Sunday, November 11, 2012

琉球独立論の新たな地平


松島泰勝『琉球独立への道――植民地主義に抗う琉球ナショナリズム』(法律文化社)


 

琉球/沖縄に関心のあるすべての人に薦めたい。

 

沖縄独立論には長い歴史がある。本書は、それらにも学びつつ、新しい議論を展開する。議論の立て方は目次を一瞥すればすぐにわかる。

 

 はじめに

第1章 琉球コロニアリズムの歴史
 植民地としての琉球/琉球におけるコロニアリ
 ズムの歴史/琉球の開発とコロニアリズム/軍
 事植民地としての琉球

第2章 太平洋島嶼国・地域の脱植民地化と琉球
 琉球と太平洋諸島との関係/太平洋諸島の独立
 /ハワイの脱植民地化運動/ニューカレドニア
 と仏領ポリネシアの独立運動/グァムの脱植民
 地化運動

第3章 南アジア地域とスコットランドの独立と
    琉球
 南アジア地域の独立/南アジア地域と太平洋諸
 島の独立過程の比較/イギリスからの独立を目
 指すスコットランド

第4章 国連と琉球
 人民の自己決定権行使による琉球の脱植民地化
 /琉球人の自己決定権と国際法

第5章 琉球ナショナリズムの形成
 琉球とエスニック共同体、ネイション、ナショ
 ナリズム/琉球ナショナリズムの形成―琉球独
 立運動の課題と可能性/「2・1決議」の意味
 ―国際法と琉球ナショナリズム

第6章 「琉球自治論」の批判的検討
 日本国頼みの自治論の何が問題か/「本土並み
 自治論」からの脱却

第7章 琉球自治共和国連邦の将来像
 なぜ琉球は独立を求めるのか/琉球独立のため
 の前提条件/琉球自治共和国連邦の将来像

 
 

著者:「1963年琉球・石垣島生まれ。石垣島、南大東島、与那国島、沖縄島にて育つ。那覇高校、早稲田大学政治経済学部卒業後、早稲田大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。博士(経済学)。在ハガッニャ(グァム)日本国総領事館、在パラオ日本国大使館において専門調査員として勤務。東海大学海洋学部准教授を経て、現在、龍谷大学経済学部教授、NPO法人ゆいまーる琉球の自治代表。単著として、『沖縄島嶼経済史―12世紀から現在まで』藤原書店、2002年、『琉球の「自治」』藤原書店、2006年、『ミクロネシア―小さな島々の自立への挑戦』早稲田大学出版部、2007年がある。編著として西川潤・松島泰勝・本浜秀彦編『島嶼沖縄の内発的発展―経済・社会・文化』藤原書店、2010年がある。」


第1に、重要なのは、日本とアメリカとの関係の下での琉球の歴史と現在を踏まえつつ、同時に広い世界史的視野で琉球独立論を展開していることである。まず、植民地独立付与宣言や先住民族権利宣言の法理論を採用している。さらに、太平洋諸国や、南アジアと欧州における小国の独立に関する研究が背景となっている。
 

第2に、小国は経済的にやっていけるのか、自立できるのかというよくある問いに対する応答の仕方が重要である。小国独立不安論は、実は「大国からの経済援助論」とセットになっている。しかし、実態を見れば、大国からの経済援助は大国の資本のためになされるのであって、投下資本は大国に還流し、小国の自立を一層破壊する。小国の独立はその地域の内発的発展として構想される必要がある。日本のニセ援助に頼る思考では、独立以前に、そもそも沖縄の発展と市民生活が阻害される。この点は非常に重要である。
 

第3に、先住民族の連帯と協働が組み込まれている。米軍基地のない沖縄を目指す平和と自律の思想は、グアムの米軍基地にも反対し、琉球民族とチャモロ族の連帯を必要とする。あるいは、海に沈む島ツバルについて、ツバル国民1万人に琉球移住の可能性を提供して、共に生きる太平洋の先住民族の連帯をめざす。
 

太平洋には軍隊のない国家が11カ国ある。『軍隊のない国家』執筆のために11カ国に訪問した。本書の筆者は、グアムとパラオに住んだ経験があるという。現地滞在で得た知識と知恵が本書に活かされている。何しろ『ミクロネシア』の著者だ。
 

琉球独立のために、国際的に何をするべきか(国連先住民族作業部会、脱植民地化特別委員会、太平洋諸島フォーラム、非同盟諸国会議党)。国内で何をするべきか(琉球自治共和国連邦の具体像)が明確に論じられている。
 

琉球独立論に新たな地平を切り開いた本書をもとに、徹底討論が行われるべきである。
 

琉球人民の自己決定権を中核に。

リヒテンシュタインの非武装憲法(2)

旅する平和学(23)

リヒテンシュタインの非武装憲法(二)

 

『月刊社会民主』2009年10月号

 

 リヒテンシュタインの首都ファドゥーツの中心には美術館が位置する。リヒテンシュタイン家が数百年かけて収集した世界有数の美術品が順次公開されている。美術館周辺の遊歩道にはいくつもの彫刻が並んでいる。

 

憲法の歴史

 

 リヒテンシュタイン憲法史は六段階にまとめることができる。

第一に、一八一八年憲法である。一八一五年、ナポレオン軍の支配から独立を回復して、ドイツ連盟に加盟した。ドイツ連盟条約は各国に憲法制定を義務づけていたので、一八一八年憲法を制定した。この憲法には基本的人権の規定がなかった。

続いて、一八四八年革命の嵐がファドゥーツに押し寄せた。侯爵の地位が脅かされる心配が取りざたされたが、人民の要求を討議するために設置された議会は侯爵個人に対する敵意は持たなかった。侯爵、政府と人民の協力体制で憲法が作成され、「国家の権威は侯爵と人民に共同帰属する」という、当時は珍しい考えが導入された。

第三に、一八六二年憲法である。一八五八年に侯爵についたヨハン二世は、啓蒙絶対君主的な傾向を持っていた。一方で神権の絶対性を奉じ、他方でカトリック信者として社会改革をめざし、一八六二年憲法を制定した。リベラルな性質を持ち、主権は侯爵に帰属するとしながら、侯爵の権限は議会の召集・解散、公務員の任命・解雇、国際関係における国家代表などに限定された。他方、議会は完全な立法権を獲得した。個人の信仰の自由、人身保護令状、請願権、集会の自由、恣意的捜索からの自由などが盛り込まれた。司法制度も整備された。

