Wednesday, November 07, 2012

差別表現の自由はあるか(3)

差別表現の自由はあるか(三)

 

一 本稿の課題

 前々回は「差別表現」と「表現の自由」の関連を問うために、この問題が国際人権法においてどのように規定されているかを確認し、日本政府が国際人権法のフィールドでどのように主張し、国際人権機関からどのような勧告を受けたかを確認した。実は、ヘイト・クライム問題に関する限り、憲法学は日本政府とほぼ同じ歩調を取っている。

 そこで前回は、憲法学の動向をやや詳しく概観し、検討を始めた。代表的な憲法学教科書の記述を確認するにとどまったが、憲法学がヘイト・スピーチ処罰に否定的であること、その理由が表現の自由の保障にあること、しかし、十分な理由が示されていないことを見ることができた。憲法学教科書では、明白かつ現在の危険の原則やブランデンバーグ判決を引証するが、表現の自由の保障が優越的地位にあることと、ヘイト・スピーチ処罰ができないことの間の論理的説明はなされていない。

 人種差別撤廃委員会は従来から「表現の自由と人種差別表現の処罰は両立する」と繰り返していた。一般論ではなく、前々回紹介したように、日本政府報告書の審査において、具体的にその指摘がなされてきた。

 ところが、憲法学教科書は一切の説明抜きに、これを全否定する(ように見える)。「表現の自由」と一言唱えれば、それ以上の説明は必要ないと考えているのだろうかと不思議な印象を受ける。どの教科書を見ても、論理的説明が書かれていない。

 そこで、今回と次回は少し時期をさかのぼって、憲法学の理論状況が現在のようになる前の状況を見て行くことにする。前回も少しだけ言及した内野正幸『差別的表現』(明石書店、一九九〇年)から、市川正人『表現の自由の法理』(日本評論社、二〇〇三年)に至る経過を見て行くことである。内野の問題提起がどのような経過をたどったか、そして、内野がいかにして自説を撤回するに至ったかを見ることで、今日の状況が理解できると考えられる。当時の議論は憲法学の内部だけで行われたのではなく、かなり政府的議論がなされた。そのことの意味を考える必要がある。

 なお、以下では、ヘイト・クライム全体ではなく、「表現・言葉によるヘイト・クライム(ヘイト・スピーチ)」に限定する。特に人種差別撤廃条約第四条(a)が規定する「人種差別の煽動処罰」問題である。

 

二 八〇年代の議論

 内野正幸(当時・筑波大学助教授、現在・中央大学教授)が著書『差別的表現』において差別表現の刑事規制を提案し、「論争」が行われた。それは、憲法学では、市川正人『表現の自由の法理』によって決着を見ることになった。前回見た憲法学教科書は、その後に憲法学の世界で共通理解とされたことを前提として書かれている。さらに内野正幸『表現・教育・宗教と人権』(弘文堂、二〇一〇年)における改説によって最終決着したと言えよう。そこに収録された内野論文はそれ以前のものであるが、著者に収録して改めて発表したことで、現時点での内野の理解を再確認したと言える。

 もっとも、本稿では「撤回」「改説」という表現を用いているが、内野自身は「差別的表現」が「若いころからのテーマであり、それは出版当時に学界の内外で評価された。しかし、その後、憲法その他の分野で多数の文献が出され、私自身のフォローしきれないところとなった」という、あいまいな表現を用いている。

 ともあれ、内野説をめぐる応答が、憲法学においてヘイト・スピーチに関する議論の契機となったことは間違いないと思われる。そこで、内野説をめぐる応答の様子の一端を確認することが必要となる。

 ただし、以下で検討するのは、憲法学界における応答と言うよりも、学界の外での応答である。

 内野の問題提起がなされたのは一九九〇年のことである。当然のことながら、それ以前においても、差別表現と表現の自由をめぐる議論は続けられてきた。とりわけ七〇年代から八〇年代にかけて、部落差別とそれに対する批判としての解放運動の展開の中で、差別表現をめぐる問題も激しく争われてきた。

 部落差別研究所編『表現の自由と「差別用語」』(部落問題研究所出版部、一九八五年)は、当時の状況を知るには便利な一冊である。

 同書は、部落解放同盟の運動方針に対する痛烈な批判の書であり、その点を考慮して読む必要があるが、「第Ⅰ部 部落問題を主として見た表現の自由と『差別用語』問題」(成沢栄寿執筆)は一三〇頁に及ぶ力作であり、数々の差別用語問題・事件を取り上げて論評を加えている。

 成沢栄寿(さまざまな漢字表記を使い分けているようだが)は、歴史家(部落問題、歴史教育)であり、全国部落問題研究協議会代表幹事、部落問題研究所理事などを歴任し、長野県短期大学教授などもつとめた。著書に『日本の歴史と部落問題』『部落の歴史と解放運動近現代篇』『人権と歴史と教育と』などがある。さらに本書「第Ⅵ部 資料」には、運動団体等の見解、新聞・放送・雑誌・図書館の網領・指針、取り決め集、「差別用語」問題をめぐってなど多数の文書資料が収録されている。

 差別表現をめぐる当時の議論状況を知るためには格好の文献と言えよう。同書を丁寧に検証する余裕はないが、本稿の関心に照らして、その特徴を三点まとめておこう。

 第一の特徴は、同書の主たる問題関心が、部落解放同盟による糾弾闘争への批判であるため、「糾弾闘争による被害」が強調されていることである。

 逆に言えば、「差別表現による被害」には関心が向けられない。表現の自由と差別用語の問題が、「糾弾闘争から表現の自由を守る」という文脈だけで語られているため、「差別表現が具体的に被害を生じている」ことや、「差別表現の助長・容認が表現の自由を掘り崩す」側面にはほとんど考慮されていない印象が強い。結果として、表現の自由の主張が同時に差別表現の自由の主張となり、「差別に反対する表現に対する批判」となっている。この時期の日本における問題はこのような構図のもとで現象していたと理解するしかないのだろう。

 第二の特徴は、やはり同書の主題が部落解放同盟批判であることから、朝鮮人や中国人に対する差別や差別発言などの問題が取り上げられていないことである。主題の限定ゆえにやむを得ないとも言えるが、日本における差別と差別発言の問題を考える姿勢がない。

 同年代に出版された、在日朝鮮人の人権を守る会『在日朝鮮人の基本的人権』(二月社、一九七七年)、在日朝鮮人の人権を守る会『国際人権規約と在日朝鮮人の基本的人権』(守る会、一九七九年)などが参照されることがない。それは同書の限界であると言うだけではなく、当時の人権擁護運動における、横のつながりの弱さが反映しているのかもしれない。

 第三の特徴は、一九六五年の人種差別撤廃条約(日本政府の批准は一九九五年)、一九六六年の国際自由権規約(市民的政治的権利に関する国際規約、日本政府の批准は一九七九年)に言及がないことである。

 人種差別撤廃条約は、人種、民族、宗教だけでなく、世系(門地)に動機を有する差別を禁止し、人種差別禁止法の制定と、ヘイト・クライム(人種差別の煽動)の処罰を求めている。ところが、二〇年も後に出版された同書が、見事にこれらを無視している。

 以上、三点指摘したが、これは後知恵の批判でもないし、ないものねだりでもない。当時の議論の水準がいかなるものであったかを確認することができる。

 

三 旧内野説の登場

 このような時期に出版されたのが、内野正幸『差別的表現』である。

 内野は、人種差別撤廃条約や国際自由権規約を取り上げ、そして「自由主義諸国の苦悩」と題して各国の立法例を紹介している。

 アメリカの人種的集団ひぼうの禁止、イギリスのヘイトクライム法、フランスの人種差別禁止法の集団侮辱と憎悪・暴力煽動、カナダの憎悪煽動罪などを紹介・検討し、立法例について、①人種的集団に対する憎悪煽動、②差別煽動、③名誉毀損、④侮辱の四つに類型化している。さらに、法律による規制範囲について、人種差別撤廃条約四条(a)は禁止の対象にあまり限定をつけていないこと、立法例にも同様の例があること、ドイツやフランスの立法には「本来自由であるべきだと思われるような表現行為に対してまで、適用される傾向」があることを指摘している。

 内野は、「部落差別的表現の規制」について賛成論と反対論を検討し、具体的な提案として、部落差別解放同盟・差別規制法要網(案)、松本健男案、森井暲案、山下多美男案を紹介・検討した上で、自らの案を掲げている。内野正幸案は次のとおりである。

 「(第一項)日本国に在住している、身分的出身、人種または民族によって識別される少数者集団をことさらに侮辱する意図をもって、その集団を侮辱したものは、・・・・・・の刑に処す。(第二項)前項の少数者集団に属する個人を、その集団への帰属のゆえに公然と侮辱した者についても、同じとする。(第三項)前二項にいう侮辱とは、少数者集団もしくはそれに属する個人に対する殺傷、追放または排除の主張を通じて行う侮辱を含むものとする。(第四項)本条の罪は、少数者集団に属する個人またはそれによって構成される団体による告訴をまってこれを論ず。」

