Friday, December 29, 2017

大江健三郎を読み直す(83)「最後の小説」への道、「最後の小説」からの道

大江健三郎『さようなら、私の本よ!』(講談社、2005年[講談社文庫、2009年])
「最後の小説」と唱え始めて長いこと小説を書き続け、「狼少年化」した大江が21世紀になって始めた「おかしな2人組」シリーズ、『取り替え子(チェンジリング)』、『憂い顔の童子』に続く長編3部作の最終作である。タイトルから言って、本当に「最後の仕事」かと思われたが、その後も書き続け、父親の死の謎をめぐる『水死』にたどりつく。
『さようなら、私の本よ!』というタイトルを知って、当時読まなかったが、「これで大江文学の花道のようだが」と思ったことを記憶している。
国際的な小説家・長江古義人と建築家・椿繁という、2人の老人のドタバタ劇に、若者たちを巻き込んでいく。建築の専門家であり、破壊の専門家でもある繁の破壊理論の実践としてのテロ、そのための準備における半監禁、そして古義人の別荘の破壊とタケちゃんの事故死に至る筋は、大江の作品としてはさしておもしろいものではない。
合間をつなぐのは戦後日本史であり、文学史であり、ミシマやオウムや9.11である。
全体の主題は、世界の巨大な暴力に抗する小さな暴力の可能性と不可能性、と言えようか。反核や四国の森の家や息子のアカリ(光)を中心とする家族の物語であり、文字通り大江ワールドである。結末は一種の肩透かしだが、事後譚として、静かな語りの中に「徴候」を見出す。
大江作品の読み直しを始めたのは2014年正月のことだから、4年がかりで主要作品はすべて読んできた。
同じ時期に書き継いでいた井上ひさしについては、前田朗『パロディのパロディ 井上ひさし再入門』(耕文社)として1冊にまとめた。
しかし、大江については、まとめにくい。理由は簡単明瞭だ。大江の文学的主題があまりにも鮮明で、誰もが同じ主題をめぐって大江批評を書いてきた。同じことしか書けそうにない。フクシマ以後の大江の闘いを踏まえて、大江世界を解読しなおすことは可能だろうか。
大江健三郎を読み直す(1)
大江健三郎を読み直す(2)大江健三郎『晩年様式集』
大江健三郎を読み直す(3)大江健三郎『定義集』
大江健三郎を読み直す(82)近代の歴史を背負った現代作家のパロディ小説 大江健三郎『憂い顔の童子』