第四に、前回紹介したように、ヨハン二世は、一八六八年に軍隊を廃止した。

 第五に、一九二一年憲法である。第一次大戦期、リヒテンシュタインは中立を選択した。実際にはオーストリアの影響下にあったので、中立は見かけだけとも言われる。経済は崩壊し、クーデタ策動も発生したが、一九一八年からスイスとの良好な関係を取り結ぶとともに政治経済改革を推進した。土地改革を断行し、国際連盟に加盟するなど新しい国家づくりが急速に進められ、一九二一年憲法が制定された。

第六に、現在の二〇〇三年憲法である。ハンス・アダム二世が、一九九三年議会で憲法改正の方針を示した。議会は憲法改正委員会を設置し、改正作業に着手した。侯爵の権限をめぐって侯爵と議会の間に対立が生じたが、長期にわたる憲法論争を経て、侯爵家と政府の承認を得た上で、国民投票が行われ、二〇〇三年憲法が制定された。

 

非武装憲法の意義

 

 軍隊廃止を明記したのは一九二一年憲法である。

 ルペルト・クヴァデラーによると、一九二一年憲法への道は、一九一四年、進歩的市民党やキリスト教社会人民党など政党の結成と民主化運動に始まった。一九一八年の一一月危機を受けた同年一二月の「九項目綱領」が大きな一歩であった。一九二〇年には憲法委員会で審議が行われ、一九二一年に憲法が採択された。

 ヘルベルト・ヴィレによると、最大の争点は君主制と民主制の調和をどこに求めるかであった。民主化運動も侯爵家打倒や排除を求めたわけではなく、侯国であることを前提としつつ、侯爵の権限と人民の権限をいかに配分するかが議論された。

軍隊を廃止した憲法第四四条(条文は前号参照)は、第一項で人民の防衛奉仕責務を述べ、第二項で、この緊急事態以外の軍隊の廃止を定めた。常備軍の廃止である。この条文が国家機構の章ではなく、市民の権利義務の章に置かれていることに注目する必要がある。第一項は、市民の防衛に関する義務規定であるが、むしろ人民の自決権の文脈で解釈するべきではないか。

 現在、世界には五つの非武装憲法がある。一九二一年リヒテンシュタイン侯国憲法第四四条(二〇〇三年憲法も同じ)、一九四六年日本国憲法第九条、一九四九年コスタリカ共和国憲法第一二条、一九七九年キリバス共和国憲法第一一二条、一九九四年パナマ共和国憲法第三〇五条(現行第三一〇条も同じ)である。

 リヒテンシュタイン憲法の世界史的意義について、確認しておこう。

 第一に、リヒテンシュタイン憲法は平時の非武装(常備軍不保持)を定めた、もっとも古い非武装憲法である。日本国憲法第九条より二五年前である。

 第二に、憲法第九条は、有事平時を問わず、いかなる軍隊も保持しないとしている。本来は完全非武装憲法である。この点で憲法第九条のほうが徹底している。憲法の条文に記されている言葉が重要だという形式主義的理解に立てば、憲法第九条がもっとも重要である。

 第三に、憲法典の言葉だけではなく、運用実態を見るとどうか。憲法第九条の日本政府による公式解釈によると、自衛のために必要最小限の実力を保持することができ、現に自衛隊を保有し、予算は世界第五位争いを演じ、イージス艦など最新鋭装備を備え、遥か遠くインド洋やイラクで戦争協力を行っても合憲とされている。つまり、憲法第九条は世界有数の「重武装憲法」であり「侵略憲法」である。

一方、リヒテンシュタインは一八六八年に廃止して以来一四〇年間、軍隊を保有したことがない。緊急事態には軍隊を保有することができるが、ナチス・ドイツが隣国オーストリアを併合してもリヒテンシュタインは武装しなかった。第二次大戦が勃発して欧州全域が戦争に突入しても軍隊を編成しなかった。

第四に、それではナチス・ドイツの台頭や第二次大戦に際してリヒテンシュタインは何をしたか。侯爵の権威と判断によってナチス勢力の台頭を抑止した。侯爵はナチス・ドイツと直接交渉して、自国の安全を維持した。そして、マウトハウゼン強制収容所が設置されたオーストリアから逃げてきたユダヤ人を救済した。ナチス政権一二年間に約四〇〇人のユダヤ人がリヒテンシュタインに逃げ、その内二五〇人は定住し、一五〇人はスイスに出国した。一九四五年四~五月、戦争末期の混乱時に八〇〇〇人の難民がリヒテンシュタインを経てスイスに逃れた。このことが、その後のリヒテンシュタインの「国際社会における名誉ある地位」を保障し、軍隊を不要とした。

 リヒテンシュタイン憲法は、形式的にも実質的にも、世界最初の非武装憲法である。完全非武装ではないが、限りなく完全非武装に近い。条文それ自体ではなく、実践が重要である。

「憲法第九条の重武装憲法化」を阻止し得なかった私たち日本の平和運動が考え、学ぶべきことは多い。

リヒテンシュタインの非武装憲法(1)

旅する平和学(22)

リヒテンシュタインの非武装憲法(一)

 

『月刊社会民主』2009年9月号

 

 リヒテンシュタイン侯国は最初に非武装憲法をつくった国だが、日本の憲法学の著作では完全に黙殺されてきた。憲法第九条よりも前に非武装憲法があっては困るからだろうか。

 一九二一年リヒテンシュタイン憲法第四四条は次のように規定する。

「第一項 武器を保有するすべての者は、六〇歳に達するまでは、緊急事態における自国の防衛に奉仕する責任がある。第二項 この緊急事態以外に、警察部隊および国内秩序の保全の条項に必要な限りを除いては、軍隊を編成または保持しない。本件に関する詳細な規制は法律をもって決定される」。

第二項は常備軍の廃止を定めたもので、一九四九年コスタリカ憲法よりも二八年も古い。自衛隊と在日米軍を容認していると解釈されている憲法第九条は実態として「世界有数の重武装憲法」と化しているが、リヒテンシュタインは憲法を守って軍隊を保持していない。

 

ラインのおもちゃ箱

 

スイス東部の田舎町ザルガンスの駅前から郵便バスに乗る。あっという間にライン川を渡ってリヒテンシュタインに入る。一九九六年と二〇〇五年にリヒテンシュタインを訪れたが、非武装憲法第四四条に気づいたので、二〇〇八年八月に三度リヒテンシュタインを訪れた。

