Wednesday, December 02, 2015

朴裕河訴追問題を考える(4)言論の責任について

(4)言論の責任について

「知識人」の抗議声明は次のように述べる。「検察庁という公権力が特定の歴史観をもとに学問や言論の自由を封圧する挙に出たからです。何を事実として認定し、いかに歴史を解釈するかは学問の自由にかかわる問題です。特定の個人を誹謗したり、暴力を扇動したりするようなものは別として、言論に対しては言論で対抗すべきであり、学問の場に公権力が踏み込むべきでないのは、近代民主主義の基本原理ではないでしょうか。なぜなら学問や言論の活発な展開こそ、健全な世論の形成に大事な材料を提供し、社会に滋養を与えるものだからです。」

完全な間違いである。ここまで非常識な間違いを書き並べる能力には感嘆するしかない。

(A)集団名誉毀損・集団侮辱の処罰は西欧では当たり前である。

(1)「虚偽の事実」に基づいて、「慰安婦」とされた女性たちの名誉を毀損し、人間の尊厳を傷つける行為を「言論の自由」などといって正当化することはできない。

(2)西欧諸国の刑法では、著書、論文、新聞記事、インターネット上の書き込み、公開演説など、いずれであっても名誉毀損罪が成立することがある。刑法の専門家でなくても、少し調べればわかることである。例えば、ヒトラーの『我が闘争』を出版することを犯罪とする国があることは常識の部類に属する。ラジオ放送で『我が闘争』を朗読したためにラジオ局を閉鎖するかどうかが話題になることもある。あるいは、フランスのマリー・ルペン国民戦線党首のイスラム差別発言も刑事事件になったことが、日本でも報道さ れた。イタリアの政治家が選挙演説で「最近外国人が流入して増えて困る。地元の若者が就職できない」という趣旨の発言をして有罪判決が出ている。西欧では当たり前のことだ。

(3)抗議声明は「特定の個人を誹謗した」場合は「別として」刑事規制できないのは「近代民主主義の基本原理」と言う。これは日本刑法の解釈として、刑法230条の名誉毀損罪の成立が、特定の個人に対する名誉毀損のみを指していることに対応する。
 しかし、西欧諸国の刑法では、「特定の個人」だけでなく、「集団」に対する名誉毀損罪を認める例がある。 例えば、ドイツ刑法の条文は日本刑法と同様に人に対する名誉毀損としているが、人には一定の集団が含まれると解釈できる。日本刑法の名誉毀損罪の人も集団と解釈することができるのに、たまたま日本では個人と解釈されて来たに過ぎない。「特定の個人を誹謗した」場合以外は刑事訴追できないという特殊日本的な理解を「近代民主主義の基本原理」などと見ることはできない。

(B)ヘイト・スピーチ(差別煽動犯罪)処罰は欧州諸国の常識である。

上記の集団名誉毀損・集団侮辱も含めて、差別や暴力の煽動を処罰するのがヘイト・スピーチ処罰規定である。欧州の圧倒的多数の諸国の刑法典にヘイト・スピーチ処罰規定がある。ヘイト・スピーチ処罰は、殺人、放火、窃盗などと同じ基本的犯罪である。

抗議声明は「特定の個人を誹謗したり、暴力を扇動したりするようなものは別として」、処罰しないのが「近代民主主義の基本原理」だなどと、小手先のごまかしをしている。ここには、「個人を特定しなければ名誉毀損はお構いなし」「暴力を煽動しなければヘイト・スピーチはお構いなし」という「知識人」たちの異様な思想が鮮明に表明されている。

個人を特定せず、集団に対して行ってもヘイト・スピーチである。暴力を煽動しなくても、差別を煽動すれば ヘイト・スピーチである。欧州ではヘイト・スピーチの処罰は当たり前のことである。国際自由権規約も人種差別撤廃条約もヘイト・スピーチの処罰を求めているからだ。EU議会はすべての加盟国にヘイト・スピーチ処罰を要請した。

