Sunday, August 23, 2015

詩の凄味、詩人の凄味を教えてくれる名著

河津聖恵『闇より黒い光のうたを――十五人の詩獣たち』(藤原書店)
心が震える本だ。
詩の力を思い知らされる本だ。
せつなさ、はかなさ、やさしさ、いとしさ、つらさ、そして激しさが、溢れ、立ちあがり、もつれあい、時に真綿のように柔らかく、時に鋼のように厳しく迫ってきて、心を揺さぶられ、締めつけられる。
心が晴れやかになる本だ。
詩の怖さを教えてくれる本でもある。
河津聖恵という「詩獣」とは、朝鮮学校無償化除外問題で少しだけ縁がある。お目にかかったことはないが、メールのやり取りをしたことがあった。彼女が呼びかけてつくった詩集『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』(同刊行会、代表河津聖恵、二〇一〇年)の件でのことだった。私が知った時にはすでに品切れになっていたのだが、関西のある方に連絡したところ、ご本人に連絡がつき1冊譲ってくれた。それを雑誌で紹介したことがある。さらに、その副産物ともいえる詩集、広島朝鮮初中高級部生徒『私たちも同じ高校生です――朝鮮学校への無償化適用を願うアンソロジー』(二〇一〇年)とともに、私の本『ヘイト・スピーチ法研究序説』の註にもあげておいた。法律書に詩集を注記させてもらった。それだけの縁に過ぎないと言えば、過ぎないかもしれないが、私にとっては重要な出来事であった。朝鮮学校差別に抗して詩人たちがアンソロジーを編んでくれたこと自体、驚きだった。その後、河津聖恵は自らの詩集『ハッキョへの坂』を出版した。それ以前に遡って河津の詩集を取り寄せたことは言うまでもない。
本書は詩集ではなく、詩人論集である。東柱、ツェラン、ロルカ、リルケ、石川啄木、立原道造、小林多喜二、宮沢賢治、原民喜、石原吉郎などを取り上げて、彼らの詩獣ぶりをつかみ出す。詩人の特徴や本質や、詩の内容や形式ではなく、彼らはなぜ、いかに詩獣であるのか、詩獣以外の何者にもなりえなかったのかをつかみ出す。詩論ではなく、詩人論だが、詩人論と言っても普通の詩人論ではない。
「すぐれた詩人とは、恐らく詩獣ともいうべき存在だろう。危機を感知し、乗り越えるために根源的な共鳴の次元で他者を求め、新たな共同性の匂いを嗅ぎ分ける獣。言い換えれば詩人とは、そのような獣性を顕現させ、人間の自由の可能性を身を挺し示す者である」という。
あるいは、「詩には、人知れず被った暴力によって傷ついた者たちの呻きがひそむ。私たちが聞き届けようと身を乗り出す時、闇から光へ、あるいは闇からさらに深い闇へと身をよじる獣たちがいる」という。
いずれも素人でも知っている著名な詩人たちだが、河津は詩人たちの新たな相貌を見せてくれる。闇を引き裂いたその先にさらに現れる闇の中で、もがき、あがき、苦しみながら、呻き、あえぎ、叫ぶ詩獣たちを呈示してくれる。読者は本書を手掛かりに再度、彼らの詩集に立ち戻って行けるだろう。
一つだけ気になることを指摘しておかなくてはならない。
河津は宮沢賢治について「さびしさと悲傷を焚いて」として、原罪意識の闇から詩の光へ、「私」を解放する旅へ、と描き出す。「十八歳の時法華経に出会い感動」した事実を踏まえ、二六歳の時、「上京後すぐ日蓮宗派の国柱会を訪ねる」と書いている。そして、三七歳の時、法華経を友人知人に配布するようにという「遺言を残し、銀河へ旅立った」と書く。すべてその通りだ。だが、河津は国柱会が何であったのかを書かない。法華経一般であるかのごとく書く。国柱会の指導者・田中智学があの「八紘一宇」の発案者であったことを書かない。国柱会の機関誌が、朝鮮人差別と迫害を続けていたことを書かない。賢治が、実家の宗教を捨てて国柱会に走り、田中智学に忠誠を誓い、死後には骨まで捧げたことを書かない。
大逆事件を前に「強権」と格闘して亡くなった啄木、「強権」そのものに虐殺された多喜二、強権に翻弄されて自ら命を絶ったツェランと、八紘一宇の国柱会・田中智学に忠誠を誓った賢治を同列に並べることで、河津は何をしているのだろうか。権力に殺された東柱と、断固として殺す側に立った賢治を同列に並べることで、河津は何をしているのだろうか。

賢治が法華経に出会って感動したと書くのではなく、朝鮮人差別の国柱会に入り、八紘一宇の智学に忠誠を誓った賢治だが、それでも詩獣として啄木や多喜二や東柱と同列であるべきだと、なぜ書かないのか。小さな隠蔽は本書の「闇」にもう一つ別の闇を付け加えていないだろうか。