リヒテンシュタインは、スイスとオーストリアの間、アルプスとライン川の間にある。面積は一六〇平方キロで、小豆島とほぼ同じ。人口は約三万二千人だが、三分の一は外国人だ。人種はゲルマン人で、ドイツ語を話す。宗教はカトリックが八〇%、プロテスタントが七%である。

 リヒテンシュタイン家はもともとオーストリアのウィーン在住の一族で、ウィーンとチェコのモラビアに領地を保有していたが、一六九九年にヨハン・アダム・アンドレアス侯が現在のリヒテンシュタイン北部低地部にあたるシェレンベルク男爵領を購入し、一七一二年に南部高地部のファドゥーツ伯爵領を購入した。一七一九年、神聖ローマ帝国がアントン・フローリアン侯に両領の自治権を認めたので、リヒテンシュタイン侯国となった。数多くの領邦国家とともに神聖ローマ帝国の一員であった。

フランス革命後、ナポレオン軍が一時期支配したが、一八一五年に独立を回復して、ドイツ連盟に加盟した。しかし、一八六八年にドイツ連盟が解体したので、単独の主権国家の道を歩むとともに、軍隊を廃止して永世中立を宣言した。

 歴代侯爵は長年ウィーンに在住していた。リヒテンシュタインはオーストリアと関税協定を結び、オーストリア貨幣を使用していた。しかし、第一次大戦の結果、オーストリアが弱体化したため、民衆がスイス・フランを使用するようになり、さらに一九二三年にはスイスと関税協定を結んだ。

第二次大戦中は、政治にナチスの影響が及んできた。次の選挙ではナチス勢力の議会進出が予想されたが、侯爵は選挙を延期することによってナチス勢力の議会進出を阻み、リヒテンシュタインは中立を守った。侯爵はヒトラーと直接交渉して中立を守ったといわれる。一九三八年、フランツ・ヨーゼフ二世がウィーンから首都ファドゥーツに移転して名実ともにリヒテンシュタイン侯国となった。オーストリアがドイツに併合されていたからである。

侯爵家の城からライン川の手前に広がるファドゥーツの町を見下ろすと、小さなおもちゃ箱のように見える。小さいが豊かな美食の国であり、切手でもよく知られる。

 

軍隊の廃止

 

 一八六八年、明治維新の年にリヒテンシュタイン軍隊を廃止したのは、ヨハン二世である。

 ビスマルクのプロイセンはドイツ統一をめざして、ハプスブルク・オーストリアと主導権争いを演じた。プロイセン・オーストリア戦争の結果、オーストリアを排除してドイツ帝国が成立した。この時、リヒテンシュタインは中立を守った。ドイツ連盟解体後、ビスマルクは統一ドイツを確立したが、リヒテンシュタインはドイツと国境を接していないため編入されることもなく、単独の独立国家となった。

 歴史家ピエール・ラトンによると、ヨハン二世はこの機会に軍隊を解散しようと考えたという。軍役は一八六八年に廃止され、その後、再導入されていない。

 他方、イギリスの元リヒテンシュタイン大使だったデイヴィッド・ビーティの『リヒテンシュタイン現代史』によると、一八六六年七月二日、法王一六世がドイツ連盟総会を告知したので、ヨハン二世は、ティロルを守るために軍隊を派遣した。部隊は、オーストリアと戦争していたイタリアによる攻撃から守るためにステルヴィオ峠に駐留した。侯爵は国庫を節約するために、個人的にその費用を払った。幸い敵が来なかったので、部隊は戦闘することなく帰国した。ところが、ドイツ連盟の解体により、もはや軍隊を保有する国際的義務がなくなった。議会は、軍事予算を拒否する機会と見て取った。しかし、侯爵はこれには反対した。というのも、軍隊の保持は侯爵の憲法上の特権にかかわるからである。だが、侯爵は譲歩して、一八六八年二月一日、軍隊を解散した。

 廃止の理由は、ドイツ連盟が解体したので軍隊を保有する国際的義務がなくなったことと、軍事予算が負担となったことによる。

 この点では、ラトンが紹介している、ナポレオン軍からの再独立時のエピソードも参考になる。一八一五年の人口は約六千人にすぎなかった。主要産業は農業なのに、大半が山岳地帯のため生産量は乏しい。戦争のため収穫がなくなった。一八一七年には深刻な飢饉に見舞われた。神聖ローマ帝国の一員として軍隊保有の義務があったが、人民が軍隊税の廃止を要求した。そこで侯爵が支出を引き受けることになった。これによって人民を納得させつつ、国際的義務を果たすことができた。

 小国ゆえに軍隊保有が負担となり、人民が軍隊廃止を要求したのである。振り返ってみれば、明治維新期の日本においても、徴兵制に対して人民が反対した歴史がある。軍隊は人民の生活にとって何の役にも立たない。税負担が増えるだけである。徴兵制によって家族を軍隊にとられる。人民が軍隊廃止を要求するのはむしろ当然のことである。

いったん軍隊が設立され、軍国主義イデオロギーが浸透すると、軍隊が人民のためにあるかのような倒錯した意識がつくられる。軍隊があるのが当たり前と言う錯視が浸透する。そうなると軍隊廃止という要求が登場しにくくなる。しかし、もともと人民にとって軍隊とは何であるのかに気づけば、社会意識は変容する可能性がある。

 一八六八年に解雇された兵士のうち最も長生きした兵士の晩年の写真が「リヒテンシュタイン最後の兵士」として絵葉書になっている。一九三九年に九五歳で亡くなったという。

いちいちいちいち文化の日


今朝は国立新美術館でリヒテンシュタイン展だった。


 

リヒテンシュタイン家が収集した、「個人」としては世界指折りの美術品の数々。ナポレオン戦争から逃れ、ヒトラーの魔手からも逃れて、守り抜いた話は有名。長い間秘蔵されていた作品群が公開され、ついには来日。ルネサンス、バロック、フランドル、新古典主義の名画。ルーベンスはとびっきり。

 

リヒテンシュタインの首都ファドーツのリヒテンシュタイン国立美術館には2度行って企画展をみたが、今回来日したのはウィーンのリヒテンシュタイン美術館と夏の離宮の所蔵。圧倒される。

 

リヒテンシュタインは軍隊のない国家で、調査のために2度行った。それ以前にも2度行ったので合計4回。1回目の調査内容は『軍隊のない国家』(日本評論社、2008年)に書いた。調査不足だったので、その後再訪して追加調査した。

 

