Saturday, August 22, 2015

ファシズムを冥府から呼び戻す意欲作

千坂恭一『思想としてのファシズム――「大東亜戦争」と1968』(彩流社)
<目次>
     I
中野正剛と東方会──日本ファシズムの源流とファシスト民主主義
内田良平と黒龍会──アジア主義の戦争と革命
世界革命としての八紘一宇──保守と右翼の相克
     II
1968年の戦争と可能性──新左翼、アナキズム、ファシズム

連合赤軍の倫理とその時代──「軍」と「戦争」の主張
蓮田善明・三島由紀夫と現在の系譜──戦後思想と保守革命
     III
ロングインタビュー──21世紀の革命戦争──ファシズム・ホロコースト
     *
「未だ『ファシズム』は牢獄に幽閉されたままである」と著者は言う。巧みなレトリックかと思うと、そうではなく、著者の歴史認識、思想の基本的構えから言って、「ファシズムの可能性」を正面切って問いかえすことなしに、現代を生き延びることはできないと見ている。
1930年代ファシズムを、戦後的視点から決めつけるのではなく、当時の位相に即してみるならば、資本主義批判、帝国主義批判の文脈が浮かび上がる。反帝反スタは、1960年代に登場した新左翼思想と言う前に、1930年代ファシズムの基本的立場だった。それが悲惨な歴史を生み出し、戦争に敗れたことによって「牢獄に幽閉」されることになった。このためファシズムに対する本格的な内在的批判はなされていない、という。
そこで著者は、1930年代ファシズムの断面を中野正剛、内田良平、蓮田善明に見て、その限界と可能性を再考する。さらに、1968年に焦点を当て、全共闘時代・新左翼の意義と限界、連合赤軍とは何だったのか、そしてこれに対する三島由紀夫の位置を探る。
著者紹介は次のようになっている。
 
1950 年生まれ。高校在学中からアナキズム運動に参加し、「アナキスト高校生連合」や「大阪浪共闘」で活動。70 年代初頭、新左翼論壇において最年少のイデオローグとして注目され、『歴史からの黙示』(田畑書店)を著すも、次第に隠遁生活へ移行。長期にわたる沈黙を経て、08 年頃から再び雑誌などに精力的に論文を発表しはじめ、「アナキスト的ファシスト」とも評される異端の過激論客として劇的な復活を果たした。
 
バクーニン的アナキズムに発したが、やがてアナキズムの限界を悟り、思想の翼を広げたが、一時は隠遁し、近年「復活」し、本書に至る。経歴に見合って、1968年の記述は、東京中心、年長世代の全共闘論を批判し、大阪の、若年世代の問題意識に即した運動論と世界認識を紹介し、現在の問題につなげようとするところはおもしろい。
団塊世代が1946~49年を中心とすると、著者はその最後の時期に当たり、当時は高校生・浪人生として運動に参加していた。運動の中で自己形成をした年代と言う。そのことが持つ意味にこだわっている。東京中心、年長世代が残した全共闘イメージを覆す試みでもある。当時、中学生で、全共闘運動に批判的だった私から見れば、その違いは些末でどうでもいいことだが、著者にとっては、そこにこだわり続ける必要があるのだろう。
アナキズムに始まり、資本主義、帝国主義を批判し、乗り越える思想を模索してきた著者は、大東亜戦争と1968年という2つの歴史的転換に着目し、そこから次の思想を展望する。その際に、ファシズム論は避けて通ることはできない。
私は著者とは立場も考えも異なるが、著者の問題提起はユニークであると同時に、必然でもあると思う。いかなる立場であれ、ファシズム論抜きに現代を語ることはできない。
木村朗・前田朗編『21世紀のグローバル・ファシズム』(耕文社)