Saturday, October 08, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(207)保護法益論02

宮下萌「保護法益から再考するヘイトスピーチ規制法―人間の尊厳を手掛かりに」『Law & PracticeNo.13  (2019)

Ⅰ はじめに

Ⅱ 日本におけるヘイトスピーチを巡るこれまでの状況

1 解消法施行前の日本の状況

1)京都朝鮮学校襲撃事件を中心に

22014 年の人種差別撤廃委員会からの勧告

2 解消法によって状況は改善されたのか人種差別撤廃委員会からの勧告を受けて

Ⅲ 何が侵害されているのか

1 Jeremy Waldron の「人間の尊厳」の概略

2 人間の尊厳とヘイトスピーチ規制の保護法益との関係

 1)個人的法益

 )被害状況

 )ヘイトスピーチに「特有」な個人的法益の侵害

 )名誉毀損及び侮辱罪との違い

 )ヘイトスピーチ規制の個人的法益「承認される権利」の侵害

 2)社会的法益

 )民主主義の破壊の防止

 )ジェノサイド

 )公共の平穏は保護法益と考えるべきか

3 保護法益と関連する問題点

 1)ヘイトスピーチの定義と保護法益との関係

 2)ヘイトスピーチの類型と保護法益との関係

 3)ヘイトスピーチの形態と法益侵害の度合い

Ⅳ 結びに代えて

ヘイト・スピーチ研究にはそれ以前からの歴史があるが、日本におけるヘイト・スピーチ刑事規制を求める具体的な議論と運動が本格的に始まったのは200912月の京都朝鮮学校襲撃事件以後のことだろう。

ヘイト・スピーチとは何か。立法事実はあるか。被害をどのように認定するか。国際社会ではどのように対処しているか。刑法か、独立法か、メディア法か…。刑事規制以外の手法で対処できないか。人種差別禁止法の制定が必要ではないか。ヘイト・クライム法はどうか。被害者救済の重要性。

この10数年で実に多くの論点が取り上げられ、多くの論文が公表されてきた。その一つとして、刑事規制する場合の保護法益をめぐる議論も重要である。

保護法益論は刑法学に特有の議論のため、ヘイト・スピーチの保護法益を論じてきた金尚均、楠本孝、櫻庭総はいずれも刑法学者である。最近、憲法学者の奈須祐治が論考を発表した。そこで引用された論文の一つが、宮下論文である。宮下は弁護士である。

本論文を今回初めて知って、一読した。保護法益論を正面から取り上げて、ていねいに論じた重要論文である。唯一の不満は、宮下弁護士は知り合いなのに、論文発表から3年間、私に秘密にしていたことである(苦笑)。

宮下は、実効的なヘイト・スピーチ対策を講じるために、「何が侵害されているのか」を問う。「そもそも被侵害法益が何であるのかについて、先行研究でも議論の渦中にあり、未だ明らかにされていない」(184)ので、ウォルドロンの『ヘイトスピーチという危害』を手掛かりに、刑法学的な議論である保護法益論を本格的に論じる。

ヘイト・スピーチ刑事規制に消極的なアメリカにおいて、刑事規制積極論を唱えるウォルドロンは異色の存在であり、議論が続いている。ウォルドロンは数々の論点に独自の提言をしているが、保護法益との関連では「人間の尊厳」概念を用いて、「秩序だった社会」と、「安心という公共財」を繋げる議論をしている。すべての市民が、安心して、正義にかなった仕方で扱われることが人間の尊厳の要諦である。宮下は、ウォルドロンの人間の尊厳が「連帯する権利」に関連し、「承認としての尊厳」を意味することに着目する。

宮下は人間の尊厳を出発点に保護法益を論じるが、「『人間の尊厳』概念は、個人的法益及び社会的法益のどちらも包摂される概念と考える。そして、それらの最大公約数として挙げられるものは、具体的には、個人的法益としては同じ社会の構成員から『同等の地位を有した』人間として扱われ、『承認される』権利であると思われる。ヘイトスピーチが切り崩すものは、そのような『同じ人間』として扱われるという『信頼』及びそのような前提条件が実現する環境を享受することにより得られる感覚としての『安心』である。そして、社会的法益としては民主主義の破壊及びジェノサイドの防止であると考えられる」(196頁)という。