国立新美術館で販売していたカタログにも、1868年軍隊廃止と、書いてある。しかし、1921年の非武装憲法には言及していない。日本の憲法学者もリヒテンシュタイン憲法には言及したがらない。憲法教科書を20冊は見たが、1冊も言及していない。1946年の日本国憲法が世界最初の非武装憲法でないと困るからだろう。

 

午後は渋谷のシアターコクーンで、こまつ座&ホリプロ公演、井上ひさし・作、蜷川幸雄・演出『日の浦姫物語』。


 

大竹しのぶと藤原竜也の熱演も素晴らしかったが、何と言っても、木場勝己だ。凄い役者だ。感銘。

 

井上ひさしの中期作品という書き方がされていたが、初期から中期といったところか。近親姦をテーマとした、重く、シリアスな作品だが、もちろん随所にお笑いが入る。とはいえ、爆笑に次ぐ爆笑、微笑、苦笑、そして爆笑という井上ひさしの世界とはやや異なる。

 

今日は11.11で、脱原発のため、みんな頑張っているが、一休みさせてもらった。

Friday, November 09, 2012

レイシズム研究に学ぶ(5)


鵜飼哲・酒井直樹・テッサ・モーリス=スズキ・李孝徳『レイシズム・スタディーズ序説』(以文社、2012年)

 

今日のBGMは、知花竜海Duty Free Shopp.とカクマクシャカの「音アシャギ」。2006年に出た傑作アルバム。特に沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事件を歌ったラップ「民のドミノ」が凄い。

 

さて、今回は、鵜飼哲、酒井直樹、テッサ・モーリス=スズキ、李孝徳による座談会「新しいレイシズムと日本」だ。これで本書のすべて。ただし、巻末にエティエンヌ・バリバール論文「レイシズムの構築」が収録されているが。

 

座談会は、レイシズム分析の射程、日本のポストコロニアル、血統主義と生地主義、生物学的レイシズムなどをめぐって進行する。日本の国籍法や、移民政策も問い直される。イギリスと日本という帝国の退却戦の差異も登記される。多文化主義の難しさも。それとの関連で在特会という病理現象も分析されるが、被害者意識に着目している。加害者が被害者意識に突き動かされて、さらに加害に走る。ヘイト・クライムでは「防衛的ヘイト・クライム」と呼ばれる。よそ者が我が町にやってきた、という意識が、次には我が町が汚染される、取られる、文化が変わるなどの恐怖になり、犯行に走る。

 

日本には差別撤廃法がないこと、人種差別撤廃条約を批准しながら怠慢であることも指摘される。その通りである。さまざまな話題が取り上げられ、読み手にとってはおもしろい座談会である。

 

本書全体に学ぶことで、日本における反レイシズムのために、何をどう分析し、運動につなげていくか、考えることがたくさんできた。課題を次々と提示してくれるという意味で、スリリングな著作である。再読の必要がある。

琉球救国運動--必然としての「抗日」


後田多 敦『琉球救国運動――抗日の思想と行動』(出版舎Mugen、2010年)



 

恥ずかしながら、こんな重要な本を知らずにいた。2010年10月の出版だ。

 

<東アジアが劇的に変化した19世紀末、近代日本が武力で強行した琉球国の併合、いわゆる“琉球処分”、それに抗った琉球人の思想と行動はいかなる意味を持つのか―清国亡命・南清貿易・徴兵忌避など、かれらの具体的な動きを詳細にたどりつつ、それがアジア諸国で生起した“抗日運動”の先駆的形態であることを明らかにした、東アジア近代史研究の意欲作。>

 

著者<1962年石垣島生まれ。神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科博士前期課程修了。専門は資料学の方法に基づいた琉球思想史、日本近代史。現在、雑誌『うるまネシア』編集委員>

 

以前、「植民者の手を引っ込めるために」で、知念ウシ 與儀秀武 後田多敦 桃原一彦 著『闘争する境界――復帰後世代の沖縄からの報告』(未来社、2012年)をごく簡潔に紹介した。その著者の一人である。


 

琉球処分に抵抗した琉球人がいたことを多少は知っていた。清国に脱出して抵抗が続いたことも。しかし、その内実は本書で初めて知った。本書によると、それなりの研究史があり、それを受けて本格的な研究を行っていることが分かる。我ながら無知だ。

 

本文300ページを超え、註も含めて374頁の本書は、琉球処分への抵抗を『琉球救国運動』と表現する。当然のことながら、独立国家である琉球王国に対する日本の侵略が俎上に乗せられる。植民者の側と、抵抗する側の双方をていねいに追いかけて、琉球処分の経過を明らかにしている。処分される側でも、処分を受け入れる立場もあれば、徹底的に抵抗する立場もある。それらを視野に収めながら、幸地朝常を中心とした抵抗を浮上させる。

 

本書の副題は「抗日の思想と行動」である。まさに「抗日」――その後、台湾、朝鮮半島、東南アジア各地で展開された抗日の先駆的形態である。「抗日」とは、大日本帝国による侵略が、アジア各地の人民に余儀なくさせた思想と運動であるが、そこからアジア人民の主体の練り直しも始まる。

 

「本書では、『琉球救国運動』と『抗日』の視点から、近代史を見直すという課題に取り組んできた。なかでも琉球国滅亡過程における黒党と白党の対立、そして尚王家を中心とした丸一店などの経済活動、徴兵忌避を事例として取り上げた。政治だけでなく、経済や社会的な側面から、沖縄社会のなかにおける運動の広がりを提示できたと思う。」

 

「救国運動の敗北や根本的対立のしこりは、運動に対するマイナスイメージを付与し、タブー視する理由ともなった。しかし、救国運動に参加した人々が中国で滞在中に文化や諸芸を学び、それを沖縄にもたらしたという事実もある。長期間にわたる人々の往来は、沖縄の文化にも影響を刻んだ。この関係の蓄積や抗日運動の経験は沖縄と東アジア各地との間で、現在でも続く友好関係の基礎をつくっているものである。」

 

著者は、当時の琉球救国運動の全体像に迫り、実証的に解明する任務に専念している。それゆえ、著者は「今こそ抗日を」などとは書いていない。植民地宗主国の国民の一人だが、私なら書いている、と思う。

 

東アジア人民史を描きだすためにも、本書は必須の一冊であり、必読である。東アジア各地の「抗日」との比較研究も重要だ。

Thursday, November 08, 2012

差別表現の自由はあるか(4)


差別表現の自由はあるか(四)

 

『統一評論』563号(2012年9月)

 