 内野の提案は憲法学に大きな波紋を呼んだだけではなく、当時の社会的論争の中に差し出された形なった。寄せられた反論に応答する中で、内野自身が自らの提案を撤回するに至る。そのことは後に見るとして、旧内野説の意義を、前節との関連で次の三点にまとめることができる。

 第一に、差別表現の問題を「表現の自由」だけの問題として位置付けるのではなく、まずは差別と差別表現がもたらす被害に視線を送り、そのことの憲法学上の位置づけを問い直していることである。闇雲に表現の自由を唱えてきた議論から、差別構造の中における差別表現の被害に着目している。

 第二に、「身分的出身、人種または民族によって識別される少数者集団」とあるように、部落差別問題だけでなく、日本における差別の全体を射程に入れた立論がなされている。

 第三に、人種差別撤廃条約、国際自由権規約及び諸外国の立法を紹介し、議論を国際人権法のレベルに引き上げている。

 内野提案の後、そして日本政府が人種差別撤廃条約を批准した後に、さまざまな立法提案がなされている。「外登法問題と取り組む全国キリスト教連絡協議会」の外国人住民基本法(案)、日弁連の多民族・多文化の共生する社会の構築と外国人・民族的少数者の人権基本法の制定を求める宣言、日弁連の外国人・民族的少数者の人権基本法要網試案、東京弁護士会外国人の権利に関する委員会差別禁止法制検討プロジェクトチームの人種差別撤廃例要網試案、自由人権協会の人種差別撤廃法要網、「移住労働者と連帯する全国ネットワーク」の「外国籍住民との共生に向けて」、「人権の法制度を提言する市民会議」の「日本における人権の法制度に関する提言」などの提案がなされている。

 これらについて、筆者はかつて次のように評した。

 「人種差別禁止法をつくる考えはNGOの間で共有されるようになってきたが、特定の人種差別行為について犯罪化するための立法提案に関しては、まだ十分な検討がなされていない。一般的な禁止規定にとどまっていたり、犯罪とされるべき実行行為の特定がなされていない。内野が紹介した諸案と最近の議論を比較しても、議論の水準があがったとはいえないのが実情である。」(前田朗「人種差別の刑事規制」『法と民主主義』四三五号、二〇〇九年)

 すなわち、内野提案の水準を超える刑事規制案はまだ見られないと言っても過言ではない。

 櫻庭総(現在・山口大学助教授)も、「以上の諸法案ないし諸提案についても、やはり『対象行為をいかに確定するか』(何が可罰的な差別表現か)という問題は依然として解決していない」と評しているが、具体的に引用に値すると認めたのは内野説だけである(櫻庭総『ドイツにおける民衆扇動罪と過去の克服』福村出版、二〇一二年、二五〜二七頁)。おそらく、右の筆者の評と同様の理解に立っていると言ってよいだろう。

 ところが、内野提案は後に内野自身の手で撤回されることになる。

 

四 旧内野説への批判

 内野の提案は憲法学に大きな波紋を呼んだ。内野自身も、先に引用したとおり「それは出版当時に学界の内外で評価された」という認識を示している。

 ここでその全体をフォローする余裕はない。本稿の関心からは、憲法学上のいかなる論点が、どのように論じられたかを知ることが必要であるが、ここでは「学界の内外」の「外」の部分の論議を確認する。それゆえ、右に紹介した部落問題研究所編『表現の自由と「差別用語」』の「姉妹編」とされる、成澤栄壽編『表現の自由と部落』(部落問題研究所、一九九三年)の反応を見ておくことにする。本書はこのテーマをめぐる当時の議論の水準を示す格好の素材と言えるからである。以下では、成澤栄壽、奥平康弘、川口是の論文を紹介する。

 第一に、成澤栄壽(長野県短期大学教授、部落問題研究所理事)「序説─言論・表現の自由と『部落解放同盟』」である。

 成澤論文は、本書の基調をなす巻頭論文であり、前書の巻頭論文と同様に力作である。論旨は一貫して部落解放同盟による「差別用語」に対する糾弾への批判である。それはここでの検討課題ではないが、成澤論文をここで取り上げるのは、前書では射程外であった人種差別撤廃条約や国際人権法に関連する記述が登場するからである。成澤は、部落解放同盟が反差別国際運動(IMADR)を国連NGOとして登録しようとしていることを批判する。部落問題研究所は当時、反差別国際運動の国連NGO「登録阻止の運動を展開した」という。「登録」が「理想化された国連の権威の悪用」になるという認識だからである。

 その具体的な証拠として成澤があげるのが、人種差別撤廃条約の「人種差別」に部落差別が含まれるか否かの問題である。部落差別解放同盟が「人種差別撤廃条約の人種差別には部落差別も含まれる」と主張したのに対して、成澤は次のように述べる。

 「たしかに国際的には、性や障害あるいは人種や民族に基づく差別を法規制する動きがある。これらは外見上わかるか、実際上判別が困難であっても、一般に外見上わかると見なされており、区別することによって尊重・配慮されるべき性質をもっている。『解同』(部落解放同盟のこと─引用者)は封建的身分に歴史的起因をもつ部落問題の属性(本質)を見誤り、疑似民族問題としてとらえている。だから右の国際的な差別法規制の動きを利用するのである。不当にも人種差別撤廃条約の『人種差別』に部落差別を該当させることになれば、『解同』とその追随・同調者たちにより、思想・信条の自由、言論・表現の自由、集会の自由などの侵害に悪用される可能性がある。」(四〇頁)

 第二に、奥平康弘(出版時・国際基督教大学教授、原稿執筆当時・東京大学教授、後に東京大学名誉教授)の論文「言論・表現の自由」である。奥平は憲法学者であり、『表現の自由Ⅲ』(東京大学出版会)、『なぜ「表現の自由」か』(東京大学出版会)、『「表現の自由」を求めて』(岩波書店)などを著した表現の自由研究の第一人者である。

 奥平は冒頭で、「差別表現」を表現の自由との関連で考えるために「原理論のレベルで接近しようと思う」「表現の自由の原理を究明する」とし、憲法学における表現の自由研究の第一人者として、憲法論を展開すると予告する。そして、奥平は「言論が言論であるかぎりは、他人に対してただちに現実に害悪を与えない」と断定する。論拠は一切示されていない。そしてただちに論点を、言論が他人に害悪を与える「おそれ」があるか否かに移動させる。次いで、言論抑圧が生ずるのは、抑圧する側が「自分の立場こそは絶対的に正しい」という「無謬性の原則」によるという。

 そして、「表現の自由」とは「メッセージの送り手と受け手のあいだに生ずる『コミュニケーション』『対話』を、どこまでも自由に開かれたものにすることだ」と言う。そして、言論の「受け手」は不特定多数であるから、「いろんな考えの人たちが『受け手』になる可能性がある」ので、ある者が不当な差別表現と受け取ったとしても、その者はすべての受け手の「代表者」ではないのだから、差別表現に関する「対話」を打ち切らせてしまう権利はないとし、部落解放同盟による糾弾権を全面的に否定する。さらに奥平は、表現が差別的であるかどうかをだれが判定するのかという問題を提示し、「差別する者」と「差別される者」という機械的な分け方は不適切であることも指摘する。

 奥平論文は、初出が『部落』五二一号(一九九〇年四月)であるため、内野説に対する直接の批判ではないと思われるし、内野説が引用されることもない。しかし、後述するように内野説を直接批判した川口是論文とともに本書に収録されることによって、内野説への全面批判として機能することは言うまでもない。

 第三に、川口是(元京都大学教授、執筆時・大阪経済法科大学客員教授)の論文「部落差別的表現の規制立法を批判する」である。

 川口は著書として『憲法と暮らし』(現代紫明社)、『表現の自由と「差別問題」』(兵庫部落問題研究所)、『戦後日本の政治過程と憲法』『憲法の考え方─長いものより一寸長く』(以上文理閣)がある。

 川口は冒頭で、内野『差別的表現』は「部落解放同盟あるいはその立場に同調する法律専門家の見解と同一ではないが、にもかかわらず大きな流れとしては、『本書』が部落差別的表現を規制する法律の─しかも罰則をともなったものとしての─成立にひとつの役割を果たすことは、客観的には否定できない」として、内野説への批判を始める。憲法学的批判であると同時に政治的批判でもあることを明確にしている。

 川口はまず、立法事実について論じる。法令の制定には、その法令を必要とする社会的事実が必要であるが、部落差別的表現の増加傾向について、立法事実があるかと問う川口はこれを否定する。内野が示した事例は、いずれも部落解放基本法制定要求国民運動中央実行委員会編『全国のあいつぐ差別事件』(解放出版社)からの引用にすぎず、そこに取り上げられた事件についても多様な解釈が成立するとして、内野説には「あまりにも事実関係の基礎づけが薄弱であるように思えてならない」という。

 次に川口は「立法化でなにがえられるのか」と題して、内野提案ができたとしても、犯罪の成立要件に絞りをかけているため、「処罰の対象となるものは、きわめて限られてくることになり、そのようなものを新たに犯罪として取り締まることにより、どのような効果が期待できるのだろうかという疑問がぬぐえない」という。

 続いて、犯罪化すれば警察による操作活動が行われることになり、「聞き込み、呼び出し(任意出頭)などが行われることになったらそこにかもし出されるであろう雰囲気に対して、私としては陰うつという言葉を思いうかべないにはいかない」と述べる。

