Thursday, August 06, 2015

永久の不服従--ジャスミンと紫陽花の間で

*『マスコミ市民』15年3月号

拡散する精神/委縮する表現(48)

 パリ銃撃事件に続いて「イスラム国」による日本人人質・殺害事件が世界を騒がせた。「イスラム国」問題の当事者になった日本だが、政府の対応やメディアの姿勢は微妙な揺れ動きを見せている。安倍首相のテロ対策支援の経済援助発言が事件の契機になったのかどうか。テロリストとは交渉しないと言うアメリカ外交との関連で日本外交の在り方はどう評価されるのか。
パリ銃撃事件や人質問題を知りながら「この時期に中東訪問できる俺はツイてる」などと浮かれて中東訪問したという安倍首相のずさんな外交感覚も問題だが、外務省の外交能力欠如がまたしても世界に露呈したことを悲しむべきなのか笑うべきなのか。
 「私はケンジだ」は「私はシャルリだ」の二番煎じではあるが、ジャーナリスト後藤健二氏救出のためにも(残念ながら救出できなかったが)、その遺志を継いでいくためにも重要な試みであった。
 他方、「イスラム国」はイスラム教を曲解しているという指摘が繰り返され、イスラモフォビア(イスラム嫌悪)をこれ以上強化しないためのメディアの努力は一定程度なされたように思う。
 そうした時期に、田原牧『ジャスミンの残り香――「アラブの春」が変えたもの』(集英社)を読んだ。アラブ報道に携わって来た著者の『中東民衆革命の真実』(集英社新書)に続くルポで、開高健ノンフィクション賞受賞作である。
タハリール広場から波及した「アラブの春」の顛末を追いかけ、「すべては徒労だったのか」と問い、中東各地を歩く。同時に、ジャスミン革命と紫陽花革命を対比して日本の現状を問い返す。3.11後の紫陽花革命はどこへ行ったのか、と。紫陽花革命と言われても記憶にない人も多いかもしれない。3.11以後、福島の被災者の支援を求め、また原発再稼働を強行しようとする日本政府に反対して多くの民衆が大規模デモや首相官邸包囲行動に取り組んだ。この時に使われた言葉が紫陽花革命であったが、「移り気」「変節」という花言葉の通りに紫陽花革命は東京砂漠に埋もれてしまった。結果として何も変えなかったことが問題という以前に、何をどのように変えるかの戦略がなかったこと、日本社会が変わるチャンスを活かせなかったことを痛感せざるを得ない。
著者は諦念や断念を表明しているわけではない。終章は「強さ」という表題を与えられる。かつてカイロ・アメリカン大学に留学したときの恩師ラグダ・エサーウィとの対話を通じて、「そもそも革命の勝利とは、何をもって勝ちといえるのか。そして、動揺にどうなることが敗北なのか。それをわけ隔てるものは何なのか。出口のない禅問答にはまり込んでいた。」という。
問いをもって問いに答えることが、単に逃げになることではなく、問い方の変遷を積み重ねることで何を拾い出すのかを意識し続けている。ラグダの言葉は「あの日からエジプト人たちは変わった。エジプト人であることを誇りに思えるようになった」であった。権力ではなく、一人ひとりの民衆が変わった。それゆえ著者は述べる。
「ジャスミンと紫陽花という二つの『革命』と称されたデモの違いは、単純に流された血の量や参加者の決意の深さだけではなかったのだろう。人びとがその季節を潜り抜けて、自身をどう変えていったのかにも大きな隔たりが生じていたのではないか。エジプト人たちの変化は、三年前にタハリール広場にしたたった滴が、社会という土壌に時間をかけて浸透していった結果のように私の目には映った。」
「革命観を変えるべきだ、と旅の最中に思い至った。不条理をまかり通らせない社会の底力。それを保つには、不服従を貫ける自立した人間があらゆるところに潜んでいなければならない。権力の移行としての革命よりも、民衆の間で醸成される永久の不服従という精神の蓄積こそが最も価値のあるものと感じていた。」