個人的法益について、宮下は、マリ・マツダ、リチャード・デルガド、クレイグ・ヘンダーソン、中村一成の議論を基に被害状況を瞥見し、ヘイト・スピーチは、一部の憲法学者が言うような「不快な表現」ではなく、具体的な重大被害を生むことを確認する。ヘイト・スピーチの被害を認識できるか否かは、「無自覚性」にかかわる。自分がその社会の中で被害を受けず、被害を気にすることのない「特権」を享受している研究者が「無自覚的」に被害など大したことがないと考えるのに対して、被害者には特有の重大な被害が起きている。ヘイト・スピーチは「非対称的」な性格を有するからである。そのうえで宮下は「承認される権利」こそが保護法益であると唱える。

社会的法益について、宮下は、民主主義の破壊の防止とジェノサイドの防止を掲げる。思想の自由市場論は、思想の自由な競争を唱えるが、ヘイト・スピーチはマイノリティの市場参加を妨げるので、民主主義を損なう。「思想の自由市場論は、完全に見解中立的であって魅力的であるように見える。しかし、これまで築き上げられた民主主義や平等といった普遍的な価値観に反する価値観…に対しては、完全な見解中立はむしろ許容されるべきものではない。ヘイトスピーチで問題となるのは人種的平等といった議論の余地のないものであり、近代社会では既に解決しているものである。これに対して見解中立を装うのは、却ってレイシズムに加担するというメッセージを発信することになるであろう」(206207頁)という。

さらに、宮下はジェノサイドの防止に言及する。「ヘイトスピーチは民主主義の前提を崩すだけではなく、ジェノサイドにもつながる危険性を有する」(207頁)。「ヘイトスピーチを含むレイシズムが、ジェノサイドや戦争をもたらしたという認識は、国際社会の共通認識である」(207)

最後に宮下は次のように述べる。

「私たちマジョリティは自覚がないまま『特権』を享受していることに気付かなければならない。私たちマジョリティは、同じ社会の構成員から『同等の地位を有した』人間として扱われ、それを否定されることのない安全地帯に生きている。……相続に例えるならば、『特権』を享受しているマジョリティは、+の財産だけではなく、当然負の遺産も引き受けなければならない。差別の実態があるなかで、無自覚に『特権』を享受したまま、同じ社会の構成員として否定され、犠牲になっている人びとがいるということを忘れてはならない。」(217頁)

保護法益論の水準を大いに引き上げる重要論文である。基本的に宮下の議論に賛同したい。議論の立て方や、用いる言葉が随所で異なるのだが、私の思考の枠組みは、宮下と同じと言ってよいだろう。それゆえ、保護法益論をこのように展開してもらえたので、私自身の思考の再整理に役に立つ。

特にヘイト・スピーチの保護法益を、個人的法益一元論でも、社会的法益一元論でもなく、個人的法益・社会的法益二元論で考える点は、宮下説に大いに学びたい。

私自身、人間の尊厳と民主主義を基軸に社会的法益と個人的法益の二元論の可能性を考えてきた。

二元論を採る理由は、第1に、人間の尊厳概念の両義性である。人間の尊厳は、国連憲章前文に由来し、世界人権宣言前文や各種の人権条約において確認された概念であり、基本的人権にかかわる。ただ、「人間」の尊厳であって、「個人」の尊厳ではない。とはいえ、世界人権宣言第1条では「尊厳と権利について平等」という表現があるので、個人にもかかわる。

2の理由は、「ヘイト・スピーチ国連戦略」を見れば明らかなように、ヘイト・スピーチの実行行為の構造が、二元論を不可避とするからだ。

名誉毀損罪と対比すれば、名誉毀損では、実行の主体(加害者)と客体(被害者)が対抗関係をなしている。

しかし、ヘイト・スピーチの構造は異なる。実行の主体は(加害者)は、攻撃の客体(被害者)にヘイトを差し向けるのと同時に、公衆にヘイトを差し向ける。ヘイトメッセージの名宛人は公衆である。主体は公衆に「一緒に差別しよう」と呼び掛けている。公衆は「可能性としての加害者」であり「可能性としての被害者」でもあるだろう。