一 本稿の課題

 

 前回は、差別表現を処罰する立法を提案した内野正幸『差別的表現』(明石書店、一九九〇年)と、これに対する批判を瞥見して、一九九〇年代における議論状況を確認した。

一九八〇年代から九〇年代にかけて、差別表現の処罰立法は憲法の表現の自由に反する等の議論が盛んになされ、今日の憲法学における通説が形成されていったと見られる。しかし、当時の議論状況を見ると、判例においてこの問題が問われていたわけではないことや、憲法学において処罰立法を提案したのは旧内野説だけといって良い状況であったことから、議論は具体的な内実を持ったものとはなりえなかったように思われる。

そのため、第一に、議論は現実に向き合うことなく、観念だけを取り上げる水準になっていたように思われる。差別表現には被害がないかの如く断定する暴論が堂々と第一人者によって語られたことに特徴的である。第二に、議論はアメリカ憲法判例の理解と、日本への導入に収斂していった。それは、表現の自由の理解の発展を促す面があったが、かなり偏向した理解になっていったと思われる。第三に、一九六〇年代から国際人権法の発展がみられ、日本政府も遅ればせながら一九七九年に国際人権規約を批准するなど、国際人権法の摂取に向かいつつあったにもかかわらず、憲法学の議論は国際人権法を軽視する形で進んでいったように見える。

その後、内野自身が旧説を改めることによって、旧内野説が「過去」のものとなり、憲法学は、前々回に見たように、差別表現の処罰立法に否定的な態度を取るのが一般的となり、しかも、その際にあえて理由を示すことさえ必要とはされないほどに、共通の理解がしっかりと形成されることになった。

今回は、そうした理論状況の特徴を見るのに有益と思われる二つの文献を検討することにしたい。

一つは市川正人『表現の自由の法理』(日本評論社、二〇〇三年)であり、もう一つは内野正幸『表現・教育・宗教と人権』(弘文堂、二〇一〇年)である。

表現の自由に関してはこれ以外にも多くの重要な研究業績が存在するが、ここでは旧内野説から新内野説への転換を見て行くことが主たる関心事であり、そのためには上記二冊を見ることで足りると考えられる。表現の自由に関する研究の第一人者である奥平康弘にも『表現の自由を求めて』(岩波書店、一九九九年)などの重要著作があるが、ヘイト・クライム処罰は主題とされていない。

 

二 市川説による到達点

 

 前々回に紹介した佐藤幸治(京都大学名誉教授)の『日本国憲法論』(成文堂、二〇一一年)に、人種差別撤廃条約に関して、次のように記述されていた。

「加入に際して、わが国は、憲法の保障する権利と抵触しない限度で義務を履行するとの『留保』を付したことは前に触れたが、この条約も踏まえて平成一四年に国会に提出された人権擁護法案の内容などを読むと、表現の自由(および集会・結社の自由)との関係で看過しえない重大な問題が含まれていることが知られる(市川正人)」(二七〇頁)。

これは、市川正人(現在・立命館大学教授)の『表現の自由の法理』のことである。該当頁を明示せずに一般的に市川の名前を示しているのは、それだけ本書が学界において広く共通の理論財産となっていると理解されているためであろう。

本書は、表現の自由に関する裁判法理について検討しているが、それは表現の自由の優越的地位や、二重の基準論が日本では必ずしも機能していないという認識から、優越的地位や二重の基準を定着させるためにはどうすればいいかという関心で書かれている。つまり、日本の判例においては表現の自由がなお十分に保障されていないので、よりいっそう表現の自由を促進するために理論的研究を行っているものである。

差別表現に関しては、第一編「表現の自由総論」の第二章「差別的表現の規制」において検討が加えられる。

市川はまず、「アメリカにおける差別的表現の規制」について、①アメリカ合州国最高裁のR.A.V.判決を検討し、②次に批判的人種理論の挑戦によって始まった差別的表現禁止をめぐる論争を検討する。そのうえで、市川は、③日本における差別表現規制をめぐる論争、すなわち旧内野説とそれへの批判を整理して、差別表現規制法の可否を論じ、人権擁護法案について検討を加えている。

①  R.A.V.判決とその評価

一九九二年の最高裁判決は、ミネソタ州におけるヘイト・スピーチ事件につき被告人を有罪とした「偏見を動機とする犯罪条例」が合州国憲法修正第一条に違反し、文面上無効であると判断した。本判決についてはそれ以前から紹介されていた。判例法理としては、表現内容の規制・内容中立二分論として展開されてきた。本書第二編においてアメリカにおける表現内容の規制・内容中立二分論が詳細に検討されている。本判決自体について、本書は次のように評価している。

「差別的表現禁止法を人種などに関するけんか言葉の禁止として正当化する手法は、これまでの判例の流れからして最も自然な手法であるが、本判決はこの手法を否定したのである。また、本判決は、差別的表現の禁止を、少数者の人権擁護のためのやむにやまれざる政府目的を達成するために必要不可欠な規制と構成する手法をも否定した。/本判決が差別的表現禁止法に対してこのような厳しい姿勢をとったのは、差別的表現禁止法に対し、特定の争点につき非寛容の思想ないし偏見をもつ側にのみ負担を課す(見解差別的効果を有する)ものであるとの否定的な評価を加えているからであろう。この点、結果同意意見が、『差別についてのわが国の長く苦痛に満ちた経験』ないし『現代アメリカ社会における「人種、肌の色、信条、宗教[及び]性」の役割』を考慮して、けんか言葉たる差別的表現の禁止に関して理解を示しているのと対照的である。本判決は、差別的表現禁止法を正当化しようとする手法すべてについて判断を加えたものではないが、差別的表現禁止法を正当化することがかなり困難になったことは確かである。」(本書四四頁)

市川の評価の前提、そしてアメリカ最高裁判例の前提には「思想の自由市場」の論理があることがよくわかる。あくまでも「思想」であり、「表現」であるという位置づけである。この思考と、表現の自由の優越的地位とがセットになることによって、ほとんど無制約の表現の自由論が構築されることになる。

②  批判的人種理論の挑戦

市川は、次に批判的人種理論の挑戦について検討している。批判的人種理論とは、一九八〇年代末頃からアメリカに登場した理論であり、この文脈では、差別表現禁止を唱える見解として位置づけられる。

例えば、批判的人種理論は、「人種差別的表現は、その表現が侮辱している人種に属する人々の尊厳に対する攻撃であるが、そのような攻撃は、すべての人が等しく尊重と配慮を受けるべきと言う社会の基本的原理と矛盾する」として、差別表現の禁止を主張する。