 以上のように、川口は立法事実がないこと、立法してもさほど効果が期待できないこと、犯罪捜査が行われると雰囲気が陰うつになることをもって、内野説に対する批判としている。

 以上、成澤、奥平、川口の論文を簡潔に見た。『表現の自由と部落問題』には、他にも重要な論文があり、前書とは違って、部落差別だけではなく、天皇批判発言や黒人差別等にも言及している。当時の議論状況を知るには重要文献であるが、ここでは成澤、奥平、川口論文に言及するにとどめる。本稿の関心からは次の諸点を確認しておきたい。

 第一に、三論文とも共通であるが、「糾弾闘争による被害」のみが語られ、「差別表現による被害」には関心が示されない。本書の主たる関心が部落解放同盟による糾弾闘争への批判なので、主題が限定されているからである。それどころか、奥平は「言論が言論であるかぎりは、他人に対してただちに現実に害悪を与えない」と驚愕の断定をしている。表現の自由研究の第一人者によるこの断定の意味はあまりにも「重い」。

 奥平の立場からは、いかなる差別表現も「現実に害悪を与えない」のだから、文字通りあらゆる差別表現の自由が貫徹しなければならないことになる。この見解が正しいとすれば、現行刑法の名誉毀損罪、侮辱罪の規定も、場合によっては脅迫罪の規定も、憲法違反として廃止されなければならない。部落解放同盟を批判する政治目的に走るあまり、これほど非常識な見解が憲法の「原理論のレベル」と称して堂々と語られていたことに注意しておきたい。

 第二に、前書では朝鮮人や中国人に対する差別表現が取り上げられていないが、同書では、黒人差別等が取り上げられるとともに、民族問題にも言及がなされている。差別を解消し、平等を実現することは、もちろん本書の立場である。そのうえで、部落解放同盟の運動方針への批判をしているのである。そのことはよくわかる。ただ、同書の民族問題への言及は、民族差別と部落差別は本質的に異なるという主張としてしかなされていないことに特徴がある。民族差別と部落差別は歴史的社会的に異なるという当然のことを同書は述べている。ところが、そこからいきなり、成澤論文から先に引用したように、だから部落差別は人種差別撤廃条約にいう「人種差別」には当たらないという奇妙な結論が唱えられる。

 人種差別撤廃条約第一条は、人種差別を「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう」と定義する。ここでは、「人種」以外に、「世系」や「民族的出身」が列挙されている。

 部落差別が「民族的出身」による差別でないことは当たり前のことであって、部落解放同盟はそのような主張をしていない。部落差別は「世系」による差別だから「人種差別」に当たると解釈するのは当時としてもごく自然な解釈であった。「世系」(descent)はそれ以前の訳例では「門地」であった。日本政府は、部落差別は人種差別に当たらないという解釈を唱えるために、門地を避けて、世系という訳語を採用したと考えられる。しかし、人種差別撤廃条約という国際文書の解釈は訳語の変更という小細工で決まるわけではない。人種差別撤廃委員会は、世系の事例として、インドのカースト制、ダリット差別を取り上げてきた。このことからも部落差別が人種差別に当たると解釈するのはごく自然なことである。

 人種差別撤廃委員会は、二〇〇一年及び二〇一〇年の二度にわたって、日本政府報告書の審査に際して、部落差別が人種差別撤廃条約第一条の世系に含まれることを明言している。これが世界の常識であると言ってよい。

 それきもかかわらず、成沢論文では「国際社会に、合理的根拠を示さないまま部落問題を人種問題のなかに加えようとする傾向」という表現で、部落差別は人種差別に含まれないという特殊な自説を唱える。憲法学者の奥平と川口は、法律家としての見識を披露すべき時に、あえて沈黙することによって成澤論文を支えてしまう。成澤、奥平、川口は、現在も右のような主張を続けているのだろうか。

 また、同書は朝鮮人差別や中国人差別とそれに関連する差別表現は取り上げようとしない。当時、筆者は、床井茂編『いま在日朝鮮人の人権は』(日本評論社、一九九〇年)、在日朝鮮人・人権セミナー『在日朝鮮人と日本社会』(明石書店、一九九九年)などに関わっていたので、日本人側の諸団体にも朝鮮人差別に抗して取り組む運動団体がいくつもできて、横のつながり、ネットワークができてきたことを思い出すが、同書を見るとそういう状況とは無縁のようである。

 第三に、同書は人種差別撤廃条約にはかろうじて言及するが、国際自由権規約や諸外国の立法例には言及しない。国際自由権規約は一九六六年の条約であり、日本政府については一九七九年に発効した。国際自由権規約第二〇条第二項は「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する」と定めている。歴史家の成沢はともかくとして、法律家の奥平や河口がなすべきことは、国際自由権規約の国際的な解釈例を明らかにして、その意義を解明することであったはずだが、そうした作業はなされない。

 また、内野はアメリカ、イギリス、フランス、西ドイツ、カナダの立法例を紹介した上で、アメリカの裁判例と学説を詳細に紹介している。しかし、成澤、奥平、川口は、諸外国の立法、・判例・学説にはほとんど関心を示さない。自由で民主主義的な諸国において差別表現にどのような対処をしているのか、そこにどのような苦悩が刻まれているのかは全くどうでもよいことなのだろうか。言うまでもなく、奥平は表現の自由研究の第一人者であり、その著書においてはアメリカの立法・判例・学説を実に綿密に調査研究している。しかし、同書論文では「原理論のレベル」という言葉で記述の限定を施しているためか、諸外国の立法例には関心を示さない。国際人権法や諸外国の立法例とは別に、奥平の思考の中にだけ存在する「原理論のレベル」の記述がいかなる意味を有するのかは、よくわからない。

 川口論文に至っては、ヘイト・クライムを犯罪とし、警察が捜査を行うと雰囲気が陰うつになると決め付けている。それでは、ほとんどの北欧諸国や西欧諸国にヘイト・クライム規制法があり、現に適用されていることを川口はどう見るのだろうか。川口にとっては、北欧諸国や西欧諸国はそれほど陰うつなのだろうか。

 

五 おわりに

 以上、今回は旧内野説の登場と、それに対する批判を瞥見した。内野の『差別的表現』の出版は一九九〇年であり、わずか二二年前のことであるにもかかわらず、ヘイト・クライム法研究という観点から見ると隔世の感がある。

 右に示したように、日本における差別表現の自由を全体として射程に入れた研究は不十分であった。国際人権法や諸外国の例を参照する研究も不十分であった。内野の問題提起がすぐれていたのは、そうした状況を打開する理論と立法提案を大胆に提起し得たからである。

 それでは内野の問題提起はその後いかなる経路をたどるであろうか。次回のテーマとしたい。

 

*雑誌掲載後、データが紛失したため、復元したものである。校正が十分できていないため、雑誌掲載時と一部異なる可能性がある。

Tuesday, November 06, 2012

差別表現の自由はあるか(2)


 差別表現の自由はあるか(二)

 

『統一評論』561号(2012年7月)

 

 

一 本稿の課題

 

 前回は、「差別表現」と「表現の自由」の関連を問うために、まず、この問題が国際人権法においてどのように規定されているかを確認し、次に、日本政府が国際人権法のフィールドでどのように主張し、これに対して、国際人権機関からどのような勧告を受けてきたかを確認した。

 日本政府は、(一)日本には深刻な人種差別がないと主張して、人種差別禁止法の制定を拒否するとともに、(二)特にヘイト・クライム法については、憲法第二一条の表現の自由に抵触するのでヘイト・クライム法は制定できない、(三)憲法第三一条の要請である犯罪成立要件の明確性の原則にも違反するのでヘイト・クライム法は制定できない、と主張してきた。

 これに対して、人種差別撤廃NGOネットワークに結集した人権NGOやマイノリティ団体は、(一)日本には多くの人種差別があり、人種差別禁止法が必要である、(二)ヘイト・クライムは表現の自由には含まれず、人種差別撤廃条約第四条に従って法的対処が必要である、(三)明確性の原則に違反しない立法は可能である、と主張してきた。

 人種差別撤廃委員会は、二〇〇一年と二〇一〇年の日本政府報告書審査の結果として、日本政府に対して、(一)人種差別禁止法を制定すること、(二)人種差別撤廃条約第四条(a)(b)の留保を撤回し、ヘイト・クライムに法的対処を行うように勧告した。

 日本政府見解への批判はすでに数多く出されているが、実は、ヘイト・クライム問題に関する限り、憲法学をはじめとする法律学が、日本政府とほぼ同じ歩調を取っている。そこで今回は、憲法学の動向をやや詳しく概観し、検討を始めることにする。

暴力を伴ったヘイト・クライムは暴行罪、傷害罪、器物損壊罪などによる対処がなされているので、以下では「表現・言葉によるヘイト・クライム(ヘイト・スピーチなど)」に限定する。特に人種差別撤廃条約第四条(a)が規定する「人種差別の煽動処罰」問題である。

 

二 憲法学の現在

 

