好井裕明『差別の現在――ヘイトスピーチのある日常から考える』(平凡社新書)
社会学者による差別論だが、現に生じた差別を素材にしてはいるものの、現に起きた差別を論じるのではなく、「差別はよくない。差別はしない」という人が決して差別と無縁ではなく、差別をするかもしれないと言う視点を強調し、「人はだれでも差別する可能性をもっている」という立場から、社会の在り方、差別の論じ方、差別との向き合い方をさまざまに考える。
一昔前の差別論とはかなり違ってきた。昔なら、60~70年代が典型だが、差別を許さない、差別を克服する、差別を糾弾すると言う流れで、差別と闘う被差別者の主体形成が問われた。反差別闘争が弱体化した現在、差別を許さない、差別を克服する、差別を糾弾することの重要性が低下したわけではないが、「当事者運動」とは違う形で「当事者研究」が登場したように、差別論は多様な切り口、多様な接近方法を持っている。
差別―被差別という二分法は今でも有効であり、つねに意識される必要があるが、硬直した見方に陥らないように、「差別する可能性」を「生きる手がかり」とすることが目指される。ジェンダー差別、障害者差別、部落差別、性的マイノリティ差別など、それぞれに即して検討される。
ヘイトスピーチについて直接分析・研究しているわけではないが、ヘイトスピーチは人が「生きる権利、平穏に暮らす権利を侵害」しているので、「限定的な形であるにせよ、法的に規制すべきであり、それを逸脱すれば、何らかのサンクション(社会的制裁)を与えるべきではないだろうか」と述べる。「社会的制裁」の意味は不明である。国家による制裁である刑罰とは異なる制裁を想定しているのだろうか。
著者は、ヘイト・スピーチを規制することを論じているのではなく、仮にヘイト・スピーチを規制しても、実際には社会に残存する差別をどのように考えるのか注意を向けている。「差別的な日常をどのように生きれば、より意味に満ちた人生を送ることができるのか」。
「人はだれでも差別する可能性をもっている」というのは、的確な認識である。私は「可能性」という言葉を使わない。「人はだれでも差別してきたし、差別しているし、今後も差別する」。とりわけ、日本で言えば、大和民族、日本国籍、男、いわゆる健常者、異性愛者、高学歴の人間は差別まみれである。厳然と差別の上に立って生きている。著者はそのことを、やや遠回しに「人はだれでも差別する可能性をもっている」と表現し、だからそれぞれが自分で考えることが大切、と繋げている。