これに対して、一九九〇年代に激しい論争が行われた。人種差別的表現規制法が誤って適用される恐れがあることや、逆にマイノリティによる言論に適用される恐れが指摘された。さらに、「そもそも、人種差別主義者は、その人種差別思想を表明する権利があるのではないか」という主張もなされたという。ここには「差別表現の自由」の主張が端的に表明されている。

これらの論争の紹介を踏まえて、市川は次のように述べている。

「まさに表現の自由の保障について特別な国であるアメリカがヨーロッパなみの『普通の国』になるかどうかが問題となっているのである。グローバル化とはアメリカ資本主義の貫徹であるとよく言われるが、このことはグローバル化がそれだけではないことを示していよう。国際的な人権保障のありようや冷戦の崩壊がアメリカの『表現の自由』理論を揺さぶっているのも、グローバル化の一側面なのである。これは、アメリカ的な『自由』のありようが問われているということでもある。そして、アメリカの『表現の自由』理論(特に判例のそれ)が直ちに根本的に転換する可能性は低いが、『思想の自由市場』論の形式性を克服しつつも、国家による思想統制を許さないような『表現の自由』理論へと展開していく兆しは感じられるのである。」(本書五二~五三頁)

③  旧内野説をめぐって

次に市川は、旧内野説とそれへの批判を瞥見する。集団的名誉毀損ないし集団的侮辱の罪の新設を唱える江橋崇(法政大学教授)、処罰違憲説に立つ横田耕一(九州大学名誉教授)、松井茂記(大阪大学教授)の見解などを紹介し、差別表現規制法の可否について論じている。すなわち、一方では個人の尊厳(憲法一三条前段など)、他方で表現の自由(憲法二一条)があることに触れたうえで、「こうした考え方の下では、差別的表現のような問題のある言論についても言論でもって対抗するのが筋であり(対抗言論の原則)、言論で対抗するなどといった悠長なことをいっていられない緊急の場合にのみ思想・意見の流布を抑止することが許される。さらに、表現の自由が規制に弱いデリケートな性格をもっていることも考慮に入れられねばならない。すなわち、大抵の人は処罰される危険を冒してまで表現活動をしないので、規制が存在する結果、過度の自主規制がなされてしまう可能性が高いのである(規制の萎縮的効果)。それゆえ、表現の自由の規制は過度に広汎なものであってはならず、また、何が禁止される表現行為であるかを明確に示していなければならない(明確性の原則)」という(本書五八頁)。

 つまり、対抗言論の原則、規制の萎縮効果論、明確性の原則などから、差別表現の刑事規制はほぼ全面的に否定される。もっとも、「例外的にどうしても必要な場合にだけ必要なかぎりで制約される」(六一頁)としているが、具体的にはその可能性もないという趣旨であると読んだ方が良いだろう。

 市川の結論は次のようにまとめられている。

 「以上の私の立場からすれば、人種差別撤廃条約四条abをそのまま禁止・処罰するような法律は日本国憲法の下では認められない。他方、ブランデンバーグ判決の基準をみたすような人種集団に対する暴力行為の煽動や、侮辱を自己目的とするような特にひどい侮辱的表現を処罰するきわめて限定的な人種差別的表現処罰法ならば、規定の文言が明確であるかぎり、日本国憲法の下でも許容される可能性がある。しかし、憲法上の許容性と立法することの政策的適否とはまた別の問題である。後者についても、表現の自由が真に根づいたとは言い難いわが国において、差別的表現処罰法が有する効果をも考慮に入れて、慎重に検討すべきである。」(六三頁)

 以上の市川説は、表現の自由に関する本格的研究の中で、それまでの議論状況を踏まえて用意周到に検討された見解であり、大きな影響力を有した。その後の憲法学説が、市川説と基本的に同様の帰結に至っているのも頷けよう。

 「差別表現の自由はあるか」との問いに対する日本憲法学の到達点は、「差別表現は自由であり、刑事規制してはならない」というものとなった。多くの憲法学者が、このように明示的に表現してはいないものの、差別表現の刑事規制は憲法上許されるかという形の設問に対して、それは許されない(あるいは、ごくごく限定的にしか許されない)と回答している。さすがに「差別表現は自由である」と明言することには心理的抵抗があるために、表現方法を変えているのであろう。なお、赤坂正浩(神戸大学教授)の『憲法講義(人権)』(信山社、二〇一一年)は「差別的表現の自由」を明言している。

 

 

三 新内野説の結末

 

 九〇年代における論争を経て、内野は説を改めることになった。その時期の論考を収めた内野正幸『表現・教育・宗教と人権』(弘文堂、二〇一〇年)をもとに確認しておこう。

 もっとも、前回も紹介したように、内野自身は「改説」とは考えていない節もある。「憲法その他の分野で多数の文献が出され、私自身のフォローしきれないところとなった」と述べており、当時の論考を収録している。

 本書第一章「表現の自由と差別的表現」は六節から成り、六本の論考を収めている。初出年を見ると、第一節「表現の自由の守備範囲」は一九九五年、第二節「PCと差別的表現」は一九九六年、第三節「集団を傷つける言論」は一九九四年、第四節「差別的表現のおかれた位置」は一九九七年であるが、第五節「差別的表現と民事救済」は二〇〇七年、第六節「インターネットと表現の自由・名誉毀損」は二〇〇八年である。第一節から第四節までは内野の問題提起をめぐる論争とそれに続く時期と言えるが、その後、第五節までに十年の空白期がある。その間に関連論文を執筆していないわけではないかもしれないが、本書に収録するほどのものは執筆しなかったということであろう。「フォローしきれないところとなった」という表現ではあるが、普通であれば、沈黙を余儀なくされ、十年の歳月を経て、やや違った視角から論じることができるようになった、と理解する方が正当であろう。

 本稿の文脈で直接取り上げるべきは第三節であるが、第一節から見て行こう。

 第一節では、表現の自由の「優越的地位」との関連で、表現の自由は「前国家的な人権」であり、「自然的自由」であるとする。次に、中核的「表現」と周辺的「表現」という対句で、中核的「表現」は優越的地位にあるが、周辺的「表現」はそうとはいえないとして、表現を区分している。この区分を通じて内野なりの表現の定義を試みて、「表現」と非「表現」の振り分けを行う。客への見せ物、名前を名乗ることにかかわる行為、私的なコミュニケーション、活動支援的行為などについて論じている。

