Monday, May 01, 2017

桧垣伸次『ヘイト・スピーチ規制の憲法学的考察』を読む(2)

桧垣伸次『ヘイト・スピーチ規制の憲法学的考察――表現の自由のジレンマ』(法律文化社、2017年)
1ヘイト・スピーチ規制論における批判的人種理論
桧垣は、ヘイト・スピーチをめぐるアメリカの判例、学説――特に批判的人種理論を中心に紹介。検討する。
その際、冒頭で「ヘイト・スピーチの背後にあるのは人種差別問題である。」とし、世界的な人種差別問題と、これに対する人種差別撤廃条約等の国際社会の地理組に言及し、日本では対応が遅れたことを指摘する。そして、ヘイト・スピーチ規制について、「日本では、規制積極論はさほど多くなく、『特殊な国家』を志向する傾向にあるように思われる」という。「特殊な国家」とはアメリカのことだが、そのアメリカにも「普通の国家」を選択する見解がある都市、桧垣はアメリカ内部の議論を腑分けする。
桧垣は、憲法学の多くの見解が規制に消極的であることを示し、「これらの説には、意識的にしろ無意識的にしろ、批判的人種理論が主張する、犠牲者の視点が欠けているというのが本書の視点である」という。
アメリカではヘイト・クライムの規制はなされるが、ヘイト・スピーチについては表現の自由との関係で厳しい制約があり刑事規制は難しいとされてきた。人種差別状況は改善していないにもかかわらず、ヘイト・スピーチ規制は拒否されている。
これまでも多くの憲法学者がアメリカの判例状況を紹介してきたが、桧垣も、1940年代以前、1950~1960年代、1970年代、1980~1990年代、2000年代以降に分けて概略を追跡し、ボハネ事件判決、スコーキー事件判決、RAV事件判決、ブラック事件判決の法理を解明する。
桧垣が着目するのは、ブラック事件判決に限定的とはいえ影響を与えた批判的人種理論であり、その「主張をさらに真剣に受け止めるべきである」とする。批判的人種理論は「人種と法と権力とのあいだの関係を改変することを目的とした根本的な法学運動」であり、従来の表現の自由論が前提とする国家観、個人観を鋭く批判する。
批判的人種理論は、ヘイト・スピーチの害悪について、精神的害悪および肉体的害悪、思想の自由市場への影響、平等保護の侵害を強調してきた。そして「もっとも重要な点は、被差別者の声を聞くことを重視する点である」。
キーとなる概念が「無自覚性transparency」である。「透明性」という訳語には難点があるため、桧垣は「無自覚性」と訳している。
「ここでいう無自覚性とは、『特権集団が自らの人種的性格[自らの人種がもたらす特権]についての認識を欠いていること』である。すなわち、マジョリティが、特権を享受していながら、そのことにつき根本的に無自覚であるという社会状況を『無自覚性』現象という。」
「この『無自覚性』の概念は、レイシズムが社会の構造的特徴の1つとして、日常生活に組み込まれており、そこでは、被差別者の劣等化と被支配が、理論化や科学的な正当化の必要がないほどまでに当然のものとなっているとする、いわゆる『制度的レイシズム』の概念と同様のものであり、現代社会において、重大な問題を孕むものとなっている。」
換言すると、既存の法学は人種差別に無自覚であるがゆえに支配層に有利になるように構築されている。「したがって、レイシズムや人種的偏見は、無意識のものではあるが、法解釈に固有のものなのである。」
桧垣は、アメリカ法の検討を通じて、日本への示唆を次のように述べる。
「従来の日本の議論の傾向は、日本において社会に人種問題が存在することに無自覚であり、このことの背景には、『マジョリティの「無自覚性」という枠組み』がアメリカよりも深刻であることがあるように思われる。ある論者は、『日本では、自らの特権性に無自覚である以前にそもそも社会に人種問題が存在すること自体に無自覚である(単一民族神話ゆえに)という意味でのより根源的な(二重の?)「無自覚性」が存在する』と指摘している」という。「ある論者」とは、マーク・レヴィンのことであり、尾崎一郎が翻訳したレヴィン論文が引用されている(法律時報80巻2号)。
桧垣は「無自覚」な例として宮沢俊義と橋本公亘をあげている。もっと最近の憲法学者を上げてほしかったが、さしつかえるのだろう。ちなみに、桧垣が橋本を引用しているのは正しい。私は学部2年の時に橋本の憲法講義を聴講したが、橋本のアイヌ民族に関する言説はひどいものだった。
第1章の結論。
「この様な現状に鑑み、日本でも『無自覚性』を克服する必要があり、そのため、批判的人種理論が主張するように、マイノリティの視点・経験から、ヘイト・スピーチの害悪を捉えることが必要である。そして、その観点からヘイト・スピーチ規制の憲法上の当否につき論じるべきである。」
<コメント>
ヘイト・スピーチ規制積極論者は、これまで差別とヘイト・スピーチの被害を強調し、その克服のために包括的人種差別禁止法の制定と、多様なヘイト・スピーチ対策の必要性を唱え、ヘイト・スピーチ規制を求めてきた。桧垣は、同じことをアメリカにおける議論の検討を通じて理論的に展開している。共感できる議論である。
奥平康弘は「言論は被害を生まない」と嘯き、差別表現やヘイト・スピーチの自由を懸命に擁護してきた。内野正幸は、ヘイト・スピーチの被害を認めないわけではないが、個人に対する差別表現よりも被害は大きくないものになると唱える。規制消極論者は、ヘイト・スピーチの害悪を否定または軽視してきた。その誤りを私たちは繰り返し指摘してきた。同じことを別の形で桧垣が説得的に論証している。
日本におけるレイシズムのメカニズムはまだ十分に解明されていない。このところ被害実態調査が始まったので、その成果をもとに、さらに研究が進展することを期待したい。