Wednesday, October 05, 2022

ヘイト・スピーチ研究文献(206)保護法益論

奈須祐治「社会的法益を根拠としたヘイトスピーチ規制の可能性――J. ウォルドロンの理論とその批判」西南学院大学法学論集551(2022)

http://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/2305?show=full

大著『ヘイト・スピーチ法の比較研究』(信山社、2019年)の著者の論文である。

<目次>

はしがき

1 ウォルドロンのヘイトスピーチ規制論

2 ウォルドロンに対する批判

   言語行為としてのヘイトスピーチ

   ヘイトスピーチと害悪の因果関係

   ヘイトスピーチに対する制裁

   ヘイトスピーチ規制による民主的正統性の損傷

(a)  正統性損傷の類型

(b)  正統性損傷の内容と程度

(c)  規制の濫用による問題

(d)  マイノリティの参加阻害による正統性の損傷

3 日本における議論の定位

   ウォルドロン批判の概要

   因果関係及び制裁をめぐる論点

   民主的正統性をめぐる論点

おわりに

ウォルドロン『ヘイト・スピーチという危害』(みすず書房、2015年)は早い段階で翻訳されたので、日本でも議論の対象となってきた。ウォルドロン理論に対するアメリカでの批判と応答については紹介されてこなかったので、奈須は、英語圏におけるヘイト・スピーチの議論状況の一端としてウォルドロン理論をめぐる応酬を紹介し、検討する。

世界中で、表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを処罰するのに対して、アメリカと日本だけは逆に、表現の自由を守るためにヘイト・スピーチ規制に反対し、差別表現は自由とされてきた。これに対して英語圏でヘイト・スピーチ規制論を展開したのがウォルドロンであり、これをめぐって議論が続いている。

奈須は「不特定人に向けられたヘイトスピーチの、社会的法益を根拠とした規制の可能性を再検討する必要がある」(1頁)として、ウォルドロン理論を検討する。

言語行為としてのヘイトスピーチについてはバレントやベイカーの議論、因果関係についてはシンプソン、ブラシの議論、制裁についてはベイカーの議論、民主的正統性についてはドゥオーキン、ウェインスタイン、ブラウンの議論を紹介して、奈須は英語圏、特にアメリカにおける論争状況を明らかにする。

なるほど多様な論点があり、それぞれについて有益な議論の応酬がなされていることがわかる。

もっとも、余談をはんさんでおくと、まさにアメリカ的な議論であって、普遍性がないことも顕著である。

それはともかく、民主的正統性の議論には少しほっとした。というのも、日本では、表現の自由と民主主義をめぐって議論のすれ違いがある。私たちは、民主主義とレイシズムは相いれない、ヘイト・スピーチは民主主義を攻撃している、民主主義を守るためにヘイト・スピーチ規制が必要だ、と繰り返し主張してきた。マイノリティを排除することは民主主義に反するからだ。

ところが、多くの憲法学者は、民主主義と表現の自由を根拠にヘイト・スピーチ規制を否定してきた。マイノリティを排除して、マジョリティの民主主義を守る発想である。この議論はすれ違ったまま、深められることがなかった。

奈須は、アメリカの議論を紹介しつつ、ヘイト・スピーチ規制をめぐって民主主義の擁護がいかなる意味を有するのかを解明しようとする。

「結局のところ、ヘイトスピーチを規制する場合にもしない場合にも正統性の損傷が生じうるということ自体は、各論者が承認している。そして、いずれの場合がより大きな損傷を生むかは経験的に得られる証拠に依存するという点、この証拠の提示の負担をどの程度に定めるべきかが問題になるという点も、枠組みとしては共有されている。」(2122頁)。

「見解の相違は、経験的証拠をどのように把握するのか、この証拠の提示の負担をどの程度の重さとみるのかをめぐって生じている。」(22頁)

ここから次の議論が始まるというのが奈須の見解だ。

日本における法益問題について、奈須は、宮下萌の人間の尊厳論(個人的法益+社会的法益)、楠本孝の人間の尊厳論(個人的法益としての人格権的利益)、櫻庭総の人間の尊厳論(平穏生活権+平穏生活環境)、金尚均の民主主義社会+社会参加論を取り上げて、検討する。奈須は、宮下、楠本、櫻庭、金の議論の積極面を認めつつも、なお不十分であると見ている。

「今後日本において、ヘイトスピーチ規制法によって、あるいはその不在によって民主的正統性への損傷が生じていないかを、実証的に研究していく必要がある。また、本稿で論じたように、どの程度の根拠があれば損傷が生じたと言えるのかは、別途考える必要がある。予防原則を唱えるブラウンのように、過度に低い敷居を設けることは適切でないだろう。」(29)

法益論は刑法学に特有の議論であって、憲法論ではあまり見かけないが、奈須は刑事立法について法益論の重要性を承認し、具体的に検討している。この点だけでも、本論文は極めて重要である。

