Tuesday, November 08, 2022

やわらかいフェミニズムの方へ

河野貴代美編著『やわらかいフェミニズム――シスターフッドは今』(三一書房)

https://31shobo.com/2022/08/22004/

<「フェミニズムはどうなっているの?」という問いかけがある。

 フェミニズムの掲げた「反差別」「反性差別」「反暴力」「平等」「平和」を降ろすつもりはない。でも反教条的、反原理的、反強制的なフェミニズムを目指したい。>

もくじ

はじめに(河野貴代美)

第1章 モザイク模様のフェミニズム(荒木菜穂)

第2章 差別する/差別されるという個人的体験

1 自分の物語から(河野和代)

2 在日朝鮮人三世という存在(高秀美)

3 差別について(河野貴代美)

第3章 次世代との交流におけるフェミニズム

1 インタビュー 子どもには自分の人生を生きてほしい(小川真知子)

2 インタビュー フェミニストも子育ては試行錯誤(加藤伊都子)

3 アメリカで起きていること(ゴードン美枝)

第4章 少女マンガに描かれたシスターフッド(小川真知子)

第5章 自由に、闊達に、謙虚に生きる

1 私が私になることと対男性との関係(河野和代)

2 女性たちはどのようにしてフェミニズムと出会うのか(加藤伊都子)

3 出会いを求めて(河野貴代美)

第6章 やわらかいフェミニズムの体験 執筆者座談会

終わりに(河野貴代美)

『それはあなたが望んだことですかフェミニストカウンセリングの贈りもの』や、『わたしを生きる知恵 − 80歳のフェミニストカウンセラーからあなたへ』に続く河野貴代美とその仲間たちのフェミニズムの旅をめぐる一冊である。

主にフェミニストカウンセラーによる文章で、カウンセラー自身の体験も含めて、女性たちが遭遇する困難にどのように向き合っていけるか、悩みを共有し、語り合い、乗り越えを図るための著書だ。

フェミニズムという言葉や思想がこの国に紹介されて久しいが、フェミニストカウンセラーや、やわらかいフェミニズムという考え方はあまり知られていない。

河野貴代美は「はじめに」で、「支え合う関係性の構築」を説くことから始める。自立した「強い個人」の思想を基軸にしてきた近現代の思想とはやや異なる入り方である。最近ではケアの思想、「弱い個人」という思考もかなり理解されてきている。

何も介護の現場の思考だけではなく、人間はもともと一人では生きられない。一人では「人間」になることもできない。人々が支え合う関係性が不可欠であり、社会的諸関係の結節点として個人が生み出される。「支え合うフェミニズム」「シスターフッド」がそもそものフェミニズムだという。

河野は次に「二項対立は単調、何かを見落としている」として、二項対立的発想からの自由を説く。フェミニズムに限らず、どの思想も近代的な二元論の罠に陥りやすいので、要注意だ。

さらに河野は「多様性を越えて」と説く。「二項対立を越えて多様性へ」ではなく、「多様性を越えて」である。「多様性」は重要だが、多様性に縛られていないか。多様性の困難性を自覚する必要がある。

それゆえ、河野は「多様性を含み込んだインターセクショナリティ」という。「白人中産階級異性愛者のフェミニズム」を出発点としつつ、黒人フェミニズム、有色人種フェミニズム、障がい者フェミニズム、肥満フェミニズムなど多様な立場が、分断することなく、分断されることなく、翼を広げること。

こうして「想像力への想像力」に到達する。違いやわからなさを乗り越える想像力を身に着けるには、想像力の豊かさと限界の振れ幅への想像力が必要だ。

それでは「やわらかいフェミニズム」とは何か。

河野は「正解はない」と宣言する。「私の主張する<やわらかいフェミニズム>とはそういうものである。」そして「自分との対話を始めてほしい」という。

ここから本書の問いが始まり、執筆者たちはそれぞれの空間、立ち位置、歴史、人間関係を振り返り、自分に問いかける。

つまり、やわらかいフェミニズムは、定義されない。定義を求めない。まとまった思想や理論ではない。正解や結論を求めない。

ぶつかり、立ち止まり、悩み、自分に問いかけ、仲間と語り合う、そのプロセスこそフェミニズムである。

荒木菜穂は「モザイク模様のフェミニズム」において、「フェミニズムの複数性――面白さと、ややこしさ」を論じる。フェミニズムの目的はジェンダー構造の可視化と批判だが、それも労働、家庭、性、身体など関心領域によりさまざまでありうる。

