Monday, August 03, 2009

ヘイト・クライム(7)

在日朝鮮人社会科学協会セミナーにおける講演原稿

(後に加筆訂正の上『非国民がやってきた!』耕文社、2009年に収録)

内から見た日本

――日本における植民地主義と“自己植民地主義”

1 植民地主義と“自己植民地主義”

「日本における植民地主義と“自己植民地主義”」という副題を掲げました。“自己植民地主義”というのは聴きなれない言葉です。社会科学的な用語ではありませんが、今日の報告では植民地主義と“自己植民地主義”の相克という観点から現代日本について考えてみたいと思います。

まず「日本における植民地主義」については説明するまでもありません。近代日本が蝦夷、琉球を手始めに、台湾、朝鮮、そしてアジア各地へと触手を伸ばしていった植民地化の歴史を追跡することはここでは割愛します。

ただ、確認しておきたいのは、「歴史としての植民地主義」とは区別される意味で「意識としての植民地主義」、あるいは「現在の植民地主義」について検討しなければならないことです。

換言すれば、植民地支配や戦争の歴史についての認識ですが、植民地支配や戦争への反省の欠如、従って植民地意識の残存という問題があります。日本が「脱植民地化過程」をどのように潜り抜けてきたのか、あるいは潜り抜けてこなかったのかという問題です。

そのことが、戦後における植民地意識の再生産を見事に現実化させたわけで、人種差別、排外主義も含めて、長い間、日本社会の根底に潜み続けてきました。

いま「日本社会」と言いましたが、私の報告では、日本国家と日本社会とを相対的に区別します。しかし、言うまでもなく両者は区別されるべきものであると同時に、容易に切り離すことのできない、密接な連接を有する存在です。植民地主義という問題圏において、日本国家と日本社会とがどのような構制で語られるべきなのかも注意していきたいと思います。

戦後において再生産されてきた植民地意識はそのものとして「ある」わけですが、さらに私

たちは、現在において、東アジアの新しい情勢の中でつくられている植民地主義も見ておく必要があります。アジアにおける「権益擁護」論という形の植民地主義でして、在外邦人ではなく、在外「法人」を守るための戦略的思考なるものがそれです。

  さらに言えば、今日では「ライバルとしてのアジア」という現実が見えてきているだけに、かつて見下し、支配してきたアジアがライバルと化しつつあることから、もう一つゆがんだ植民地主義が登場してきていると考えられます。

 次に“自己植民地主義”です。この奇妙な言葉で表現しようとしているのは、もちろん戦後、現在にまで至るアメリカによる「日本植民地化」と、それに対応する日本社会の意識のことです。

  歴史的には明治以来の脱亜入欧の近代があり、昭和における「近代の超克」の失敗が続くわけですが、その結果として米軍による占領と民主化と安定の歴史を迎えることになります。連合国による占領といっても実態はアメリカによる単独占領に近かったわけですし、日本社会の受け止め方もそうでした。しかも、自由の指令、憲法改正をはじめとする戦後改革、まぶしすぎるほどのアメリカ文化の流入などにより、自由と民主主義を与えられた日本社会は、それまでの“鬼畜米英”から、ひたすらアメリカ・ファンクラブへと見事に転進したわけです。

  自由や民主主義や文化だけに着目すると本当のところが隠されてしまうわけで、実際には日米安保条約の縛りがあるのです。日米安保条約の半世紀を経て、アメリカ抜きに自立できない国家が完成し、対米追随の社会意識が定着してきました。しかも、そのことを日本社会は疑いを持たず、むしろ歓迎しているほどです。沖縄をはじめとして迷惑施設を押し付けられた地域は別として、日本社会はアメリカの“植民地になりたがる精神”に充満しているのです。

  植民地主義と“自己植民地主義”の相克、葛藤――その歴史的意味を見定めることが私の報告の課題です。ただ、果たして両者は相克、葛藤しているのか。それとも単にすれ違っているのかも、なお疑問として残っているのが実情です。

  しかし、日本社会の意識という面だけではなく、より大きな視野で、五〇〇年にわたる近代のプロジェクトとしての世界分割を経て、世界的に続けられた脱植民地化過程――宗主国の脱植民地化過程と被植民地国の脱植民地化過程、そして「新植民地主義」までを含めて見通しながら考えておく必要があります。

 二〇〇一年八月末から九月初旬に南アフリカのダーバンで開かれた人種差別反対世界会議は象徴的でした。私は他のNGOメンバーとともに、「ダーバン二〇〇一日本委員会」としてこの会議に参加しました。

 ダーバン会議は国連主催の三回目の人種差別反対世界会議でした。最初の二回は旧宗主国側と旧植民地側との見解が先鋭に分かれたために、結局のところ成果を挙げることができなかったのですが、三回目のダーバン会議において、ようやく植民地時代の反省が正面から議論されました。ダーバンに集まった多くのNGOや、アフリカ、カリブ諸国は植民地支配の清算を求めてさまざまな活動を行ないました。政府間の本会議では、アフリカ・カリブ諸国がケニア政府などを先頭に団結して植民地支配の責任を追及しました。これに対してJUSCANZグループ(日本、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)が、何とか調整しようとしたのです。植民地支配の最大の責任者であるイギリス、オランダ、ベルギー、スペイン、ポルトガルなどはJUSCANZグループの後ろに隠れていました。日本政府がむしろ先頭に立っている有様でした。二転三転した結果、二〇〇一年九月八日にまとめられたダーバン宣言と行動綱領は、植民地時代における奴隷制は人道に対する罪に当たることを認めるが、その補償を義務付ける文言は含めない形で決着を見ました。

 妥協の結果とはいえ、国連の歴史上初めて、奴隷制は人道に対する罪であったと認めたことは大きな前進でした。ところが、その三日後、私が帰国して時差ぼけで熟睡している間に、ニューヨークで世界貿易センタービルが崩壊し、ブッシュ大統領の「テロとの闘い」と称する「宗教戦争」「人種差別戦争」が噴出することになったのです。ここから「新植民地主義」がひそかに胚胎していきます。五〇〇年にわたる近代のプロジェクトの犯罪性の確認からわずか三日後に、歴史は暗転したのです。

 五〇〇年の歴史をここで振り返る余裕はもちろんありません。問題点を指摘するにとどめますが、日本における植民地主義の両義性、そのねじれを見ていきたいと思います。おそらく、この両義性は、日本社会にとっては“複雑骨折”とでもいった表現が的確なのではないかと考えていますが。