藤井正希「批判的人種理論の積極的活用――日本法への適用可能性について」『現代思想』五二巻一四号(二〇二四年)
「<人種>を考える」特集号に20人ほどの論客が登場し、人種概念がいかにして歴史的社会的に構築され、それぞれの国や地域でどのように機能してきたかが分析されている。『現代思想』らしい力のこもった特集だ。
その中で、一つだけ性格の異なる論文が藤井論文だ。人種概念の批判的分析ではなく、アメリカにおける批判的人種理論を日本法にいかにして活用できるかを論じている。
藤井はすでに次の2論文を書いている。
「ヘイトスピーチの憲法的研究――ヘイトスピーチの規制可能性について」『群馬大学社会情報学部研究論集』二三号(二〇一六年)
「批判的人種理論の有効性――ヘイトスピーチ規制を実現するために」『群馬大学社会情報学部研究論集』二七巻(二〇二〇年)
ヘイト・スピーチの刑事規制は国際常識である。ところが、日本憲法学では圧倒的多数説がヘイト・スピーチの刑事規制を否定し、ヘイト・スピーチは表現の自由とされてきた。差別擁護が日本憲法学の基本特徴であった。最近ようやく状況が変わり、刑事規制は可能であるという論文も登場しているが、まだ少数説である。藤井は早くからヘイト・スピーチ規制を唱えてきた異色の憲法学者である。
上記の藤井論文について、前田朗『ヘイト・スピーチ法研究原論』二五二~二五四頁、同『ヘイト・スピーチ法研究要綱』八三~八四頁でコメントした。
藤井は群馬の森朝鮮人追悼碑撤去事件裁判に関与し、裁判所に意見書を提出した。
著書『検証・群馬の森朝鮮人追悼碑裁判』(雄山閣、二〇二三年)
*
1 はじめに――本稿の目的
2 批判的人種理論とは
3 批判的人種理論の内容
4 人種的忘却性または透明性
5 日本法への適用
6 おわりに――今後への課題
藤井は、トランプ前政権の時期に、批判的人種理論に対する反動が強まったことを確認した上で、日本におけるヘイト現象には類似性があるとして、「ヘイトスピーチに対してどう向き合うかは、民主主義社会に不可欠な表現の自由と直接に関連する問題だけに、日本社会の成熟度が試されており、今こそ、様々な観点からの幅広い議論が求められている」とする。批判的人種理論を応用して日本におけるヘイト・スピーチ規制の理論的根拠や方法論を提示することを課題とする。
そこで藤井は批判的人種理論の基本的内容を詳しく紹介する。批判的人種理論とは、人種と法と権力のあいだの関係を改変することを目的とした根本的な法学運動であり、法を用いて人種的平等を達成しようとする。それゆえ、人種差別は個人の逸脱行動ではなく、社会の規範的秩序であり、法律や制度に組み込まれていると見る。
藤井は、アメリカにおける批判的人種理論の位置や性格と、日本における歴史認識問題の布置に類似性を見る。
藤井はヘイト・スピーチ、ヘイト・デモを取り上げ、広い意味での「人種による差別」であるという。同時に藤井は「それは日本の朝鮮に対する植民地支配という歴史的背景を持つものであり、それゆえ、かつての支配者から被支配者に対する優越感に深く根差している」と見る。国籍問題、選挙権、公務就任問題、生活保護・社会保障の差別、かつての外国人登録法による差別、同化の強制にも言及する。
「このような日本の法制度や社会制度の中に構造化された在日韓国朝鮮人差別は、あまりに自然で強固なものなので、在日韓国朝鮮人は逆らい難く感じてしまう。よって、結局、在日韓国朝鮮人は日本人の人種的特権を受け入れさせられ、差別を黙認してきたのである。これに対して、マジョリティである日本人は、自己の人種にもとづく社会的特権をまったく意識していない。多くの日本人は、日常生活において在日韓国朝鮮人の存在を意識することはなく、自分たちの地位を在日韓国朝鮮人との関わりのなかで考えることはない。その結果、日本人は、自分たちの生活が人種というものの影響を受けているという事実に気づかない。具体的には、日本人であるがゆえに社会から与えられている様ざまな利益に気づかないのである。」(八六頁)
「とするならば、批判的人種理論を日本における在日韓国朝鮮人に対するヘイトスピーチ規制に活用することは十分に可能であろう。すなわち、在日韓国朝鮮人は日本人に同化するのではなく、朝鮮独自の文化を守り、発展させるべきであり、在日韓国朝鮮人と日本人がそれぞれの民族性や文化特性を保持しつつ、共存していくべきなのである。また、より多くの在日韓国朝鮮人が法学者や法律家となって、現在の日本人が主体となっている法制度、法学教育、法曹界をマイノリティたる在日韓国朝鮮人の立場から変革していくべきである。」(八六頁)