「ジェンダーに縛られない個人の生き方を再定義」することも必要だが、「主体的な、欲望の実現のための女性たちの行動は、ジェンダー構造の追随や強化につながる」という。ダブルバインドに直面する。

フェミニズムの中での対立が生じるので、荒木は「フェミニズムとフェミニズム」と題して、対立の起源や、解消のための議論を瞥見する。行き着く先は「私のフェミニズム、あなたのフェミニズム」だが、単なる相対主義や個人主義ではない。「自分とは異なる事情を持った女性はどのように構造によって『作られ』『扱われて』きたのかの想像力を持つことこそ、フェミニズムのもっとも成熟した姿ではないだろうか」という。

シスターフッドにたどり着いて立ち止まるのではなく、シスターフッドを支える条件の解明、その動態と過程への参与こそが重要となる。フェミニストカウンセリングはケア・フェミニズムを要する。

正解はないが、正解を求める姿勢、態度、運動、過程、その継続こそ重要、というのは、ある種の逃げにも見えるが、一人ひとりの女性たちの経験に根差したフェミニズムでなければならない以上、モデルや正解が用意されていないのはむしろ当然なのかもしれない。

「やわらかいフェミニズム」という表題を見たときに、ただちに「かたいフェミニズム」はどのようなフェミニズムだろうか、と考える。だが、本書は「かたいフェミニズム」を論じない。

誰の、どのようなフェミニズムが「かたいフェミニズム」であるかがわかれば、それとの対比で「やわらかいフェミニズム」がわかりやすい、と思うのは、あらかじめ本書を誤解、誤読すると決まった読み方となるだろう。多彩で多面的なやわらかいフェミニズムの多様さに着目するべきなのだろう。

私とほぼ同世代の小川真知子が「多分私のシスターフッドの原型は『赤毛のアン』かなと。生涯で一番繰り返し読んだ本が実は『赤毛のアン』のシリーズで、三〇歳ぐらいまで結構繰り返し読んでいます。」という。アン、マリア、リンドのシスターフッドという観点で読み直すことができるという。

私も高校時代に友人の勧めで『赤毛のアン』を全巻読んだ。ちょうど、無頼派の太宰、安吾、織田作に嵌っていた時期だ。おまけにノーマン・メイラーやフォークナーに出会って、読みふけっていた時期でもある。

だから、無頼派やメイラーやフォークナーの世界――いわばブラザーフッドに満ちた世界と、ルーシー・モンゴメリの世界の違いに、驚嘆したことを記憶している。

私にとって、無頼派はともかく、メイラーやフォークナーの世界はむしろ人工的で、遠い世界と感じられたため、『赤毛のアン』のシスターフッドの方がなじみやすい感じがしたものだ。里中満智子から池田理代子、さらには岩舘真理子、山岸涼子、吉田秋生などへの関心につながるような気がする。本書では樹村みのり以後の「少女マンガ」が取り上げられている。

もっとも、当時、フェミニズムという言葉は知らなかった。

1980年代にフェミニズムを知り、著名なフェミニストの代表的な著作をいくつも読んだが、影響を受けるようになったのは1990年代半ばに日本軍性奴隷制(慰安婦)問題に取り組むようになって以後のことだ。

私はフェミニストではないが、直接影響を受けたのは、松井やより、西野瑠美子、大越愛子からだ。特に90年代から2000年代にかけて、授業でフェミニズムを取り上げる時は大越の著書を使っていた。

それとは別に国連人権機関に通い、国際人権法の文献に接するようになって以後、日本フェミニズムとは異なる、第三世界フェミニズム、最近の言葉ではサウス・フェミニストたちの議論に学んできた。

欧米の中産階級フェミニズムも重要な成果を上げてきたが、サウス・フェミニズムの緊張感と迫力はまさに現実を反映しているためだ。アフガニスタン・フェミニズムのRAWAもその好例だ。

日本フェミニズムはサウス・フェミニズムとは縁がないように見えるが、どうだろう。サウス・フェミニズムとやわらかいフェミニズムの間の対話はどのようにして成立するだろうか。