Sunday, February 16, 2020

ヘイト・スピーチ研究文献(150)移民・難民の主体性


高橋若木「収容所なき社会と移民・難民の主体性」杉田俊介・櫻井信栄編『対抗言論』1号(法政大学出版局)



「仮放免は目標になりうるのでしょうか?」――この問いには、異なる2つの応答が必須である。長期収容の現実を前にすれば、仮放免は目標であるに決まっている。だが、退去強制が取り消されず、就労許可も公的健康保険もない現実の下では仮放免は最終目標ではない。阿鼻地獄が良いか、叫喚地獄が良いかの選択を迫る論法にはまってはならない。そこで高橋は「反収容タイプ」を2つに分ける。

現実の制度の運用改善を求める反収容タイプAと、収容制度の廃止を求める反収容タイプBである。この両者を視野に入れて議論していく必要があるという。

反収容タイプAは、例えば、救急搬送拒否事件で事件を世間に訴え、診察と搬送を求める運動が取り組まれた。裁判でも、長期収容につながる「在留活動禁止説」に対して、収容の目的は退去強制を円滑に実施するためのものであるとして「執行保全説」が対置される。だが、退去強制すべきだと主張しているのではない。タイプAは、収容政策の適正化を求めつつ、収容そのものに反対するタイプBを展望し得る。

反収容タイプBは、収容の改善ではなく撤廃を目指す。誰も収容されない社会を創造することが目標だが、一気に実現するわけではないから、収容に上限を設定することから始める。高橋は、反収容タイプBに立った4つの原則を掲げる。「第一に、まともな在留資格を設定し直すことである。」労働者としての権利保障が出発点だ。

「第二に、労働者としての権利は入管法に違反したからと言って停止されるわけではないと認めさせることである。」

「第三に、『ヨーロッパの教訓』などの漠然とした移民警戒論を語るくらいなら、日本の移民政策の最近の失敗を想起することだ。それらは多くの場合、改善可能である。」

「第四に、外国人の人権を日本人が守るという発想に留まらず、日本国籍を持たない住民の政治的主体性を確立することだ。外国人参政権はそのために不可欠である。」



他方、高橋は「リベラルな恩恵的排外主義」を批判する。「リベラルは一般的に、個人の権利を尊重しようとする。しかしその原則が、すでにいるメンバーが尊重される共同体を保守するため、権利を保障しきれない移民は入れないでおこうという姿勢につながる場合がある」からだ。

高橋は「リベラルな恩恵的排外主義」の実例として、(1)堤未果『日本が売られる』による外国人と日本人の対立図式、(2)TOKYO DEMOCRACY CREWの「移民受け入れ拡大反対」論、(3)社会学者の上野千鶴子の移民受け入れ拡大反対論の3つを紹介して、「移民と国民の利害対立という単純な図式が根拠薄弱かつ無責任である」と批判する。



最後に高橋は「収容する権力と移民の主体性」について論じる。結論は次のようにまとめられる。

「反収容タイプAで現在の移民を制度内で支援する際には、収容所なき社会を追及する反収容タイプBを並走させることで、『よい収容所』作りとは異なる方向を歩むこと。反収容タイプBの目的を追求しつつも、タイプAで現在の移民を支援し、彼・彼女たちの必然的な選択に連帯すること。今いる当事者を支援して制度の適正化を要求しつつ、同時に収容所が無用となる社会に向かう反差別はあり得る。マジョリティ(収容されない人々)が支援活動のなかでも自分たちの恩恵的なポジションと格闘することは、その言論・運動がもつ特徴の一つだろう。タイプAとタイプBを往還する反収容は、例外的な保護対象ではなく政治的な主体としての移民の運動ともなり得るはずだ。」

日本政府の外国人処遇から、リベラルな恩恵的排外主義に至るまでの、日本社会の差別と排外主義は、人間の断片化に貫かれている。移住外国人を、人間として処遇するのではなく、それゆえ人権の主体としてではなく、労働力としてのみ位置付ける。人間を、ある一面の機能に縮減する。人間たる資格を持つのはマジョリティである私たちだけであり、それ以外の者には存在証明責任が課される。収容所のある社会とは、マイノリティの主体性を否定し、マジョリティを千切りにして、際限なく序列化する社会である。