Monday, August 24, 2015

大江健三郎を読み直す(49)大江文学における子ども性

大江健三郎『小説のたくらみ、知の楽しみ』(新潮社、1985年[新潮文庫、1989年])
本書は文庫になって初めて読んだ。主な部分は新潮社の『波』に連載され、後に単行本になっている。4~5年遅れで読んだので、少しずれがあるのがよくわかった。
一つには、主な部分が大江がカリフォルニア大学バークレーに招かれて滞在していた時期に書かれているので、そこでのエピソード、その時期の読書に規定されている。
また、米ソの核対立が激しい時期であり、欧州だけでなくアメリカでも反核運動が盛り上がった時期であることが反映している。国際ペンクラブ大会が日本で開催された時の大会声明を巡る、大江と江藤淳の対立は、他でも書かれていたが、「懐かしい」話ではある。吉本隆明の反核運動批判も少しだけ登場する。
もっとも、本書の特徴は『小説の方法』をより平易に、短いエッセイの中で解説し直しながら、次の一歩を模索している様子を描いている点が当時の読みどころだったはずだ。ロシア・フォルマリスム、バシュラール、エリアーデ、山口昌男。他方で、ヴォネガット、アーヴィング、マラムッド、チーヴァー、スタイロン、ケルアックなどアメリカ現代作家たち。その点では、『同時代ゲーム』と対をなすはずだった長篇小説『女族長とトリックスター』がなぜ実現しなかったかの楽屋話が一番興味深かった。すっかり忘れていたが、今回読み直してみて、思い出した。デビュー間もなくの時期は別として、長編作家として作家人生を歩んできた大江は長篇小説を準備びしていたが、この時期続いた『「雨の木」を聴く女たち』から『新しい人よ眼ざめよ』に至る中・短篇集に転用したために、当時の方法論の適用と言う点では中・短篇集で目的を達成したために、長編をお蔵入りにした、ということだった。
もう一つ、川本三郎の解説が、大江文学における「子ども」性に着眼し、「ハックルベリ経由大江健三郎行き」と称していることが面白かった。当時読んだはずだが、すっかり忘れていた。確かに初期短編群も少年たちの物語であり、息子・光をモデルとした『個人的な体験』以後の作品群も、子どもを中心に置いた構図が貫かれている。