 現在の憲法学は、ほぼそろって人種差別の煽動処罰に否定的な姿勢を取っているといえよう。以下では、代表的な憲法学教科書をもとに、現状を概観する。

A 佐藤幸治

佐藤幸治(京都大学名誉教授)の『日本国憲法論』(成文堂、二〇一一年)は、表現の自由は、「①個人の人格の形成と展開(個人の自己実現)にとって、また、②立憲民主制の維持・運営(国民の自己統治)にとって、不可欠であって、この不可欠性の故に『表現の自由の優越的地位』が帰結する」と説明する(二四九頁)。この点は、アメリカ憲法学に倣った日本憲法学において今日ほぼ共通理解となっているといえよう。

佐藤は「表現の自由」に対する制約の合憲性判断基準について、表現の自由の優越的地位をもとに、「一般に通常の合憲性推定の原則が排除され、むしろ基本的に違憲性推定の原則が妥当すると解される。すなわち、表現行為を制約する法律を適用する側で、当該法律の合憲性について裁判所を説得するに足る議論を積極的に展開しなければならないということである」とする(二五四頁)。

 次に「漠然性故の無効の法理(明確性の法理)」として「人の行為を規制し処罰する法律が明確な法文構成をとるべきことは、およそ憲法一三条ないし三一条の要請するところと解されるが、『表現の自由』の『優越的地位』に照らし、表現行為に対する委縮効果を最小限にすべく、特に明確性が厳格に要求され、漠然不明確な表現規制立法は原則として文面上違憲無効とされなければならない」という(二五九頁)。また、「必要最小限の規制手段の選択に関する法理」として「より制限的でない他の選択しうる手段の法理(LRAの法理)」にも言及する。

 そのうえで、佐藤は「せん動」を取り上げ、次のように述べる。

「現行法制上、犯罪または禁止行為のせん動(あおり)を処罰対象とするものが少なくない。せん動罪は、被せん動行為の実行の危険性があるというだけで処罰対象とする、実行行為とは無関係の独立の犯罪であるから、『表現の自由』を侵害し、政治理論の表明や政府の政策批判までもが処罰されるという危険を孕む」とし、食糧緊急措置令や破壊活動防止法に関する最高裁判例を瞥見し、「具体的適用にあたっては『明白かつ現在の危険』の法理によるべきものと解される」とする(二六三頁)。

 さらに、佐藤は「差別的表現」を取り上げ、次のように述べる。

「人種や性あるいはマイノリティ集団などに対する憎悪や嫌悪などを表す表現行為も、難しい課題を提起する。表現の自由を最重視する国といえるアメリカ合衆国にあっても、差別的表現(ヘイト・スピーチ)を禁止すべきであるという主張が展開され、それをめぐって激しい応酬が繰り広げられてきた。わが国は平成七(一九九五)年に人種差別撤廃条約に加入したが、その四条(a)(b)には、①人種的優越・憎悪に基づく思想の流布、②人種差別のせん動、③人種等を異にする集団に対する暴力行為のせん動、④人種差別を助長・せん動する団体及び組織的宣伝活動その他すべての宣伝活動、⑤そのような団体・活動への参加、等々を法律で禁止・処罰することを求めている。加入に際して、わが国は、憲法の保障する権利と抵触しない限度で義務を履行するとの『留保』を付したことは前に触れたが、この条約も踏まえて平成一四年に国会に提出された人権擁護法案の内容などを読むと、表現の自由(および集会・結社の自由)との関係で看過しえない重大な問題が含まれていることが知られる(市川正人)」(二七〇頁)。

 なお、市川正人とあるのは、市川正人『表現の自由の法理』(日本評論社、二〇〇三年)のことを指す(本書については次回取り上げる予定である)。

B 辻村みよ子

 辻村みよ子(東北大学教授)の『憲法・第四版』(日本評論社、二〇一二年)は、表現の自由の規制に関する違憲審査基準について、事前抑制の禁止、明確性の原則、明白かつ現在の危険、より制限的でない他の選びうる手段の基準(LRA)を列挙し、解説する。辻村は明確性の原則について次のように述べる。

「精神的自由の規制立法の内容は漠然とした不明確なものであってはならないとする原則である。日本国憲法では三一条で保障されている罪刑法定主義もその一つであり、この原則のもとでは、刑罰法規は、行為の公平な処罰に必要な事前の『公正な告知』を与え行政の恣意的な裁量権を制限するものでなければならないため、内容が明確であることが求められる。さらに、表現の自由を制約する性質をもつ刑罰法規の場合には、本来合法的な表現行為をも差し控えさせてしまう『萎縮的効果』のおそれがある。そこで、合理的な限定解釈によっても法文の漠然不明確性が除去されないときは、当該法規の合憲的適用の範囲内であると思われる場合にも、原則として法規それ自体が、文面上無効となるとされる。これが一般にいう『漠然性のゆえに無効』の考え方である」(二一四頁)。

 また、辻村は、明白かつ現在の危険に関して解説する中で、次のように述べている。

「一九六九年のブランデンバーグ事件の判決で、暴力や違法行為の唱導について『その唱導が、差し迫った非合法な行為を煽動すること、もしくは生ぜしめることに向けられ、かつ、そのような行為を煽動し、もしくは生ぜしめる可能性のある場合を除き・・・憲法上禁止できない』という基準として再び確立された。これは厳格な審査基準であり、害悪の重大性と切迫性の存在や程度等の判断もむずかしいため、教唆や煽動など一定の表現内容を規制する立法について用いるのが妥当であると解される」(二一五~二一六頁)。

 さらに、辻村は「犯罪煽動表現」について、「犯罪の扇動にあたる表現についても、現行法上種々の制約が規定されてるため、表現の自由との関係が問題となる」として、刑法の内乱の扇動や、破壊活動防止法に言及し、食糧緊急措置令や破壊活動防止法に関する最高裁判例を紹介して、「このように、抽象的な危険を根拠に比較的安易に公共の福祉による表現の自由の制約を許容することに対しては、学説上批判が強い。そして、煽動罪の危険審査基準について、アメリカ合衆国の連邦憲法裁判例のなかで確立された『明白かつ現在の危険』の基準やブランデンバーグ・テストなどの厳格な審査基準を日本でも適用すべきであるという見解が提示されている」として、佐藤幸治説を引用する(二二六頁)。

C 初宿正典

 初宿正典(京都大学教授)の『憲法2基本権・第三版』(成文堂、二〇一〇年)は、表現の自由を自己実現と民主制の前提条件と確認し、表現の自由の概念とその方法について幅広い一般的説明を行い(つまり限定せず)、表現の自由の保障に言及し、その制限と合憲性判断基準を論じている。公共の福祉論、表現の自由の優越的地位と二重の基準論、事前抑制の原則的禁止を概説した上で、明確性について次のように述べている。

 「一般に、とくに人の行為を規制し、場合によっては処罰をもって制裁すべきことを定める刑事法令については、その法意が不明確であってはならないことは、憲法第三一条等の要請するところである。そしてこの明確性の要請は、表現の自由にかかわる刑罰法規についても妥当すると言える。すなわち、特定の類型の表現行為を法的に規制すること自体は必ずしも違憲と言えない場合でも、どのような行為が法によって禁止されているのかが曖昧・不明確であれば、国民が制裁を恐れてその表現行為を差し控える可能性(萎縮的効果)が生じる。表現の自由がもつ上記のような重要性にかんがみれば、こうしたことは許されてはならない。それゆえ、法令の文言が曖昧・不明確であれば、違憲の判断が下されるべきだということになる」(二七一~二七二頁)。

 初宿は、表現の内容に関する規制について、名誉侵害の表現行為、プライヴァシー侵害の表現行為、犯罪方法等の伝授と並べて、犯罪の煽動と差別的表現を取り上げて次のように述べる。

 「これらの場合には、上に列挙された刑法上の犯罪の実行行為そのものではなく、それを煽動する表現行為が規制されるのであり、しかも、その表現の内容は多分に政府の政策に対する批判という側面を有している。ことに破防法関連の事例では、特定の政治思想やイデオロギーに依拠した表現行為であることに鑑みれば、民主政の基礎をなす自由な政治的言論が封じられる危険を否定できない。たとえ同法自体は合憲であるとしても、その適用には慎重さが要請され、当該表現行為によって単に犯罪が実行される抽象的な危険があるというだけでなく、前述の『明白で差し迫った』具体的な危険が認定される場合に限定して適用すべきであろう」(二七七頁)。

 「差別的表現をどう規制すべきかは、平等原則との関連でも問題となることはもちろんであるが、表現の内容に着目して規制することになるため、何が差別的表現であるのか、そこで用いられた言葉、これが発せられた文脈、発言者の主観的意図など、種々の観点から、表現が必要以上に制約されないような慎重な検討が必要となる」(二八二頁)。

D 長谷部恭男

 長谷部恭男(東京大学教授)の『憲法・第五版』(新世社、二〇一一年)は、表現の自由の優越的地位の根拠として、民主的政治過程の維持と個人の自立を検討した上で、合憲性の判断基準として過度の広汎性の法理、漠然性のゆえに無効の法理に言及した後、内容に基づく規制と内容中立規制に関連して、せん動と差別的言論について検討している。

