Saturday, November 24, 2018

新段階に突入した東京裁判研究


D・コーエン&戸谷由麻『東京裁判「神話」の解体』(ちくま新書)



<東京裁判は「勝者の裁き」であり、インド代表パル判事とオランダ代表レーリンク判事の反対意見は、その欺瞞を暴き出すものだとの論が日本の国内論議で長くみられた。だが、パルやレーリンク意見には重大な誤謬と恣意性があり、東京裁判の功績と問題点の歴史的・法理学的理解を大きく歪めている。東京裁判研究者の戸谷と国際法の大家コーエンが、従来見過ごされてきたウェブ裁判長による判決書草稿を読み解き、東京裁判の過程を再検証する。判決から七〇周年を迎えた今、知られざる真相を解明する。>


日本では、「東京裁判史観批判」が膨大に出版され、パルを名判事と持ち上げ、ウェブ裁判長を誹謗中傷してきた。その多くは東京裁判の基礎的理解すら怪しい上、当の判決を読んだかどうか疑われる水準である。日本の戦争犯罪を隠蔽し、消去することだけを目的として、「東京裁判研究」とは言えない、身勝手な議論が幅をきかせてきた。

本書は、東京裁判、BS級裁判、ニュルンベルク裁判に通暁した二人の著者が、さらには旧ユーゴスラヴィア国際法廷、ルワンダ国際法廷、国際刑事裁判所に至る国際刑法の発展も踏まえて、歴史的かつ現在的な課題として、東京裁判研究に新しい一歩を踏み出してみせる。その背景には、英語で出版された大著The Tokyo War Crimes Tribunal: Law, History, and Jurisorudenceがあるという。同書を入手していない。著者のコーエンはカリフォルニア大学バークレーの教授で国際法の大家、戸谷はハワイ大学教授の歴史家で、『東京裁判』『不確かな正義――BD級戦犯裁判の軌跡』の著者。


本書は、東京裁判に関する「神話」のうち、パル、レーリンク、ウェブという3人の判事に対する評価を俎上に載せる。

「日本無罪論」で有名なパルは、日本では素晴らしい国際法の大家として遇されている。しかし、ひとたびパル判決を読めば、およそ刑事法廷の判決と呼ぶに値しない粗野な政治論議が展開されているに過ぎないことは明白であった。本書は、パルが「東京裁判」とは異なる「別の将来の法廷」のための判決としてイデオロギーに満ちた判決を書いた理由を探る。

一方、レーリンク判事も被告人のうち文官について無罪と判断したため日本ではきわめて評価が高い。本書は、レーリンク判決の中身に立ち入り、やはり国際法と刑事法の法理という点では合格点に達していないことを丁寧に論証している。

他方、ウェブ裁判長については、被告人らを有罪とした「多数意見」の主として批判され、特に共同謀議論への批判が集中してきた。しかし、実はウェブは「多数意見」とは異なる法理を有していた。法理としては異なるアプローチをしていたが、結論は多数意見と共通するため、ウェブは自分の判決草案を引き下げた。タイプライターで600頁を越える判決書草稿である。本書はウェブの判決書草稿を取り上げ、内容を詳しく紹介する。そこでは、まさに刑事法廷の判決書として完備した体裁と内容の法律文書を見ることができる。パルやレーリンクと異なり、多数意見とも異なり、ウェブだけが本格的な法理論を適用した見事な刑事判決を起草していたのだ。


若干のコメント。

第1に、本書は東京裁判に関する実証的かつ理論的研究である。英語の大著の一部をもとに、新書として構成したもので、主題を絞り込んでいる。分析もシャープである。

第2に、これまで紹介されてこなかったウェブ判決書草稿をもとに、判決形成過程の具体相を解明しているこれにより、東京裁判の総合的研究に一段階を画したものだ。

第3に、法律家と歴史家の共同研究の成果として、法理論と歴史の双方にわたって精密かつ説得的な議論が展開されている。

第4に、1990年代のユーゴスラヴィア国際法廷、ルワンダ国際法廷、国際刑事裁判所似始める現在の国際刑法の飛躍的発展状況を踏まえて、現在の研究水準から東京裁判を検証するという国際的動向にも大きな前進となる。


著者の一人・戸谷には一度お目にかかったことがある。17年12月2日、一橋の如水会館で開催されたラッセル法廷50周年シンポジウムに、戸谷も私も報告者として参加したからだ。その記録は、『歴史評論』823号(2018年11月号)に掲載されている。