Friday, August 24, 2018

フェミニズムはどこへ行ったのか


河野貴代美(対談:岡野八代)『わたしを生きる知恵――80歳のフェミニストカウンセラーからあなたへ』(三一書房)


フェミニズムが輝いていた時代があった(ような気がする)。日本ではおおざっぱに言えば1970~80年代だろうか。本書では「残念なことに1960年代後半から80年にかけて世界中を席巻したフェミニズムは、多くの誤解を受け、その内容やメッセージが後の世代の女性たちに性格に届いていないように思います」とある。

フェミニズムについてほとんど発言したことのない私だが、それぞれの時期に重要な著作は読んできたし、運動の一端も横から見てきた。フェミニストではないが、日本のフェミニズムの動向、あるいは国連人権機関におけるフェミニズムの動向については多少知っているつもりだ。それ以外の世界の大半のフェミニズムについては無知だ。

本書は、1968年にアメリカでフェミニズム、フェミニズムカウンセリングに出会い、その後、日本にフェミニズムカウンセリングを広めた実践家にして理論家の河野と、ちょうどその頃、1967年に生まれた政治学者の岡野の共著と言ってよい本である。半分は河野と岡野の対談。残りの半分が河野のエッセイから成る。


「対談・個人史を語る」は、河野と岡野がそれぞれ母親との関係の中で育ち、学び、悩んだことから始まる。そこからフェミニズムとの出会いがあり、フェミニストカウンセリングや政治思想研究につながっていく過程が語られる。母と娘の間の愛情と葛藤について本書は繰り返し立ち戻ることになる。

「あなたはあなたであってよい」「個人的なことは政治的なこと」「自分に正直であること」――フェミニズムの主張として有名なスローガンの意味と意義が、あの時代を生きた河野によって平明に語られる。ここから浮き上がるのは、なぜこれらのスローガンが、当時フェミニズムの核心として打ち出されなければならなかったのか、である。逆に言えば、男達はなぜこうした当たり前のことを掲げなかったのか。掲げる必要がなかったのか。


二人は「フェミニズムの衰退・断絶をめぐって」について語る。70~80年代に活動した団体の解散、「女性学」「ジェンダー学」という「学問」になってしまったこと(フェミニストカウンセリングも学会になっていった)、社会構造を問う思想と運動として展開しきれなかったこと、1985年の男女雇用機会均等法による「女性貧困元年」、「自己責任」論へのすり替えなど、さまざまな理由が検討される。

フェミニズムに対するバックラッシュは世界でも日本でもおきた。日本では90年代後半以後のフェミニズム叩きや、男女共同参画に対する反発である。フェミニズムやジェンダーという言葉への猛烈な反発も記憶に新しい。

女性の権利という観点では、男女共同参画社会基本法(1999年)、児童買春・ポルノ禁止法(2000年)、ストーカー規制法(2000年)、DV防止法(2001年)、子ども・子育て支援法(2012年)、職業生活の女性活躍推進法(2015年)、政治分野の男女共同参画推進法(2018年)のように前進を続けているが、各論の議論はできてもフェミニズムそのものが脚光を浴びることがない。セクハラ問題に対する反応を見ても、男性支配と男性中心主義の壁の高さには驚くべきものがある。

そこでフェミニズムの「個人主義」の問い直しが図られる。男性中心主義の「個人主義」への批判と、もう一つの「個人主義」に着目する。日本国憲法24条にも個人主義は含まれているが、そこでは「一人一人が全体である」。

「私を育ててくれた人、その人の記憶や経験もまた、私の一部を形づくっている、その記憶を含め私は私だ、誰にもそれを奪われない、という主張です」。「社会関係の中に自分を沖か直してみることで、新しい自分と出会い直す」。

「自分とは違う人との出会いは人を豊かにしてくれます。その体験を受け止めて味わい、あるいは乗り越えて、さらに多様な人々との関係に向けて自分を開いていくような考え方や手法が、いま、とくに必要とされているのではないでしょうか。そこからしか社会全体の変化もありえない、そう思います。」


河野貴代美、岡野八代、そして編集の杉村和美という3人の女性がそっと差し出した本書は、「行方不明」のフェミニズムがこの世界の至る所に根づき、息づき、世界を変えつつあることを教えてくれる。その道はなお遠く、曲がりくねり、いくつもの山を越え、幾度も壁にぶつからなくてはならないだろうが、女性たちの暮らしの現場から常に立ち上がる思想としてのフェミニズムが無数に飛躍の時を待っている。