長谷部はせん動について次のように述べている。

「せん動が表現活動としての性質を持つことにかんがみると、『重大犯罪を引き起こす可能性のある』行為一般を広く処罰の対象とすることは、過度に広汎な規制となる疑いがある。・・・(中略)・・・ブランデンバーグ原則によれば、違法行為の唱導が処罰されうるのは、それがただちに違法行為を引き起こそうとするものであり、かつそのような結果が生ずる蓋然性がある場合に限られる。せん動が処罰の対象となるのは、犯罪行為を実行する決意を生ぜしめまたはその決意を助長させただけではなく、せん動が行われた具体的状況において、重大な危害が生ずる差し迫った危険が存在したことを政府が立証した場合に限られるべきであろう」(二〇一頁)。

次に差別的言論については次のように述べる。

「女性を従属する性として描き、その社会的役割を固定化し再生産する表現としてポルノグラフィーを位置づけ、従属的な女性を性的に魅力あるものとして描くことが、女性の自律的な生の追求を阻害するともに、平等であるべき表現の場を女性にとって不利に歪めた場とすることで、従属的地位を改善しようとする表現活動をも抑圧するため、ポルノグラフィーを表現の自由の保護範囲から除外すべきだとの主張がある。特定の民族や社会階層等についてその社会的従属性を固定化しようとする差別的言論一般についても同様の主張がなされることがある。しかし、内容に基づく表現規制であるにもかかわらず、その外延を規定することが困難であること、従属的地位にあるとされる人々の表現活動が直接に抑圧されるわけではないこと、従属性の固定化という観念が不明確であり、性差別の場合でいえば、少女向けの童話やポップ・ミュージックにまで差別的言論の範囲が拡大しかねないこと等から、なお一般的支持を得るにはいたっていない」(二〇五~二〇六頁)。

E 渋谷秀樹

 渋谷秀樹(立教大学教授)の『憲法』(有斐閣、二〇一〇年)は、差別的表現について、他の憲法教科書よりも立ち入った記述をしている。

 「差別的表現とは、少数者集団に対する侮辱、名誉毀損、憎悪、排斥、差別などを内容とする表現行為である。アメリカ合衆国ではこのような表現行為は、憎悪の言論と呼ばれてその合憲性が議論されているが、これには必ずしも少数者ではない特定の集団に対する直接的・間接的な、その存在意義を揶揄あるいは否定するような誹謗中傷的・皮肉的表現も含まれる。このような表現の対象者が特定されれば、侮辱罪、名誉毀損罪等で処罰可能であるが、対象者が特定されない集団の場合、既存の実定法秩序によっては対応できないので、新たな規制の是非が問題となる」(三四八頁)。

 「憎悪の言論と呼ばれてその合憲性が議論されている」とあるのは意味不明であるが、「憎悪の言論の刑事規制の合憲性が議論されている」という趣旨であろうか。

 渋谷は、続いて刑事規制に関する合憲説と違憲説を、内野正幸説(『差別的表現』明石書店、本連載次回で取り上げる)に従って説明した上で、次のように述べる。

 「政府の規制を肯定すると、差別的言論の認定権を政府にゆだねることとなり、その恣意的な適用が懸念される。また、特定人が対象ではないので、不利益は拡散される。ここでは表現の自由のもつ思想の市場機能を信頼して、差別的表現については、対抗表現によって対処すべきである」(三四八頁)。

 合憲説と違憲説の論拠を対比して説明している点や、「対抗表現」によるべきと明示している点で踏み込んだ記述と言えよう。

 さらに、渋谷は「犯罪の煽動」について、食糧緊急措置令違反事件最高裁判決及び渋谷暴動事件最高裁判例を紹介した上で、次のように述べる。

 「学説は、法令の合憲性の審査基準に、また具体的行為の可罰的違法性の判定に、より厳しい基準を適用すべきとする。例えば、明白かつ現在の危険の基準の修正版であるブランデンバーグの基準、すなわちそのような行為が、差し迫った非合法な行為を煽動し、または生ぜしめることに向けられており、かつそのような行為を煽動し、または生ぜしめる蓋然性のある場合を除き憲法はその処罰を禁止するとする基準を取り入れるべきであるとする」(三四九~三五〇頁)。

F 赤坂正浩

赤坂正浩(神戸大学教授)の『憲法講義(人権)』(信山社、二〇一一年)は、「煽動的表現の自由」と「差別的表現の自由」を明言する。

赤坂によると、「煽動的表現の自由とは、『犯罪や違法行為を煽動する表現を国家から妨害されない市民の権利』を意味する」(七一頁)という。その規制の合憲性審査については明白かつ現在の危険やブランデンバーグ原則を紹介しつつ、破壊活動防止法に関する最高裁判例を紹介している。 

続いて、赤坂は「差別的表現の自由」について「差別的表現の自由とは、『マイノリティに対する差別・排斥・憎悪・侮辱等を内容とする表現を国家から妨害されない市民の権利』ということになる」(七二頁)と定義する。

 そして、赤坂は、人種差別撤廃条約第四条(a)(b)の適用を日本政府が留保していることに触れた上で、学説について次のように述べる。

 「学説には、差別的表現を規制する法律の制定もまったく許されないわけではないが、その合憲性は『明確性の原則』と『ブランデンバーグの原則』によって厳格に審査されるべきだという見解もある。しかし、日本では、差別的表現に関するメディアの広汎な自主規制がすでにおこなわれており、過度の自主規制が表現の自由に対して萎縮効果を及ぼす面があることにも注意が必要だ」(七二頁)。

 「しかし」以下は文意を読み取りにくいが、「差別的表現を規制する法律の制定はまったく許されない」という趣旨であろうか。

 

三 憲法学の特徴

 

 以上、憲法学の代表的な教科書から、差別表現に関連する記述を紹介してきた。その検討は、次回、学説の変遷を再確認した上で、行うことにしたい。

 ここでは、憲法学教科書におけるこの問題の記述における特徴をいくつかまとめておくことにしたい。

 第一に、「表現」の理解であるが、憲法学は「表現」をあらゆる表現としている。言語表現に限らず、人間の意思表示に関連するあらゆる事柄が表現になりうるというのが一般的であるが、その具体的根拠はほとんど示されていない。「表現」とはそういうものだという説明が多い。「憲法第二一条で保障される表現の自由に関する表現の概念定義を行う」という問題意識が見られないのが特徴である。

  第二に、「表現の自由」の理解についても同じことが言える。あらゆる表現の自由の保障であり、表現内容に関する区別は認められないとされる。憲法第二一条に「一切の表現の自由」とあるため、「一切の」表現の自由の優越的地位を認めるとされる。絶対的保障ではないものの、憲法上の自由権の中で別格の保障を認めるという理解が一般的である。

  第三に、それゆえ「表現の自由」と「差別表現の自由の刑事規制」との関係について、あらゆる表現の自由を保障するのだから、差別表現の自由に対する刑事規制には慎重でなければならないとされる。明白かつ現在の危険の原則やブランデンバーグ原則が参照される。ここでは、突如として、日本国憲法には書いていないがアメリカ憲法判例だから当然そう認めるべきだという論調が一般的である。表現の自由と差別表現の自由の刑事規制とを絶対的に対立させる理由が示されることはない。教科書という性格のためなのか、日本の憲法学教科書は理由を示さずに結論を述べることが非常に多い。

  第四に、国際自由権規約第二〇条第二項に言及がない。前回紹介したように、国際自由権規約委員会は日本政府に刑事規制の勧告をしているが、憲法学はこれを無視する。無視する理由は明らかではない。

  第五に、人種差別撤廃条約第四条(a)(b)については、いくつかの教科書が、日本政府がこれを留保していることを肯定的に紹介している。人種差別撤廃委員会から留保の撤回や、ヘイト・クライム規制法を制定するよう勧告を受けていることはきちんと取り上げない。この点に言及することがないため、議論の余地もない。

第六に、差別表現問題と犯罪煽動問題を、まったく別問題として分離する傾向が一般的である。両者の関連や重なりには言及がない。人種差別撤廃条約第四条やヘイト・クライムの問題は「差別煽動」問題であるが、問題を切り離したまま論じている。

 第七に、渋谷秀樹は、差別的表現に「対抗表現」を対置すべきと明言している。他の論者はそのように明言していないが、おそらく同様の考えであろうと推測される。人種差別問題に取り組んできた人権NGOであれば、人種差別の煽動に対して対抗表現・対抗言論は意味をなさず、実践不可能であると考える者が多いと思われる。これに対して、憲法学者は、対抗表現によるべきだと述べる。しかし、具体的内容は示されない。

 以上、さしあたりの思いつきのレベルだが、憲法学教科書における差別表現に関する記述の特徴を列挙してみた。

 次回は、もう少し以前にさかのぼって、差別表現の自由をめぐる議論に視線を送り、どのような議論の経過を経て、右に見たような憲法学の現状に立ちいたったのかを検討した上で、さらに議論を深めて行きたい。

Monday, November 05, 2012

差別表現の自由はあるか(1)


 

差別表現の自由はあるか(一)

 

『統一評論』560号(2012年6月)

 

 

一 本稿の課題

 