最後に藤井は次のように結論付ける。
「筆者は、つぎの三点を根拠にして、ヘイトスピーチには早急により強力な法的規制をおこなうべきであると考える。すなわち、①通常の判断能力を有する一般人が実際に日本で行われている極端なヘイトスピーチを見れば、人間の存在自体を全否定する言動に対して、不快感や嫌悪感にとどまらず、衝撃や恐怖を感じざるをえないと考えるからである。とても反論をしようなどと考えることはできず、沈黙するしかないのが通例である。自分は決して見たくない、それゆえ止めてほしい、止めさせたいという素朴な感情を持たざるをえない。それを法に期待することは、決して不当なことではないと信ずる。また、②ヘイトスピーチ規制はもはやグローバル・スタンダードで国際常識であるからである。死刑廃止が世界の潮流であるにもかかわらずそれに背を向けているのと同様に、ヘイトスピーチ規制が世界の潮流であるにもかかわらずそれに背を向けているのが現在の日本なのである。日本は、経済的には先進国だが、人権的には未だ発展途上国と言われてもやむをえない。さらに、③凄惨なジェノサイドや著しい人権侵害は、ヘイトスピーチや民族排外意識から発生することが多いからである。ナチスのホロコーストも、ユダヤ人を排斥する些細なヘイトスピーチから始まり、人びとの意識に浸透する中で、ファシズムが完成し、ジェノサイドという悲惨な結果につながっていった。日本においても、同様のことが起こらないとは限らない。その芽を早期に摘むためにも、ヘイトスピーチの蔓延を放置しないことが大切なのである。」(八六~八七頁)
なお、藤井は、憲法学においては「現在においても規制消極説がいまだ根強い」とし、最近になって規制積極説が登場しているとして、桧垣伸次と奈須祐治の二人を上げる。
*
藤井説の特徴は、第1に、ヘイト・スピーチを差別問題として位置づけていることである。憲法学の多数説は、これを認めない。多数説は「ヘイト・スピーチは表現の自由の問題であり、刑事規制は憲法第二一条に反する」と決めつけて、譲らない。最新の憲法教科書もすべてヘイト・スピーチを表現の自由問題とする。差別問題(憲法第一四条)には言及しない。この一五年間、「ヘイト・スピーチは差別であり、憲法第一四条に反するから、合理的規制が求められる」という少数説が登場しているが、多数説はこの論点に言及しない。あくまでも表現の自由問題であるとする。
換言すると、規制消極説は「マジョリティの表現の自由を守るべきであり、マイノリティに対する差別問題を取り上げる必要はない」と判断していることになる。
藤井は、まず差別問題であり、同時に表現の自由問題であることも踏まえて、憲法論を展開するべきだと唱えている。
第2の特徴は、ヘイト・スピーチの現状・実態を踏まえて、被害論、保護法益論に接近している。被害論や保護法益論を詳細に展開しているわけではないが、議論の土俵は明快である。
第3の特徴として、藤井は、ヘイト・スピーチに対する反論が非常に困難であり、被害者は沈黙するしかないと見る。憲法学多数説は、「反論すればよい」「対抗言論だ」と唱える。しかし、被差別の現場では、ヘイト・スピーチに対する反論は無意味であり、被害が悪化しかねないことは常識である。ヘイト・スピーチは、相手を対等の損z内富雄馬頭、侮辱し、排除し、存在を否定する。対話の可能性がない。藤井はこのことを認識している。
第4に、ヘイト・スピーチ規制は国際常識であるとしている。国際自由権規約や人種差別撤廃条約を始め、国際人権法やEU法では規制が当然のこととされているからだ。
第5の特徴は、ヘイト・スピーチとジェノサイド等との連関を正面から見据えている。
第6に、もっとも重要な特徴は、藤井が「ヘイトスピーチには早急により強力な法的規制をおこなうべきであると考える」としていることである。
ヘイト・スピーチ規制積極説であっても、多くは「法的規制が可能な場合がある」とか、「特に重大な事案について、極めて限定的に規制を認めることができるのではないか」といった表現をするのが通例である。
「早急により強力な法的規制をおこなうべきである」と主張したのは、一部の弁護士や刑事法学者にとどまる。憲法学者で「規制をおこなうべきである」とするのは藤井だけではないだろうか。
藤井が、批判的人種理論を活用して、日本国憲法のもとで、ヘイト・スピーチ規制の理論的根拠をさらに発展させることを期待したい。