Friday, June 17, 2011

頑張ろうニッポン狂騒曲 拡散する精神/萎縮する表現(3)

 「頑張ろうニッポン」の大合唱が続いている。


 三月一一日の東日本大震災、追い討ちの津波、そして「想定外」の「人災」である福島原発事故。桁外れの三重苦に直面して、被災者はもとより、直接の被災者ではなくても、精神的打撃は甚大である。政治・経済・社会が被った損失も計り知れない。誰もが暗澹たる思いにうち震えている状態で、少しでも被災者を励まし、自らを奮い立たせて、復興に向けた歩みを始めなければならない。そのためのシュプレヒコールが「頑張ろうニッポン」である。


 とりわけ目立つのはTV広告だ。震災下、一定程度の自粛を余儀なくされた企業広告のほとんどが、ACジャパン(旧・公共広告機構)の臨時震災キャンペーンに変更された。連日、朝から深夜まで「頑張れニッポン、頑張ろうニッポン、日本はひとつだ、チームだ、団結だ・・・」の大合唱が、二ヶ月以上にわたって延々と続いている。


 その政治的社会的影響力を精確に測定することは困難だが、ACジャパンとマスコミが一体となって作り出した、前例のない「頑張ろうニッポン」キャンペーンの政治的効果は相当長期に及ぶことは間違いない。一九九五年の阪神淡路大震災の時にさえ、これほどの事態は生まれなかった。それゆえ、即座に思いつく政治的社会的影響について少々書き留めておきたい。


 何よりも「頑張ろうニッポン」はナショナリズムの鼓舞煽動である。当事者たちは政治的ナショナリズムを煽るつもりではない。落ち込んだ日本を元気づけるためにやっている。意識的なナショナリズム煽動と同断の批判はしにくいが、ナショナリズム決起につながる効果は否定できない。ナショナリズムの煽動は、具体的には三つの効果を伴う。


 第一に、「強者の論理」の横行である。負けないために、押しつぶされないために、確かに「強くなる」ことが必要だが、人々が強者の論理を内在化させると、強いリーダを求める政治意識が培養される。東京都知事選挙における石原慎太郎四選もその一現象だ。ここでの「強さ」は人間的精神的能力ではない。空威張りと暴力的な強さがアピールしてしまうのはポピュリズムゆえの勘違いである。勘違いが持つ政治的効果は残念ながら実に大きい。


 第二に、権力と財力の論理、資本の論理として具体化される上からの「頑張ろうニッポン」は、「情報強者」の情報隠しを容易にする。日本政府や東京電力が原発事故に関する情報を意図的に隠したとは言わない。実際は、混乱の中で情報がない、情報の意味がわからない、分析力がない、だけのことだっただろう。意図的に隠蔽するだけの才覚すらなかったと見るべきだ。しかし、長期にわたって情報が正確に伝えられないまま、国民は日本政府や東京電力と一体となるべき存在として再編されてしまう。現に存在する矛盾が隠蔽される。自覚的な「反(脱)原発論者」は別として、多くの国民が東京電力を批判的に見る姿勢を奪われてしまう。かくして「頑張ろうニッポン」は、「直ちに健康に影響のない放射能」とやらの下で「癌になろうニッポン」(萩尾健太弁護士の言葉)に転化する。


 第三に、ナショナリズムが社会に蔓延すれば、やがて排外主義や差別に繋がることは、何度も繰り返されてきたことである。異なる者の無視、異なる者に対する不安が、外国人への眼差しを厳格化させる。「小さな差別」の容認、黙認が始まる。在留外国人のうち短期滞在者のかなりの部分が帰国・離日したといわれるが、日本に在留し続けている外国人も少なくない。朝鮮や韓国からの被災者支援の事実はほとんど報道されず、アメリカによる「トモダチ作戦」だけが大々的に報道される。


 こうして社会の自己破壊が始まる。一人ひとりが生きる場での復興を必要としている被災者を置き去りにした政治劇の世界だからだ。一人ひとりの生きた人間の存在を無視した放射能ばら撒き政治が、人間の創造性を奪い、社会の治癒力を損なう。矛盾を拡大しながら同時に矛盾を隠蔽するアクロバティックな笑劇はいつまで続くのだろうか。



「マスコミ市民」2011年6月号