Sunday, August 24, 2014

大江健三郎を読み直す(27)40年ぶりの再読

大江健三郎『万延元年のフットボール』(講談社、1967年[講談社文庫、1971年])
40年ぶりに読んだ。二度読むことにある種の恐怖感を抱いていたからだ。大江にはいくつもの代表作があるが、本書は初期の代表作というにとどまらず、現時点でも、その後の数々の大作とともに代表作に数えられる。というよりも、1967年の発表時に現代日本文学の代表作の一つになっていた。文学体験のまだ少ない18歳の私が、母校の図書館の開架式書庫に置かれた大江作品を発表順に読んだのは春から秋にかけてのことだ。もっとも、夏休みには故郷に帰省して中断したから、本書を読んだのは秋になっていただろう。感銘を受けたというのではない。感動したとか感激したというのでもない。言葉に表現できない動揺を味わい、本書を閉じるとすぐに忘れようと努力したのだった。衝撃というのではない。静かに震撼させられたと言うべきだろう。その後しばらく大江作品から遠ざかることになった。『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』には、『万延元年のフットボール』に続く意欲作といった宣伝文句が伴っていたから、すぐには読めなかった。表題から言っても、避けて通るしかなかっただろう。『洪水はわが魂に及び』もすぐには読めなかった。20歳の終わりに出版された『ピンチランナー調書』で、はじめて大江作品を出版時に同時並行的に読むことになったが、それ以後に『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』に帰ることが出来たと思う。
ここには大江作品の主題群がぎっしりと詰まっている。60年安保体験が導入になっていて、それが100年前の四国の谷間の一揆につながる。知識人と民衆の指導と共闘と反発と激突が織りなす絵巻である。『個人的な体験』で描いた障害を持って生まれた長男は、前面には出てこないが常に影を落としている。核時代の想像力を問い続けた大江の同時代認識もシャープに打ち出されている。四国の森の奥の大江世界の原型は最初期作品群にも見られるが、四国の森の奥を神話的世界として表象していくのは本書である。
40年ぶりに読み直すことにしたものの、いきなり読むことは躊躇われた。2014年に大江作品を最初から読み直すことにして、1月からずっと読み返しを続けてきたのは、もちろん、大江文学を読み直すことで私自身の現代体験の意味を問い直すことであったが、同時にとりわけ、40年手にしてこなかった本書にもう一度分け入るということでもあった。そして、やはり、ここに、出発点がある、と再確認することになった。ここに、すべてがある、わけではない。ここに、答えがある、わけでもない。1967年に大江が参入し、衝突し、格闘し、糾弾し、小説として再構成した同時代――それは一方で戦後民主主義と呼ばれた時代の輝きと、薄れ始めた輝きと、混迷であり、他方で大江が今もなおこだわり続けている敗戦体験――戦後民主主義との対比で言えばまさに戦前的なるもの、ただし、単に軍国主義の日本ではなく、明治に遡って、さらには江戸時代にも遡っていくことのできる日本、日本的心性とでも評すべきもの、その相克、葛藤、馴れ合い、騙し合い。戦前と切り離されたかなり純粋な戦後民主主義世代の私にとっては、読みたいが読みたくないもの、それが描かれているのだ。
四国の森の奥に育ち、都市に逃げ出し、青春小説を次々と送り出した大江は、青春小説から卒業して文学的主題を模索し、反芻し、獲得し、再獲得し続けた果てに、四国の森の奥を神話的世界として構想し、生涯の主題に研ぎ澄まして行った。北海道札幌の郊外に育ち、文学とは異なる道に彷徨いこみ、都市の雑踏を平凡に生きてきた私には、大江世界との共通点は少ないようにも思えるが、文学の力はそうした私をも鷲づかみにするのだ。
『万延元年のフットボール』は、はじめ雑誌『群像』に連載され、大幅な訂正を施して、講談社から出版された。大江は文庫版に寄せた「乗越え点として」において次のように述べている。
「いま考えてみると、重すぎる荷をかついで危険なところに立っているようにして、この長篇の構想とともに身動きできぬふうだった3年ほど、僕はさきに書いた、ウイスキーを飲んで泳ぐという、気まぐれな思いつきに顕在化したような自己破壊の衝動を、自分のいうちにひそめていました。さらに作家の仕事を続けるか、作家とはことなる方向へと再出発するか、という分岐点の前に立ち止まるようでもあったのだと思います。」

分岐点の先に直ちに分岐が現れ出るのではない、四国の森の奥の行き詰まり、どん詰まり、石鎚山脈と四国山地の山塊に閉ざされた窪地という地理的な奥底に入り込み、崩壊した蔵屋敷の下に発見された地下蔵にこもり、弟が率いて谷間に悲鳴と叫喚と喧噪を引き起こした暴動からはみ出し、拠点を喪失するような地点に行き着いて、大江は乗越え点、転換点に辿りつく。振り返れば無数の分岐点がそこに横たわっていたのだろう。これが私の動揺であり、恐怖であった。18歳の私は本書の多くの主題を読み落としていたに違いないが、地理的どん詰まり、精神的どん詰まりで自己の拠点をいったんはすべて失い、そしてその先に、と想像することで、動揺にかられ立ち尽くしたのだろう。