してきた」という立場に立ったとしても、石垣市議会の行為は愚劣と言うしかない。


 第一に、日中の政治的対立が生じている渦中に一方的な主張を並べ立てても、紛争と対立をいっそう煽る結果にしかならない。第二に、他者との協議を否定し、他者の存在すら無視する姿勢は国際的な信頼を損なうだけである。日中関係だけでなく、東アジアにおいてかつて日本人は他者を見下し、無視してきたが、同じことを繰り返している。第三に、「固有の領土」などという主張は国際社会に通用しない。国際法上もそのような考え方は採用されていない。石垣市議会は国際法を無視した主張をしている。国際社会の常識を無視し、他者の存在も無視して、内向きの自己主張を漫然と繰り返す姿勢は、日本政府と相似している。というよりも、日本政府・外務省やネット右翼の珍奇な主張を反復しているに過ぎない。


 「北方領土」についても日本政府は同様の主張を執拗に繰り返してきた。


北方四島は、歴史的にみても、一度も外国の領土になったことがない我が国固有の領土であり、また、国際的諸取決めからみても、我が国に帰属すべき領土であることは疑う余地もありません。北方領土問題とは、先の大戦後、六〇年以上が経過した今も、なお、ロシアの不法占拠の下に置かれている我が国固有の領土である北方四島の返還を一日も早く実現するという、まさに国家の主権にかかわる重大な課題です。」(内閣府北方対策本部見解)


もともと「固有の領土」概念は、北方領土や米軍政下の小笠原諸島について現状を説明するために日本政府がひねり出した言葉に過ぎない。それが竹島や尖閣諸島にも転用されるようになった。国内向けには、一見するとわかりやすい言葉であり、世論もそのまま受け容れているようだ。しかし少し考えれば無意味な言葉であるとわかる。奈良や京都や大阪について「わが国固有の領土」と言うことはない。必要がない。この言葉を用いるのは北方領土、竹島、尖閣諸島である。つまり、領土紛争のある場で用いられている。領土紛争は両当事者間の関係で決まる。他者との関係抜きに「わが国固有の領土」など成立するはずもない。内向きの政府が国民をさらにいっそう内側に囲い込んで、常識と非常識の区別すらつかないようにしてしまった。


北方領土(南千島)は一度もロシアなど他国の領土になったことがなく、近代国家としては日本以外に所属した可能性を論じるまでもないのは事実である。しかし、南千島にしても北海道にしても、もとはアイヌ民族が先住してきた地域である。アイヌモシリがいつ、なぜ「日本の固有の領土」になったのか。日ロ間の外交による国境線引きは日ロ間の話に過ぎない。アイヌ民族とかかわりのないところで勝手に線を引いただけである。



逆さの鏡に映った固有



 先住民族の法律家であるロバート・ミラー、ジャチンタ・ルル、ラリサ・ベーレント、トレイシー・リンドバーグの『先住民の土地を発見する――イギリス植民地における発見の法理』(オクスフォード大学出版、二〇一〇年)において、ロバート・ミラーは、英米における発見の法理の要素を検証した(前号参照)。同様に、トレイシー・リンドバーグの論文「カナダにおける発見の法理」を見てみよう。


リンドバーグによると、「大地は我等の母である」という先住民族の観念はステレオタイプに誤解されがちだが、先住民族と土地との関係を理解するためには、西欧的観念をいったん脇に置く必要がある。多くの先住民族文化においては、大地は生きていて、生活の糧を与えてくれる。大地はすべての生き物に生命を授ける。その意味で大地は母親である。誰も母親を所有することはできない。誰も母親を取り除いたり、他人に与えたりできない。先住民族は他の民族とさまざまな協定を結んできたが、協定によって先住民族と土地との関係を変更することはできない。先住民族と土地との関係を理解するためには「固有(inherency)」を観念する必要がある。その土地に伝来生活してきた先住民族の土地との関係である。


リンドバーグによると、先住民族の「固有」を破壊し、排除してきたのが「発見の法理」であった。発見の法理とは、植民者の信念体系と、その信念体系に基づく自己の制度(法、経済、政府)の優越性を合法化(rightfulness)、正当化(righteousness)するために共有された理論ドグマである。発見の法理は優越性という人種主義哲学に起源を有する。旧世界のキリスト者が新世界の異端者を劣等視するための理論である。宗教、言語、法など近代的思考が総動員され、「善と悪、合法と不法、正当と不道徳、土地所有者と占有者」が恣意的に配分される。カナダでは一四九七年のヘンリー七世がジョン・カボットに与えた征服条例が端緒となった。


リンドバーグは、カナダにおける発見の法理を八つの要素によって説明する。


1. 西欧人による最初の発見という主張


2. 植民者によって取り引きされる国民と国民


3. 現実の占有と所有


4. 西欧人の土地所有であるという主張


5. インディアンの土地所有観念の創設


6. 先住民族の主権を制限する試み


7. 国内化・一国化(キリスト教、同化、強奪)


8. 発見によって制限された主権概念の発展


 ジョン・カボットに続いて、ジャック・カルティエがニューファンドランドに移植し、カナダにおける発見の法理が猛威を振るう。植民者の信念はやがて憲法となり、法となり、判例となり、すべての者を拘束していった。


リンドバーグによると、発見の法理は今日もカナダ法にしっかりと根付いている。先住民族の哲学や法観念はカナダ法によっては吟味されない。帝国主義植民者の言語、彼らの法的言語は先住民族にとっては疎遠な言語にすぎない。先住民族の法秩序にとっては違法な敵対物に過ぎない。植民者が用いる「固有」は、逆さの鏡に映った非-人道性である。カナダ法と先住民族の法の相互関係性において、法、合法、違法の基準を評価しなおす必要がある。この意味で、カナダ法史なるものは、いまだ歴史となりえていない。


先住民族の土地観念としての「固有」を、現代国家日本が国際関係の中で用いることの倒錯性が、ここで明らかになる。日本政府の「固有」なるものは逆立ちした観念であり、アイヌ民族に対する非-人道的支配の明証である。アイヌ民族がシャモに対して用いる時に初めて「固有」という言葉に息が吹き込まれるのだ。




「救援」501号(2011年1月)