 本連載でこれまで、人種差別表現とヘイト・クライム規制の必要性について繰り返し言及してきた。ヘイト・クライム法や人種差別禁止法の必要性など、さまざまな形で論じてきたが、差別表現の禁止の法理について正面からの検討をしてこなかった。今回から、日本における差別表現の禁止について本格的な検討を加えたい。

 ここでの最大の関心は「差別表現を刑罰法規でもって禁止することは許されないのか」である。というのも、日本政府は長年にわたって、人種差別表現を処罰することは憲法違反であり、そのような立法は不可能であると繰り返してきた。

 日本政府だけではなく、憲法学や刑法学においても同様の見解が唱えられてきた。それは「通説」と言ってもよいであろう。第一に、差別表現は憲法第二一条の「表現の自由」の保障の範囲内にあり、それゆえ差別表現が表現にとどまる限りは、刑罰法規をもって規制することは憲法第二一条に抵触する、とされてきた。第二に、差別表現を規制する刑罰法規は必然的に言論表現を委縮させ、どこまでが刑事規制の対象となるかを明確に規定することができず、刑事法原則の一つである明確性の原則に違反するから、憲法第三一条にも違反する、とされてきた。

 右の憲法・刑法学説は長年にわたって形成されてきた思考であり、「通説」と呼ぶべき程度に確立していると言える。その意味で、日本政府見解は、憲法学・刑法学に支えられた圧倒的に正当な見解であると理解されていると言ってよい。

 「差別表現は表現の自由であり、刑罰で禁止することはできない」というのは、日本では絶対命題のごとき地位を獲得した思考である。

 果たしてこのような思考には本当に正当性があるのだろうか、というのが筆者の疑問であり、本稿の主題である。

筆者はすでに「ヘイト・クライム法研究の展開――人種差別撤廃委員会第七四会期情報の紹介」(第二東京弁護士会『現代排外主義と人種差別規制立法』二〇一一年)において、この問題を簡潔に検討したことがある。そこでは、表現の自由を特に強調するアメリカ合州国においてさえヘイト・クライム法が制定され、適用されていることを指摘した上で、「もともと、表現の自由の根拠は、第一に個人の人格権、第二に民主主義に求められてきた。表現の自由を個人の人格権として構成するならば、他者の人格権に対する侵害がその内容に含まれないことは当然のことであって、ヘイト・クライム法を一般的に否定する論理はどこからも引き出しえない。表現の自由を民主主義に関わらせてその重要性を論じる場合も、民主主義が単にマジョリティの決断を意味するものではなく、少数意見の尊重を内に含むものであり、同時にマイノリティの保護も民主主義に内在するというのが現代的理解である。それゆえ、表現の自由そのものから言っても、ヘイト・クライム刑事規制がただちに表現の自由に違反するという結論が出されるわけではない。以上の点から、ヘイト・クライム法と表現の自由問題は『仮象問題』にすぎない疑いが強い」と述べた。

さらに、「これまで、なぜ『人種差別表現の刑事規制は表現の自由に抵触する』と即断してきたのだろうか。その一因は、人種差別表現による被害事実に目を閉ざしてきたことにあるのではないだろうか。被害に関する社会学的調査・研究が少ないため、とりわけ政府レベルの公的な調査が欠落しているため、人種差別被害と言っても、一般論でしか理解されず、議論の手がかりが不十分だったように思われる」と述べた。それゆえ、別途、ヘイト・クライムの被害論と保護法益論の必要性を指摘してきた(前田朗「ヘイト・クライムはなぜ悪質か(一)~(五)」『アジェンダ』三〇~三四号、二〇一〇~一一年)。

このような問題意識に立って研究を継続しているが、表現の自由をめぐる検討はまだまだ十分とはいえない。

そこで本稿では改めて「差別表現」と「表現の自由」の関連を俎上にのせて、本格的に検討を行いたい。以下では、まずこの問題が国際人権法においてどのように規定されているかを確認する。次に、日本政府が国際人権法のフィールドでどのように主張し、どのような勧告を受けてきたかを確認する(以上、本号)。その上で、憲法学や刑法学が差別表現と表現の自由についていかなる議論を行ってきたかを整理・検討する(以下、次号)。

なお、ヘイト・クライムには「言葉によるヘイト・クライム」のみではなく、「暴行・殺人等の暴力を伴うヘイト・クライム」があるが、本稿での検討対象は、主に前者の「言葉によるヘイト・クライム」である。

 

 

二 国際人権法の枠組み

 

日本社会においては、朝鮮人、中国人、その他の来日外国人に対する差別表現が横行している。女性差別や障がい者差別の表現もいまなお続いている。ゲイやレズビアンや性同一性障害などの性的マイノリティに対する差別も目立つ。部落差別も解消されていない。つまり、人種差別撤廃条約第一条が定義する「人種」概念に関連して多様な差別と差別表現が社会に蔓延している。差別表現が横行・蔓延しているだけではない。日本政府は差別表現の多くを放置してきた。その下で、日本社会は「差別表現の自由」を唱えてきた。

このように言うと、言い過ぎだとの批判も出てくるかもしれない。「差別表現は許されるか」と問われれば、多くの人々が「差別表現はよくない」と答える。差別表現が名誉毀損にあたる場合には、民法や刑法の名誉毀損で対処してきた。日本社会が差別表現を容認してきたわけではない、と。

なるほど、「差別表現は許されるか」と問いを発すれば、「差別表現は許されない」という答えが返って来るだろう。しかし、「差別表現を刑事規制するべきか」と問いを発すれば、日本政府も憲法学・刑法学も一般の市民も「表現を刑罰で規制するのは行き過ぎだ」と答えるのが現実である。それどころか、筆者が「差別表現を刑事規制する必要がある」と主張すると、「ファシストだ」と罵声を浴びせられたことさえある。果たしてこのような状況が健全と言えるだろうか。「差別表現は許されるか」と「差別表現を刑事規制するべきか」の間の齟齬を分析することが求められる。

 

1 差別の禁止

 

国際人権法における差別の禁止は、一九四八年の世界人権宣言第二条では次のように表現されている。「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる」。

この規定は、同第一条の「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」と、第六条の「すべて人は、いかなる場所においても、法の下において、人として認められる権利を有する」と併せて理解されるべきであろう(世界人権宣言については、前田朗「世界人権宣言を読む」本誌五二二・五二三号、二〇〇九年)。

一九六六年の国際自由権規約(市民的政治的権利に関する国際規約)第二〇条第二項は「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する」と定めている。同条第一項は戦争宣伝の禁止を定め、第二項が差別の扇動の禁止を定めているが、「法律で禁止する」とあるのみで、いかなる法律でなければならないかまでは明示されていない。

 なお、マイノリティ権利宣言第二条第一項は「民族的、種族的、宗教的及び言語的マイノリティに属する者(以下、マイノリティに属する者)は、公私において、自由かついかなる干渉差別もうけることなく、自己の文化を享受し、自己の宗教を信仰しかつ実践し、自己の言語を使用する権利を持つ」とする。第二項は「マイノリティに属する者は、文化的、宗教的、社会的、経済的及び公的生活に効果的に参加する権利を持つ」とする。第三項は「マイノリティに属する者は、自己の属するマイノリティに関して、又は、自己の居住する地域に関して、全国レベル及び適当な場合には地域レベルの決定に効果的に、国内法と矛盾しない方法で、参加する権利を持つ」。第四項は「マイノリティに属する者は、自分たちの結社を設立維持する権利を持つ」。第五項は「マイノリティに属する者は、いかなる差別も受けることなく、自己の集団の他の構成員、他のマイノリティに属する者との自由かつ平和な接触、ならびに民族的もしくは種族的、宗教的又は言語的靱帯によって結ばれた他国の市民との国境を越えた接触を築き維持する権利を持つ」とする(前田朗「マイノリティ権利宣言と日本」本誌五四四号、二〇一一年)。詳しくは、元百合子「マイノリティ権利宣言の意義に関する一考察」『国際人権』第一〇号(国際人権法学会、一九九九年)、同「マイノリティ権利宣言コメンタリー(逐条解説)について」『アジア太平洋研究センター年報二〇〇三――二〇〇四』所収など参照。

他方、一九六五年の人種差別撤廃条約第一条第一項は次のように述べている。「この条約において、『人種差別』とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう」。

 「人種差別」には、人種だけではなく、民族差別や世系差別も含まれる。なお、「世系」は、世界人権宣言第二条に「門地」とあるのと同じ語を、日本政府がこのように訳したものである。

 もっとも、条約第一条第二項は「この条約は、締約国が市民と市民でない者との間に設ける区別、排除、制限又は優先については、適用しない」としているので、「市民(日本国籍者)」と「市民でない者(外国人)」の間の異なる取り扱いのすべてが差別となるわけではない。

 また、条約第一条第三項は「この条約のいかなる規定も、国籍、市民権又は帰化に関する締約国の法規に何ら影響を及ぼすものと解してはならない。ただし、これらに関する法規は、いかなる特定の民族に対しても差別を設けていないことを条件とする」としているので、ただし書きにいう差別のない限り、国籍や帰化に関する政策は政府の権限内である。

 以上が差別の禁止に関連する国際人権法の枠組みをつくる文書である。

 

2 差別扇動の刑事規制

 