また、民主主義、民主的正統性の論点では、奈須は経験的証拠による検証を唱える。

私は、これには必ずしも賛同しない。民主主義とレイシズムは相いれないというのは、経験的に証拠を示すというレベルの問題ではなく、民主主義の理念そのものの問題だ。マイノリティを排除して、マジョリティが「私たちだけの民主主義」を唱えることを容認するのは、すでに民主主義の否定である。

ヘイト・スピーチの保護法益をどのように設定するべきか。私自身、人間の尊厳と民主主義を基軸にしつつ、社会的法益と個人的法益の二元論の可能性を考えてきた。

二元論を採る理由は、第1に、人間の尊厳概念の両義性である。人間の尊厳は、国連憲章前文に由来し、世界人権宣言前文や各種の人権条約において確認された概念であり、基本的人権にかかわる。ただ、「人間」の尊厳であって、「個人」の尊厳ではない。とはいえ、世界人権宣言第1条では「尊厳と権利について平等」という表現があるので、個人にもかかわる。

2に、「ヘイト・スピーチ国連戦略」を見れば直ちに明らかになるように、ヘイト・スピーチの実行行為の構造が、二元論を不可避とするからだ。

名誉毀損罪と対比すれば、名誉毀損では、実行の主体(加害者)と客体(被害者)が対抗関係をなしている。

しかし、ヘイト・スピーチの構造は異なる。実行の主体は(加害者)は、攻撃の客体(被害者)にヘイトを差し向けるのと同時に、公衆にヘイトを差し向ける。ヘイトメッセージの名宛人は公衆である。主体は公衆に「一緒に差別しよう」と呼び掛けているのだ。

人間の尊厳と民主主義は社会的法益の側面に強く関連するが、同時に個人的法益としての「差別されない権利」(例えば金子匡良の議論)――私自身の言葉では「ヘイト・スピーチを受けない権利」を無視することはできない。それゆえ、私は世界人権宣言第6条の「人として認められる権利」を強調してきた。

この点はさらに深めたい。

奈須の議論で気になったのは次のように述べている部分だ。

「しかし、楠本のいう人格権的利益の内容も極めて抽象度が高いうえ、十分にその内容が具体化されていない。」(25頁)

これは、楠本が、ウォルドロンのいう「安心」は独立の法益とは言えないとし、個人の尊厳が保障されることによる反射的効果とみていることに関連して、「安心」は広範な概念で法益として設定できないとしていることにかかわって、楠本が主張する人格権的利益も極めて抽象度が高く、十分な限定になっていないと指摘する文脈である。

奈須の指摘は当たっているかもしれない。ただ、気になるのは、刑法における保護法益の議論で、抽象度が高いとか、内容が具体化されていないというのは、何を主張し、何を基準にしてのことなのかである。

刑法における法益論には、フォイエルバハ、ビンディング、リスト以来の歴史的議論があり、日本でも内藤謙以来の、具体的法益論の系譜がある。もともと客観主義刑法論のうちの権利侵害説の議論だったが、規範違反説でもこれを採用してはいる。いまでは刑法学一般に採用された議論であって、多くの刑法教科書で法益について論じられているが、そもそも法益は抽象的に設定されている。(とはいえ、規範違反説、特に行為無価値一元論であれば、法益はさして重要ではないとみることも可能だ。)

殺人罪の法益は人の生命である。傷害罪の法益は身体(身体の完全性)である。逮捕監禁罪の法益は自由(人身の自由)である。強制性交罪の法益は性的自由・性的自己決定権である。

社会的法益で言えば、例えば文書偽造罪の法益は文書の社会的信用性とされる。有価証券偽造罪の法益は有価証券に対する公衆の信頼である。公然わいせつ罪の法益は公衆の性的感情である。

楠本はヘイト・スピーチの法益を人間の尊厳としつつ、個人的法益としての人格権的利益とみている。その背景には、日本刑法学の議論として、社会的法益は抽象的に設定されがちなので、できる限り個人的法益に引き寄せて、個人的法益に還元して、これを具体化するという議論の流れがある。つまり、刑法学的に言えば、楠本は法益をできるだけ具体化する努力をしていることになる。

これに対して憲法学者の奈須は「楠本のいう人格権的利益の内容も極めて抽象度が高いうえ、十分にその内容が具体化されていない」と指摘する。

それでは、奈須はどのような基準で、どのように定式化すれば、「極めて抽象度が高い」とはいえないとするのだろうか。どのように表現されていれば「十分にその内容が具体化された」ことになるのだろうか。それが明らかでない。

奈須の立場から見た時、殺人罪の法益を人の生命とするのは、抽象度が高いのか低いのか、具体的と言えるのか言えないのか。

奈須にとって、強制性交罪の法益は性的自由・性的自己決定権であるというのは、抽象度が高いのか具体的なのか。文書偽造罪の法益は文書の社会的信用性というのはどうだろうか。

そのあたりがどうもよくわからない。

このようにみると、奈須の議論は実は法益の議論ではなく、立法事実論なのではないかと思えるがどうだろうか。

遡って、民主主義、民主的正統性の論点で、奈須は経験的証拠による検証を唱えるが、これも法益論ではなく、立法事実論としてであればよく理解できる。