 第二節では、アメリカにおけるPCの紹介から始めている。内野の思考の特徴は、例えば次の一文に見ることができる。

 「反差別主義の流れがいわば圧制的になると、その流れに逆らいにくいような雰囲気が作り出されてしまい、そこでは、それに背こうとする者は、いわば悪者扱いされかねない。ここからは、ややもすると、のけ者扱いに反対する立場にあったはずの反差別主義者たちが、自分たちに反対する人をのけ者扱いにする、というパラドックスが生じてしまうおそれがあろう。いいかえれば、多文化主義という多様性尊重論が、自己への反対論を含めた諸思想の多様性を価値的に認めたがらないことがある、という話にもなってくる。あるいは、特定の価値観を押し付けないことを内容とするはずの多元主義が、多元主義という価値観を押し付けようとする、という逆説である。」(本書二〇~二一頁)

 次に内野は差別的表現について「再考」し、第一に、「表現行為を権力行為としてとらえる視点が必要になる」という。第二に、差別的表現という枠組みの適用範囲を明確にし、「差別的政策が、差別主義のメッセージを発信するものとして差別的表現に属する」と見るのは問題であろうという。第三に、差別的表現がマイノリティ集団のメンバーに向けられる場合への配慮であるが、同時に「内容的に不正な表現」にも留意している。

 第三節では、思想の自由市場の意味を再度検討した上で、「集団を傷つける言論とは何か」として、差別的表現や、「アウシュヴィッツの嘘」に関連する事案や、特定の宗教を信じている人々の心を傷つける言論などを例示する。これらについて、次のように述べているところに、新内野説の特徴が如実に表れている。

 「このような集団を傷つける言論は、特定の個人を傷つける場合と比べて、傷つけられた側の傷が、より深くないものとなる。したがって、そのような言論は、表現の自由の重要性にかんがみ、原則として、その自由が憲法上保障される、と考えるべきであろう。例外として、集団が社会的少数者の集団か宗教者の集団であって、言論が、その集団をことさらに侮辱する意図をもって行われた場合は、その言論は憲法上自由であるとはいえなくなる、と理解すべきであろう。もっとも、このような例外は、おもに机上の議論であって、実際上は、まれにしか起こらないと思われる。そうすると、大まかにいえば、差別的表現や神冒瀆的表現を含め集団を傷つける言論についても、それを国家権力が規制することを憲法は禁止している、ということになる。」(二九~三〇頁)

 また、内野は、差別的表現や不快な表現に対しては「それに抗議する言論などによって臨むにとどめるべきなのである」(三〇頁)と、対抗言論を主張する。

 第三節の初出は先にみたように一九九四年であるが、註を含めて加筆訂正を施して本書に収録されているので、二〇一〇年段階での内野の見解であると理解してよいであろう。註においては、表現の自由に関する文献として市川の著作を冒頭に掲げて、その後の文献を補充する形となっている。市川からの批判に積極的に反論する記述は見られない。

 第四節では、日本政府が人種差別撤廃条約第四条を留保した上で批准したことを「賢明な態度であった」と評価した上で、差別的表現には「個人攻撃性のあるものと、ないものとに類型化できる」という分類を行う。これは「攻撃が向けられる客体」の分類であるように見えるが、「他者加害的」という表現も用いられているので、加害と被害の関係も念頭に入れており、「個人攻撃的でない場合には被害がない」という趣旨と読み取れる。そのように述べているわけではないが、第三節の表現と合せてみると、そういう意味であろう。

 

四 おわりに

 

 以上、本稿の関心に即して、新内野説を見てきた。

 内野の問題提起をめぐる流れをまとめると次のようになる。一九八〇年代まで、部落差別発言や人種差別発言に対する法的対処はほとんど検討されてこなかった。部落差別発言に対する法的対処がなされないために、被害者がいわば自力救済的に立ちあがり、そのことが社会的問題として理解されるような状況であった。一九九〇年、内野正幸『差別的表現』が出版されると、憲法学の内部でも、より広い論壇でも、差別表現にいかに対処するべきかの議論が行われることになった。憲法学の一部には、江橋崇のように、内野の提起を受けて差別表現の刑事規制に賛同する見解もあったものの、多くはこれに否定的な反応を示した。憲法学以外においても、激しい反対を呼ぶことになった。

並行して、アメリカ憲法判例の研究がいっそう進んだ。ちょうど一九九〇年頃からアメリカにおけるヘイト・クライム規制法が増加していき、そこにはヘイト・スピーチ規制も含まれるようになり始め、これを否定する最高裁判決が登場した。その動向もいち早く日本に紹介された。日本国憲法の表現の自由規定はアメリカ憲法型であることもあって、アメリカ型の議論が支配的となり、内野の問題提起は、立法提案としては葬り去られることになった。内野の主張も当初からはかなりトーンダウンした。一九九四年には実質的に撤回する論文を書き、それを二〇一〇年の『表現・教育・宗教と人権』に収録している。本稿では、内野の改説と表現した。もっとも、先にも述べたように、内野自身は改説とは考えていないかもしれない。現に内野はその後も『差別的表現』を註記している。とはいえ、立法提案については実質的に撤回したと言ってよいであろう。内野への批判的応答は多いが、市川の『表現の自由の法理』が、もっともまとまった表現の自由研究であり、ここで一段落したと言えよう。

 しかし、問題に決着がついたわけではない。アメリカやイギリスでは、一九九〇年代からヘイト・クライム研究と法規制が始まったが、二一世紀になってその動きは加速している。内野や市川はそうした動きを踏まえていない。西欧諸国はもとより、北欧諸国や東中欧諸国でも人種差別撤廃条約四条関連の立法例が急速に増えている。欧米以外でも、同様の動きは少なからず見られる。例えば、前田朗「人種差別撤廃委員会第八〇会期」『統一評論』五五八・五五九号(二〇一二年)及びそこに註記した諸文献参照。アメリカが世界のすべてであるとでも言うような日本憲法学の「常識」が続く限りは、この状況に変化はないかもしれない。しかし、それも短期的な話であろう。

 以上が内野説をめぐるおおよその位置づけである。なお、本稿では、その後の研究状況をフォローしていない。市川の著作は二〇〇三年、内野の著作は二〇一〇年にそれぞれ出版されているが、一九九〇年代以後のヘイト・クライム法の立法状況や理論状況を度外視している。憲法学や刑法学においては、九〇年代後半以後、欧米諸国のヘイト・クライム法規制、さらにはヘイト・スピーチ法規制についての研究が登場している。それらについては別稿で検討したい。以下では、個別の論点について若干の指摘を追加しておこう。

