Sunday, December 29, 2013

彗星的思考とは何か

平井玄『彗星的思考――アンダーグラウンド群衆史』(平凡社)――――『愛と憎しみの新宿』『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』の著者による、現代日本における群衆運動の現状と思想を探る快著である。3.11以後、高円寺、渋谷、新宿に湧いて出た脱原発を求める群衆の抗いの渦中において、著者は、路上の思索者としてデモ、占拠、蜂起の意味を再考し、近代日本における群衆の可能性とその抑圧の歴史を反芻し、次へ向けての模索を続ける。「半径一キロ」からの「惑星蜂起」に始まり、「宇宙の憲法」「敵対線を引き直す」「彗星になること」に終わる本書は、群衆科学、野次馬と「ええじゃないか」を潜り抜け、オーギュスト・ブランキ、竹内好、谷川雁、平岡正明を召喚する。忘れられた思想家と言っては言い過ぎかもしれないが、いま、なぜ平岡正明なのかは、なお不分明ではある。著者の視線は、福島や新宿や日比谷公園だけではなく、ニューヨークや、タハリール広場など、この惑星の群衆の闘いにも向けられる。国民、人民、平民、大衆、民衆、マルチチュードではなく、群衆である(著者は民衆という語も用いるが、基本的に群衆を採用している)。ジャズ・ファンであり音楽評論家でもある著者は、キップ・ハンラハン、オーネット・コールマンを論じつつ、スーダラ節とは何だったかも明かす。私ならこの10月に他界したルー・リード率いたベルベット・アンダーグラウンドから始めたいところだ。「ベンヤミンの天使」は「ブランキの彗星」から生まれたのではないか?との問いは新鮮だ。パウル・クレーの天使のベンヤミンによる再解釈に対して、私はクレーの指人形たちをもとに「振り向く天使」の視点を強調してきた。歴史的現在を生きる思索者にとって、ベンヤミンの天使を吹き飛ばす彗星の可能性は重要である。近代日本における非国民の系譜を模索してきた私にとって、彗星のごとく飛翔する群衆の思想にいかなる現実的可能性があるのか、とても気になるところだ。著者の思索がどこへ向けて放たれ、何と衝突してどのようにスパークするのか、次の著書が楽しみだ。