古川元晴・船山泰範『福島原発、裁かれないでいいのか』(朝日新書、2015年)
福島原発事故の責任者(日本政府の政治家や官僚、東電幹部たち)の刑事責任を追及する試みは、厚く高い壁に阻まれてきたが、2014年7月31日、東京第五検察審査会が「起訴相当」「不起訴不当」の議決を公表した。15年1月22日、東京地検は再度の不起訴処分を行い、「国策」による責任逃れを押し通そうとしている。著者らは、この状況を前に、福島原発事故の刑事責任を問うための法理論を展開する。古川は法務省刑事局総務課長、内閣法制局参事官、京都地検検事正などを歴任した弁護士。船山は刑法学者で日本大学教授。
著者は、これまで検察が不起訴にしてきた法解釈は過失犯における注意義務違反についての「具体的予見可能性説」にあると見る。具体的予見可能性説に立つと過失の成立範囲が狭くなり、処罰が難しい。経済重視の社会では、工場の操業による事故などが犯罪とされると困るので、具体的予見可能性説が重宝される。これに対して「危惧感説」の立場に立てば、「未知の危険」であっても、不安感や危惧感があれば予見可能性を認める。大地震と津波によって原発事故が発生する危惧感は明白にあり、事故の予防対策をする義務があったのだから、東電幹部の刑事責任を問うことができると言う。本書全体を通じて、具体的予見可能性説批判と危惧感説による解決が唱えられる。なかなか説得的だ。
危惧感説というのは懐かしい言葉だ。学生時代に藤木英雄の『刑法総論』『過失犯』などを読んだ。旧過失犯、新過失犯、新々過失犯論争を随分と読んだが、その後、危惧感説は学説では少数説にとどまり、実務に採用されることもなく、話題とならなくなっていった。学生時代に藤木英雄が亡くなったニュースを聞いた覚えがあるが、本書によると、1977年7月だったと言う。私が大学4年の時だ。
本書は藤木が残した危惧感説を継承・発展させてきた刑法学者の一人である船山が、原発事故の法的解決のために、具体的予見可能性説から危惧感説への立場変更を求める叙述をしている。元検事の古川も同じ立場と言うのが新鮮だ。
もっとも、理論の筋立てとしては本筋とは言えない議論だ。
第1に、危惧感説は40年以上、忘れられた学説となりつつあったし、実務に採用されてこなかった。つまり、長期にわたって具体的予見可能性説が確固たる地位を占めてきた。これを変更するのは容易ではない。
第2に、原発訴訟で原告・住民は敗訴の歴史を積み重ねてきたが、住民勝訴判決が2件あり、その理論は具体的予見可能性説であった。本書はその2件の判決の存在を示しながらも、内容は一切紹介していない。本書の立場は「具体的予見可能性説では勝てない。危惧感説を採用せよ」というものだから、「具体的予見可能性説で勝った判決」の内容を紹介するわけにはいかないと考えたのだろう。しかし、現に勝った判決があるのだから、具体的予見可能性説の適用方法の議論をするべきである。「具体的予見可能性説を正しく適用した判決と、誤った適用をした判決がある」と主張することが先だろう。具体的予見可能性説から危惧感説への判例変更と言う重大変更を先にするのは無理がある。