国際自由権規約第二〇条二項は差別扇動を「法律で禁止する」としているが、いかなる法律であるべきかを明示していない。

これに対して、人種差別撤廃条約第四条(a)(b)は、差別扇動を犯罪とすることを明示している。

「締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する。このため、締約国は、世界人権宣言に具現された原則及び次条に明示的に定める権利に十分な考慮を払って、特に次のことを行う。

(a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身を異にする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対する資金援助を含むいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること。

(b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。

(c)国又は地方の公の当局又は機関が人種差別を助長し又は扇動することを認めないこと。 」

このうち、第四条(a)(b)について、日本政府は適用を留保しているため、日本政府に直接適用されるのは、第四条本文と(c)である。

第四条(a)(b)を世界各国がどのように適用しているかについては、これまでに詳しく紹介してきたので、ここでは繰り返さない。前田朗「ヘイト・クライム法研究の課題」『法と民主主義』四四八・四四九号(二〇一〇年)、「ヘイト・クライム法研究の展開」『現代排外主義と差別的表現規制』(第二東京弁護士会人権擁護委員会、二〇一一年)、「ヘイト・クライム法研究の現在」村井敏邦先生古稀祝賀論文集『人権の刑事法学』(日本評論社、二〇一一年)、「差別禁止法をつくろう! 差別禁止法の世界的動向と日本」『解放新聞東京版』七七九・七八〇号(二〇一二年)、「人種差別撤廃委員会第八〇会期」本誌五五八・五五九号(二〇一二年)参照。

 

 

三 日本政府の見解

 

1 自由権規約日本報告書

 

 二〇〇八年一〇月、国際自由権規約に基づいて自由権規約委員会に提出された第五回日本政府報告書は、次のように述べている。

「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、それが、特定の個人や団体の名誉や信用を害する内容を有すれば、刑法の名誉毀損罪(第二三〇条)、

侮辱罪(第二三一条)又は信用毀損・業務妨害罪(第二三三条)で処罰されるほか、特定個人に対する脅迫的内容を有すれば、刑法の脅迫罪(第二二二条)、暴力行為等処罰に関する法律の集団的脅迫罪(第一条)、常習的脅迫罪(第一条の三)により処罰され、また、その教唆犯(刑法第六一条)又は幇助犯(同法第六二条)として処罰され得る」。

 「法務省の人権擁護機関は、これまでも、いわゆる差別落書きや差別投書といった差別表現の流布や個人又は団体を誹謗中傷し、そのプライバシーを侵害するような行為については、これを看過することのできない問題としてとらえ、様々な機会を通じて人権尊重思想の啓発に努めるなど、その解消のため積極的に取り組んできたところであり、そのような事案を認知した場合には、行為者の特定に努め、行為者が判明すれば、その者に対して指導・啓発するなどして、人権侵害による被害の救済及び予防を図っている」。

 「近年、インターネット上での差別表現の流布等が大きな問題となっているが、このことは、法務省の人権擁護機関としても、人権擁護上看過することのできない問題であると考えており、具体的な事案を認知した場合には、表現の自由等に十分配慮しつつ、掲示板の管理者等に対して削除依頼を行うほか、事案に応じて、上記記載の各種取組を行っているところである」。

自由権規約に基づく日本政府報告書審査については、前田朗「自由権規約委員会が日本政府に勧告」(本誌五一九号、二〇〇九年)。

 

 

2 人種差別撤廃条約日本報告書

 

 日本政府は、人種差別撤廃条約第四条(a)(b)の適用を留保している。

二〇〇一年三月八・九日、人種差別撤廃委員会で最初の日本政府報告書が審査を受けた。人種差別撤廃条約に基づく第一・二回日本政府報告書は、次のように述べる。長いが引用する。

 「我が国憲法は第二一条第一項において、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由を保障している。表現の自由は、個人の人格的尊厳そのものにかかわる人権であるとともに、国民の政治参加の不可欠の前提をなす権利であり、基本的人権の中でも重要な人権である。かかる表現の自由の重要性から、我が国憲法上、表現行為等の制約に当たっては過度に広範な制約は認められず、他人の基本的人権との相互調整を図る場合であっても、その制約の必要性、合理性が厳しく要求される。特に最も峻厳な制裁である罰則によって表現行為等を制約する場合には、この原則はより一層厳格に適用される。また、我が国憲法第三一条は、罪刑法定主義の一内容として、刑罰法規の規定は、処罰される行為及び刑罰について、できるだけ具体的であり、かつ、その意味するところが明瞭でなければならないことを要請している。
 本条約第四条(a)及び(b)は、人種的優越又は憎悪に基づく思想の流布や人種差別の扇動等を処罰することを締約国に求めているが、我が国では、これらのうち、憲法と両立する範囲において、一定の行為を処罰することが可能であり、その限度において、同条の求める義務を履行している。しかし、同条の定める概念は、様々な場面における様々な態様の行為を含む非常に広いものが含まれる可能性があり、それらすべてにつき現行法制を越える刑罰法規をもって規制することは、上記のとおり、表現の自由その他憲法の規定する保障と抵触するおそれがある。そこで、我が国としては、世界人権宣言等の認める権利に留意し、憲法の保障と抵触しない限度において、本条約第四条に規定する義務を履行することとしたものである」。

 「『人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布』に関して、我が国は、本条約を締結するに際し上述の留保を行っていることからも明らかなとおり、憲法で保障する基本的人権である集会、結社及び表現の自由等の重要性にかんがみ、人種的優越又は憎悪に基づく思想の流布にあたる人種差別的な表現類型を一般的に処罰の対象とはしていない。しかし、それが、特定の個人や団体の名誉や信用を害する内容を有すれば、刑法の名誉毀損罪(第二三〇条)、侮辱罪(第二三一条)又は信用毀損・業務妨害罪(第二三三条)で処罰されるほか、特定個人に対する脅迫的内容を有すれば、刑法の脅迫罪(第二二二条)、暴力行為等処罰に関する法律の集団的脅迫罪(第一条)、常習的脅迫罪(第一条の三)等により処罰される」。

 「本条項に関連して、一九九四年の春から夏にかけて、全国各地で、在日朝鮮人児童・生徒に対する嫌がらせや暴行等の事象が発生し、この中には、朝鮮学校に通う女子生徒らに対する、差別言辞・言動、駅構内トイレにおける差別落書、チマ・チョゴリ(朝鮮の民族衣装)を切るなどの暴行事件など人権擁護上、看過できないものも多く見受けられた。
 警察では、被害が予想される場所における警戒強化、登下校の時間帯における警戒強化、関係機関との連携及び学校側との協力などにより、この種の事案の未然防止及び早期検挙を図った」。

  二〇〇一年三月二〇日、人種差別撤廃委員会は日本政府に対して次のように勧告した。

「委員会は、本条約に関連する締約国の法律の規定が、憲法第一四条のみであることを懸念する。本条約が自動執行力を持っていないという事実を考慮すれば、委員会は、特に本条約第四条及び第五条に適合するような、人種差別を非合法化する特定の法律を制定することが必要であると信じる」。

「委員会は、本条約第四条(a)及び(b)に関し、『日本国憲法の下での集会、結社及び表現の自由その他の権利の保障と整合する範囲において日本はこれらの規定に基づく義務を履行する』旨述べて締約国が維持している留保に留意する。委員会は、かかる解釈が、本条約第四条に基づく締約国の義務と抵触することに懸念を表明する。委員会は、その一般的勧告七(第三二会期)及び一五(第四二会期)に締約国の注意を喚起する。同勧告によれば、本条約のすべての規定が自動執行力のある性格のものではないことにかんがみれば、第四条は義務的性格を有しており、また人種的優越や憎悪に基づくあらゆる思想の流布を禁止することは、意見や表現の自由の権利と整合するものである」。

「人種差別の禁止全般について、委員会は、人種差別それのみでは刑法上明示的かつ十分に処罰されないことを更に懸念する。委員会は、締約国に対し、人種差別の処罰化と、権限のある国の裁判所及び他の国家機関による、人種差別的行為からの効果的な保護と救済へのアクセスを確保すべく、本条約の規定を国内法秩序において完全に実施することを考慮するよう勧告する」。

 第一に、第四条(a)(b)の留保は条約の基本的趣旨を台無しにしてしまうことが指摘されている。

 第二に、日本政府は第四条(a)(b)の適用を留保しているが、第四条本文の適用を留保していない。にもかかわらず、第四条本文の適用も誠実に行っていない疑いがある。

 第三に、人種差別撤廃委員会では、表現の自由と人種差別扇動規制の両立が語られている。筆者も、人種差別撤廃委員会の審議において、委員による「人種差別扇動を処罰することこそが表現の自由の保障につながる」という趣旨の発言に目が覚める思いがした。この点は今後議論を深めるべき課題である。

 なお、この時の日本政府報告書審査については、前田朗「問われた日本の人種差別」『人権と生活』一二号(在日本朝鮮人人権協会、二〇〇一年)参照。

 二〇一〇年二月二四・二五日、同じく人種差別撤廃条約に基づく第三・四・五回日本政府報告書は、次のように述べている。

「第四条の定める概念は、様々な場面における様々な態様の行為を含む非常に広いものが含まれる可能性があり、それらのすべてにつき現行法制を越える刑罰法規をもって規制することは、その制約の必要性、合理性が厳しく要求される表現の自由や、処罰範囲の具体性、明確性が要請される罪刑法定主義といった憲法の規定する保障と抵触する恐れがあると考えたことから、我が国としては、第四条(a)及び(b)について留保を付することとしたものである。