個人を特定せず、暴力を煽動しなくても、ヘイト・スピーチを処罰する例は、ドイツ、フランス、スイス、 オーストリア、ルクセンブルク、ベルギー、オランダ、リヒテンシュタイン、スペイン、ポルトガル、イタリア、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、アイスランドなどに見られる。東中欧諸国にも多数の例がある。

EU諸国はすべてヘイト・スピーチを処罰する。ヘイト・スピーチを処罰する法律は世界120カ国以上にある(前田朗『ヘイト・スピーチ法研究序説』三一書房、参照)。具体的な処罰事例も同書に多数紹介した。「処罰しないのが近代民主主義の基本原理」などというのは、近代民主主義について一度も考えたことのない「無知識人」によるデマである。

(C)言論の責任の無視は許されない。

「知識人」の抗議声明は言論の自由だけを唱え、言論の責任について述べない。すべての市民が言論の自由と責任を有するが、とりわけ学者や著名な作家には言論の責任が問われるべきである。ところが、全く逆に、「知識人」たちの抗議声明は言論の責任を無視する。

(1) 西欧諸国では言論の責任が自覚され、刑事裁判でも民事裁判でも長期にわたって議論がなされてきた。

(2)国際人権法では言論の責任が明示されている。国際自由権規約(市民的政治的権利に関する国際規約第19条は、1項で表現の自由の保障を明記する。
そして、第19条2項は「2の権利の行使に は、特別の義務及び責任を伴う。したがって、この権利の行使については、一定の制限を課すことができる。ただし、その制限は、法律に よって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。(a) 他の者の権利又は信用の尊重、(b) 国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護」としている。

(3)日本国憲法第21条は言論・表現の自由の保障を明記する。
 そして、日本国憲法第12条は、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負 ふ。」とする。
 日本国憲法ははっきりと、言論・表現の自由の制約原理を示している。それが言論・表現の自由の責任と言うものである。

にもかかわらず、「知識人」は言論の責任にまったく無自覚である。信じがたい陋劣ぶりである。

(D)「思想の自由市場」は虚妄にすぎず、名誉毀損事例に適用できない。

「言論に対しては言論で対抗すべき」などと言う暴論を振り回すべきではない。名誉毀損の被害者に「言論で対抗すべき」義務などない。「言論に対しては言論で対抗すべき」だなどという「近代民主主義の基本原理」は存在しない。

「言論に対しては言論で対抗すべき」というのは、アメリカ判例において形成されてきた思想の自由主義論に依拠したつもりなのだろう。ホームズ判事の言葉が有名であり、「あらゆる思想が市場に参入を許されるべきであり、いかなる思想を表現して良いかを国家が決めてはならない」という趣旨で理解されてきた。しかし、根本的に疑問だらけである。

(1)思想の自由市場論はアメリカにおいて採用された特殊な議論であり、多くの近代民主主義国家では、そのまま採用されていない。
(2)思想の自由市場論はいかなる国の憲法にも明示されていない。アメリカ判例が生み出したイデオロギーにすぎない。
(3)思想の自由市場論は社会科学的に検証されたことがない。経済的な自由市場論の比喩に過ぎない。
(4)思想の自由市場論は、具体的事実により反論されてきた。ナチスの優生学を思想の市場では排除できず、排除できたのはナチスの軍事的敗北によってであった。日本の殖民学を思想の市場では排除できず、排除できたのは大日本帝国の軍事的敗北によってであった。
(5)思想の自由市場論は、そもそも市場参入の平等性を実現できない以上、現実にあり得ないことである。 思想の自由市場への参入は、資本の有無・多寡に左右される。
(6)仮に思想の自由市場論が妥当する領域があるとしても、名誉毀損については妥当しないし、妥当してはならない。

「言論に対しては言論で対抗すべき」というのは、論争したい学者・研究者同士が論争する場合には妥当することがありうるが、一般的に妥当するとは言えない。まして、被害者を勝手に引きずり出すような暴論は許されない。


今回の結論:「知識人」の抗議声明は最初から最後までデマで成り立っている。

彼らはなぜデマを垂れ流してまで、韓国検察を非難し、「慰安婦」とされた女性たちを侮辱するのだろうか。