 第一に、憲法一三条と二一条の関係をどのように理解するべきなのか。というのも、先にみたとおり、市川は、一方では個人の尊厳(憲法一三条前段など)、他方で表現の自由(憲法二一条)があることに触れたうえで、「こうした考え方の下では、差別的表現のような問題のある言論についても言論でもって対抗するのが筋であ」るとする。憲法一三条と二一条を対比した上で、二一条が優先するという理解を示しているが、その理由が示されていない。おそらく表現の自由の優越的地位を根拠とするのであろうが、普通に考えて、表現の自由の優越的地位を根拠にして憲法一三条の要請を退けることができるとは思われない。憲法一三条には、個人の尊厳の中核を成すものとして、例えば生命権が明示されている。生命権を内容とする個人の尊厳に対して、表現の自由の優越的地位と言うだけではおよそ説明にならないであろう。憲法学ではこのような問題をいかに理解しているのであろうか。

 第二に、右に引用したところに登場する対抗言論である。前々回紹介した憲法教科書では、渋谷秀樹(立教大学教授)の『憲法』(有斐閣、二〇一〇年)が「政府の規制を肯定すると、差別的言論の認定権を政府にゆだねることとなり、その恣意的な適用が懸念される。また、特定人が対象ではないので、不利益は拡散される。ここでは表現の自由のもつ思想の市場機能を信頼して、差別的表現については、対抗表現によって対処すべきである」(三四八頁)と、対抗言論を唱えていた。前回紹介した奥平康弘も対抗言論論者である。

 しかし、差別表現の被害者や、人権NGOは、「人種差別表現や部落差別表現に対して、果たして対抗言論は可能なのか」と議論を重ねてきた。ヘイト・スピーチが典型であるが、相手の存在そのものを否定し、「死ね」「日本から出て行け」「おまえは人間ではない」と叫ぶ差別発言に対して、対抗言論が可能であるとは考えられない。筆者は在日朝鮮人・人権セミナーという小さな市民団体で活動してきた。そのため「朝鮮人は死ね。日本から出て行け。東京湾に沈めてやる」と言った罵声を何度も浴びせられたことがあるが、およそ対抗言論などありえないと言うしかない。暴力(暴行・脅迫)を使わないが、しつように「死ね」「叩き殺せ」と連呼する相手に対して、市川や渋谷は、いかにして対抗言論が可能だと言うのであろうか。現実に即した実践を示してもらいたい。

 第三に、内野の言う多文化主義のパラドックスが理解しがたい。内野は「反差別主義の流れがいわば圧制的になると、その流れに逆らいにくいような雰囲気が作り出されてしまい、そこでは、それに背こうとする者は、いわば悪者扱いされかねない。ここからは、ややもすると、のけ者扱いに反対する立場にあったはずの反差別主義者たちが、自分たちに反対する人をのけ者扱いにする、というパラドックスが生じてしまうおそれがあろう」という主張をしている。

 「反差別主義の流れがいわば圧制的になると」とは、いったいいかなる事態を指しているのだろうか。「人種差別の流れが圧制的になる」事態ならば、ナチス・ドイツのユダヤ人差別、南アフリカのアパルトヘイト、旧ユーゴスラヴィアの民族浄化、ルワンダのジェノサイドを想起すればすぐにわかる。関東大震災朝鮮人虐殺も同様の事態である。ところが、「反差別主義の流れが圧制的になる」という言葉の意味はよくわからない。まして、九九%の構成員が日本人である日本においてそのようなことがありうるのだろうか。

 第四に、集団に対する差別と個人の被害である。内野は、「このような集団を傷つける言論は、特定の個人を傷つける場合と比べて、傷つけられた側の傷が、より深くないものとなる。したがって、そのような言論は、表現の自由の重要性にかんがみ、原則として、その自由が憲法上保障される、と考えるべきであろう」と述べている。この言葉はいったい何を意味しているのであろうか。意味不明と言うしかない。

 個人に対する差別表現と、集団に対する差別表現のいずれがより大きな被害を生むかは単純に解答することはできない。いずれの場合もありうることである。日本における朝鮮人差別が典型だが、「特定の個人を傷つける場合」よりも「集団を傷つける言論」の方がはるかに深く人を傷つけることは容易に想像できる。筆者は、朝鮮大学校における授業で学生に質問してみたが、多くの学生が、自分を名指しで侮辱された場合よりも、朝鮮人であるがゆえに侮辱されたと感じた方が、より怒りが大きいと答えた。内野のような単純な理解はあまりにも浅薄と言うしかない。

 内野の理解の背後には、奥平康弘が言う「差別表現は表現にとどまる限りは被害がない」という奇怪な思考が横たわっているのかもしれない。しかし、差別表現が表現であるが故に多大の被害を生むことは、いまさら主張するのもためらわれる事実である。前田朗「ヘイト・クライムはなぜ悪質か」『アジェンダ』三〇号~三四号(二〇一〇~一一年)参照。表現とは何かを少しでも考えたことのある者には多言を要しないであろう。

 第五に、内野の言う「机上の議論」である。内野は「例外として、集団が社会的少数者の集団か宗教者の集団であって、言論が、その集団をことさらに侮辱する意図をもって行われた場合は、その言論は憲法上自由であるとはいえなくなる、と理解すべきであろう。もっとも、このような例外は、おもに机上の議論であって、実際上は、まれにしか起こらないと思われる。そうすると、大まかにいえば、差別的表現や神冒瀆的表現を含め集団を傷つける言論についても、それを国家権力が規制することを憲法は禁止している、ということになる」と述べる。「その集団をことさらに侮辱する意図をもって行われた場合」は「机上の議論」であり「まれにしか起こらない」と言う。

 ここ数年、在日特権を許さない市民の会(在特会)と称する異様な排外主義の差別団体が、朝鮮人や中国人に対して激しい差別・中傷・罵詈・雑言を浴びせてきた。在特会だけではなく、いくつもの排外主義団体が、路上で、ネット上で猛烈な差別発言を繰り返している。前田朗「差別集団・在特会に有罪判決」『統一評論』五五〇号(二〇一一年)参照。これらは、内野にとっては「机上の空論」であり「まれにしか起こらない」のであろうか。果たして内野は現実世界を見ているのだろうか。どちらが「机上の議論」なのだろうか。