主観的にも客観的にも、ヘイト・スピーチは二元的な行為で成り立っているので、保護法益も二元論で考える必要がある。

「議論の立て方や、用いる言葉が随所で異なる」と書いたが、人間の尊厳について気になるのは、宮下がウォルドロンの人間の尊厳を手掛かりにしていることだ。なぜウォルドロンなのだろうか。

憲法学者の中には「人間の尊厳はドイツ憲法の概念だ」と決めつけて、否定的に論じる論者もいる。宮下もドイツ基本法を意識しているようでもある。

しかし、人間の尊厳はドイツ憲法の概念ではない。近代社会でずっと用いられてきた概念であることは別論として、法的世界で言えば、国連憲章、世界人権宣言をはじめ国際人権法の基本概念である。人間の尊厳論を採用するのであれば、国際人権法における概念の意義を参照するのが自然である。ウォルドロンに着目して、その特有の理解を前提にすることも一つの方法ではあろうが、奇異な感じがすると言えば言い過ぎだろうか。

「議論の立て方や、用いる言葉が随所で異なる」、もう一つの例として、宮下は差別や平等という言葉を懸命に回避する。宮下論文の前半ではこれらの言葉は丁寧に排除されており、論文後半では、上記に引用したように、民主主義論やジェノサイドの防止論の際に登場するにとどまる。

ヘイト・スピーチは差別行為の一種である。普通の憲法論で言えば、何よりもまず差別の禁止、非差別、法の下の平等として語られる範疇である。日本国憲法第14条は法の下の平等と差別の禁止を明示している。それゆえ、ヘイト・スピーチの保護法益を語るのであれば、何よりもまず憲法的価値として法の下の平等と差別の禁止が語られるのが当然のはずだ。宮下も法の下の平等と差別の禁止を念頭に置いているはずだ。それなのに、保護法益論としては、法の下の平等や差別の禁止を語らず、ウォルドロンの人間の尊厳を手掛かりに承認される権利を語るのはなぜだろうか。

日本刑法においてヘイト・スピーチを禁止するべきと主張するのであれば、保護法益としては、第1に、日本国憲法の価値秩序に従って議論するべきだろう。人間の尊厳が重要であるが、日本国憲法にはこの言葉がないので、人間の尊厳(法の下の平等、差別の禁止、人格権)といった議論をすることになる。

そのうえで、例えば金子匡良が提唱してきた「差別されない権利」を日本国憲法上の議論として展開できるはずだ。私自身は「ヘイト・スピーチを受けない権利」は憲法上の権利だと主張してきたが、これは金子説の「差別されない権利」に属する。

「用いる言葉が随所で異なる」、もう一つの例が「承認される権利」である。宮下はウォルドロンの人間の尊厳をもとに「承認される権利」を引き出す。その実質に私は賛成するが、なぜ端的に「人として認められる権利」に言及しないのだろうか。「人として認められる権利」は世界人権宣言第6条に明示された国際人権法の権利概念である。

1966年の市民的政治的権利に関する国際規約(国際自由権規約)第16条、1969年の米州人権条約第3条、1981年のアフリカ人権憲章(バンジュル憲章、人及び人民の権利に関するアフリカ憲章)第5条第一文、2012年のアセアン人権宣言第3条にも明示されている。

世界人権宣言の註釈書として定評のあるグードムンドル・アルフレドソンとアズビョルン・アイデ編『世界人権宣言――達成すべき共通の基準』(マルティヌス・ニジョフ出版、1999年)によると、世界人権宣言第6条は存在するという基本権にかかわる概念であり、宣言第1条の尊厳の平等原則と結びついている。

世界人権宣言起草者の一人で、ノーベル平和賞を受賞したルネ・カッサンの言葉では「それなしに人間が生きることを強いられてはならない基本権」である。

つまり、法の下の平等、差別の禁止、人間の尊厳、人として認められる権利は、切り離すことのできない権利の束である(前田朗「人として認められる権利――世界人権宣言第六条を読み直す」『明日を拓く』129130号(2021年、東日本部落解放研究所))。

保護法益を論じる際、日本国憲法の言葉を用いることができる場合は当然、憲法の言葉を用いるべきである。他方、日本国憲法に対応する表現がない場合は、国際人権法の基本概念を用いるのが通常であるだろう。

その意味で、私としては、宮下説に学びつつ、二元論をより説得的に展開するために努力しようと思う。