また、右留保を撤回し、人種差別思想の流布等に対し、正当な言論までも不当に萎縮させる危険を冒してまで処罰立法措置をとることを検討しなければならないほど、現在の日本が人種差別思想の流布や人種差別の扇動が行われている状況にあるとは考えていない。

我が国は、人種差別撤廃委員会より、第一回・第二回政府報告を受けて出された最終見解で、第四条(a)及び(b)に付した留保を撤回する方向で見直すことを検討するよう奨励する旨の勧告を受けたが、以上の理由により撤回することは考えていない。」

二〇一〇年三月(公式には四月六日)、人種差別撤廃委員会は日本政府に対して次のように勧告した。

「締約国による説明に留意するとともに、委員会は、締約国の本条約第四条(a)及び(b)への留保について懸念する。また、在日韓国・朝鮮学校に通う生徒を含むグループに対する不適切で下品な言動、及び、インターネット上での、特に部落民に対して向けられた有害で人種主義的な表現や攻撃という事象が継続的に起きていることに懸念をもって留意する(第四条(a)及び(b))。

委員会は、人種的優越や嫌悪に基づく思想の流布を禁止することは、意見や表現の自由と整合するものであるという意見を再度表明し、この点において、本条約第四条(a)及び(b)への留保の維持の必要性を、留保の範囲の縮小及びできれば留保の撤回を視野に入れて、検証することを慫慂する。委員会は、表現の自由の権利を行使することは、特別な義務と責任、特に人種主義的思想を流布しない義務が伴うことを喚起し、本条約の規定が自動執行力のない性格のものであることに鑑みれば、第四条は義務的性質があるとする一般的勧告七(一九八五年)及び一般的勧告一五(一九九三年)を考慮することを改めて要請する。委員会は締約国に以下を勧告する。

(a)本条約第四条の差別を禁止する規定を完全に実施するための法律の欠如を是正すること。

(b) 憎悪的及び人種差別的表明に対処する追加的な措置、とりわけ、それらを捜査し関係者を処罰する取組を促進することを含めて、関連する憲法、民法、刑法の規定を効果的に実施することを確保すること。

(c) 人種主義的思想の流布に対する注意・啓発キャンペーンを更に行い、インターネット上の憎悪発言や人種差別的プロパガンダを含む人種差別を動機とする違反を防ぐこと。」

日本政府は、二〇〇一年の審査結果を受けて、若干の修正を行ったものの、基本姿勢に変化はない。

第一に、日本には深刻な人種差別はないと述べて、NGOが指摘してきた多数の人種差別事例をひとまとめに否定した。人種差別がないとすることにより、人種差別禁止法を必要とする立法事実を全面否定したのである。

第二に、そのうえで、もし立法が必要であるとしても、「言葉によるヘイト・クライムのような事案については、表現の自由との関連から刑事規制はできないとする。

第三に、言論行為を処罰する立法は、明確性の原則にも反する疑いがあり、刑事規制ができないと主張している。

この時の審査の様子については、前田朗「人種差別撤廃委員会と日本」本誌五三四・五三五号(二〇一〇年)。

 

3 若干の検討

 

二〇〇一年と二〇一〇年の二回にわたる人種差別撤廃委員会における審議の結果、日本政府の見解がひじょうに明確になり、人種差別撤廃委員会からの勧告も繰り返された。つまり、人種差別撤廃委員会と日本政府の見解の相違も浮き彫りになった。

 審議の詳細に立ち入る余裕はないが、以上における日本政府の見解の特徴をまとめておこう。

 第一に、日本に人種差別はないか。二〇〇一年の審査で日本政府は人種差別の存在を否定し、人種差別撤廃委員会の顰蹙を買った。そこで二〇一〇年には「人種差別禁止法を必要とするような深刻な人種差別はない」と発言した。しかし、NGOによる多数の報告書が具体的に明示しているように、日本には多数の人種差別があり、ヘイト・クライム事件が生じている。

 第二に、「人種差別表現の自由」を主張するのかである。日本政府は「人種差別表現を刑事規制することは憲法違反であり、不可能である」と何度も強調した。二〇〇一年にも二〇一〇年にも、人種差別撤廃委員会の審査で、委員から「日本政府は人種差別表現の自由を主張するのか」と質問が出た。さすがに、日本政府も「人種差別表現の自由を主張しているわけではない」と弁明しているが、実質的に「人種差別表現の自由」を唱えていることは明らかである。このことは日本憲法学・刑法学の問題性にもつながる。

 第三に、表現の自由と差別禁止の両立である。日本政府や憲法学は「表現の自由があるから差別表現を刑事規制できない」と主張する。人種差別撤廃委員会は「表現の自由と差別扇動処罰は整合する。両立する」と述べる。委員によっては、「表現の自由を守るためにこそ、差別扇動を処罰するべきではないか」と述べている。この思考のギャップは大きい。

 第四に、日本における表現の自由の実態を考慮すると、デモや集会の自由は極端に制約されている。戦争反対のビラ配りをして逮捕され有罪になる事例まである。教科書検定も歴史研究と歴史教育を歪めている。これほど表現の自由を制限してきた日本政府が、人種差別問題になると、とたんに「表現の自由」を強調する。

 憲法学・刑法学は、日本政府による表現の自由の解釈の限界を厳しく批判してきた。ところが、人種差別問題になると、とたんに日本政府と憲法学・刑法学はスクラムを組む。実に奇妙な統一戦線が形成される。不健全な結託である。

 第五に、日本における明確性の原則である。徳島公安条例事件最高裁判決が典型であるが、日本における明確性の原則はさほど精密に守られていない。ところが、ヘイト・クライムに話が及ぶや突如として明確性の原則の大合唱が生まれる。これも奇妙な結託である。

そもそも、日本刑法は、条文を一見すれば明らかなように明確性の原則と同じ地平にはない。殺人罪の規定を見れば、手段・方法の特定もなく、実にあっけらかんとした規定ぶりである。にもかかわらず、司法も憲法学・刑法学も明確性の原則を持ち出すことはない。侮辱罪規定が明確性の原則に違反することがないのであれば、ヘイト・クライム法の規定が明確性の原則に違反することもないだろう。

 以上のような疑問点をも含めて、次回は憲法学・刑法学の状況に目を移すことにしたい。

 

Sunday, November 04, 2012

橿原人権フェスティバル

11月4日、奈良県橿原市にお邪魔して、橿原人権フェスティバルでヘイト・クライムについて講演してきた。主催は橿原人権ネットワーク。

昨年、在特会副会長のKが、水平社博物館に対する差別街宣を行った。本年6月の奈良地裁判決は、Kの不法行為を認定し、損害賠償を命じた。判決は確定した。本年6月に伊勢志摩で開催された人権シンポにもお招きいただいて講演したが、今回は橿原市である。

人権フェスタで、地元の和太鼓「輝」の演奏もあった。




また、久米寺にも寄ってみた。

波除猫ブルース




Thursday, November 01, 2012

和田春樹『領土問題をどう解決するべきか』


和田春樹『領土問題をどう解決するべきか』(平凡社新書)

http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/browse.cgi?code=85_657

 

ロシア・ソ連史、現代朝鮮研究の碩学による領土問題の新書である。日本と周辺諸国の間の紛争解決、友好促進のための市民運動にも深くかかわり、つねに運動をリードしてきた著者は、問題に誠実に向き合い、さまざまな提言をしてきたことでも知られる。

 

本書も新書と言う小さな枠の中で、今日の領土問題の解決のために何を考えるべきか、何を成すべきかを論じている。

 

すでに『北方領土問題を考える』『開国――日露国境交渉』『北方領土問題』を送り出してきた著者だけあって、本書でも北方領土問題の記述が詳しい。領土問題の経過も簡潔に、しかし丁寧にたどられ、日本の戦後政治、戦後体制の見直しとつなげて議論を構築している。

 

著者は2島返還を基本に、さらに一歩を進める外交交渉を説いている。東郷和彦、佐藤優らによる交渉の線を基本的には支持している。岩下明裕の3島返還論にも言及している。

 

議論としては、日本政府の「固有の領土」論批判は的確であり、賛成。南千島の解釈を巡る外務省の「詭弁」批判もその通り。

 

日本政府は、どんな主張をするのであれ、現在の二枚舌外交をやめるべきだ。嘘吐き外交が露見しているのに、いまだに嘘を積み重ねている。最新の、前田朗「領土問題への最低限のスタンス」『月刊マスコミ市民』526号(2012年11月)にも書いた。

 

他方、竹島と尖閣諸島についての記述はとても少ない。特に尖閣諸島について、著者はあまり勉強してない。井上清を主要文献にしていて、浦野起央も、緑間栄も、尖閣諸島文献資料会も無視している。いくらなんでも、そりゃないだろう、というレベル。本人にとっても恥ずかしいことだし、出版社・編集者の能力が問われる話だ。失格。