Friday, December 04, 2015

朴裕河訴追問題を考える(6)在宅起訴につて

(6)在宅起訴について

「知識人」の抗議声明は「今回さらに大きな衝撃を受けたのは、検察庁という公権力が特定の歴史観をもとに 学問や言論の自由を封圧する挙に出たからです。」と述べる。

いくつかのメディアは「韓国検察が朴裕河を在宅起訴した」と伝えた。違いは「在宅起訴」である。抗議声明はこれに言及しない。

抗議声明は、朴裕河訴追が言論や学問に対する弾圧であるかのごとく見せかけるために、次々と虚偽を並べ立てるが、他方で重要な事実を隠蔽する。

さらに、鄭栄桓によると「検察の報道資料によれば、民事の判決が出た後の4 月から10月にかけて「刑事調停」が行われた。」という。調停が不調に終わった結果、訴追された。朴裕河は不起訴の途を選択できたのに、あえて選択しなかったのだ。
http://kscykscy.exblog.jp/25144573/

抗議声明はこの事実にも口を塞ぐ。言論弾圧であると見せかけるために、被害を否定し、在宅起訴や刑事調停という重要事実を隠蔽する。

(1)身柄不拘束の原則

刑事訴訟法は任意捜査の原則に立っており、強制捜査は例外とされる。強制捜査とは、捜索、押収、逮捕、勾留などを指す。任意捜査は、任意の事情聴取、聞き込みなど、市民の捜査協力によって実現できる。

日本国憲法は31条以下で人身の自由を定めている。市民には人身の自由があるから、憲法第33条が逮捕について、第34条が勾留などについて明確に定めている。権力が市民の身柄を拘束するには、憲法に合致した法律上の根拠が必要なのだ。 人身の自由と無罪推定原則の必然的帰結である。

刑事訴訟法学で語られてきた身柄不拘束の原則は、一般には知られていないだろう。しかし、難しいことではない。ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』は文庫本で読めるのだから。

より詳しい理論は、例えば村井敏邦(一橋大学名誉教授)、葛野尋之(一橋大学教授)、豊崎七絵(九州大学教授)などの著書と論文参照。

(2)日本における過剰逮捕・勾留

ところが、日本警察は必要もないのに過剰な逮捕を行う。検察は機械的に勾留請求を行い、裁判所はこれを認めてしまう。

刑事訴訟法上の身柄拘束の要件である証拠隠滅の恐れも逃亡の恐れもないのに、逮捕・勾留が繰り返される。証拠が揃っていて、これ以上取調べの必要がない場合でさえ、逮捕・勾留がなされる。

今夏の国会前における戦争法案反対運動のなかでも、多数の市民が逮捕された。不当逮捕である。そして不当勾留が続いた。日本では、言論や集会に対する弾圧が繰り返し行われてきた。デモと集会の自由が抑圧されてきたことは、脱原発や戦争法反対の運動現場での逮捕を見れば明らかである。ヘイト・スピーチは野放しなのに、ヘイト・スピーチに反対するカウンターの市民が逮捕されている。沖縄辺野古でも不当逮捕が続いている。まさに今、目の前で、市民が弾圧被害を受けている。日本では身柄不拘束の原則が軽んじられている。

不当弾圧に対する抗議は「救援連絡センター」と仲間たちの活動を参照。私は救援連絡センターの運営委員であり、弾圧との闘いの末席に加わり、論文を多数書いてきた。

(3)朴裕河訴追の手続き

韓国検察は朴裕河の身柄を拘束しなかった。証拠隠滅の恐れもなく、逃亡の恐れもないから、身柄不拘束が当然であろう。朴裕河は逮捕されることなく、任意の取調べを受けた後に、在宅起訴された。穏当で適切な手続きと言うべきであろう。本件で、韓国検察は身柄不拘束の原則を尊重した。

日本と同様、韓国において、いつも身柄不拘束の原則が守られてきたわけではないだろう。民主化闘争に対する弾圧や、国家保安法の適用に際して、しばしば不当逮捕が繰り返されてきた。

しかし、朴裕河訴追に際して、韓国検察は適正な手続きを履行した。民主化闘争に対する弾圧や国家保安法による弾圧とは全く違って、被害者による告訴に始まった朴裕河訴追は単純に言論弾圧などと言えない。

(4)結論

日本「知識人」の抗議声明は、在宅起訴という重要な事実を隠蔽して、朴裕河訴追を不当弾圧であるかのごとく描き出した。不誠実な情報操作である。

抗議声明に賛同した「知識人」たちは、日本における身柄不拘束の原則の侵害・破壊に異を唱え、きちんと抗議してきただろうか。一部の例外を除いて54人の多くが、不当弾圧への抗議の場で見たことのない名前ばかりである。

日本における長年にわたる表現や集会への弾圧に沈黙してきた「知識人」が、韓国における身柄不拘束の原則を守った適切な刑事手続きを、口を極めて罵っているのはなぜなのか。