高橋哲哉・岡野八代『憲法のポリティカ――哲学者と政治学者の対話』(白澤社)
目次
2 「安倍的なもの」
1 人道的介入のジレンマ
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憲法改正、そのためだけの96条手続き改正案、そして集団的自衛権の閣議決定、さらには戦争法案(安全保障法案)と、安倍政権の憲法政策はめまぐるしく変遷してきた。そこには品位も良識もなく、ひたすら「対米追随の軍事主義」があるだけだ。
日本国憲法の平和主義最大の危機に直面して、一人の哲学者と一人の政治学者が対談を重ねた。憲法九条はもとより、そもそも立憲主義の危機であり、憲法体制=憲法的思考を否定する安倍政権の暴走を、どのように位置づけ、理解し、批判していくのか。単に改正案の個別の問題点にとどまらずに、近代国家における憲法とは何か、主権とは何か、市民とは何かを根底から問い返し、自らの「常識」にも批判の矢を向けながらの対談である。
ラディカルとは根源的・根底的ということであり、近代立憲主義とは市民革命によるラディカルな体制変革であった。その近代立憲主義に片足を入れて立ち上がった日本国憲法体制を、両足揃えて立憲主義に参入するのか、それとも昔の棺桶の中に引き戻すのかが問われている現在、憲法をめぐる真摯な議論はまさにラディカルにならざるを得ない。
哲学者と政治学者はアベシンゾー的改憲案とその手法を「これは憲法ではない」と特徴づける。改憲案として批判するのではなく、憲法体制の破壊として批判する。的確だ。そして、立憲主義と九条の適合性を唱える。立憲主義の徹底は九条に辿りつくのだろうか。
二人の対話は死刑問題や憲法制定の主体論に及ぶ。主体論は、法措定的暴力論と呼応して、憲法制定の主体たる国民が憲法制定後にでき上がる矛盾をいかに考察するかと言う形で深められる。憲法学においては憲法制定権力論として議論されてきたことだが、二人の対話は、憲法制定権力論それ自体としてではなく、制定過程と主体の創出過程の重なりあいの分析に踏みこんでゆく。憲法政治の現実を見据えつつ、同時に憲法学の射程も意識しながら、日本国憲法と立憲主義を内外両面から論じる意欲的な姿勢が貫かれている。
続きが読みたくなる、とてもスリリングな対話である。