Monday, October 21, 2013

世界の宗教見取り図

橋爪大三郎『世界は宗教で動いている』(光文社新書)--世界の宗教一覧とか、世界の紛争地地図とか、この種の本は昔からよく出ている。地図やカラー写真つきの豪華本もよく見たように記憶している。本書が少し違うのは、社会学者が、ビジネスパーソンの基礎教養として語った記録ということだろうか。地図や写真はない。著者はこのところ『ふしぎなキリスト教』『なぜ戒名を自分でつけてもいいのか』『世界がわかる宗教社会学入門』などを出しているそうだ。著者の本は昔、何冊か読んだが、この20年ほど読んでいなかった。私とは関係ない本だからだ。成田空港の書店でまとめ買いしたときに、「まえがき」に<さまざまな宗教の「相互関係」を考えなければならない。・・・この点を掘り下げてみる>と書いてあったので、購入した。もっとも、「掘り下げている」とはとても思えない。「第一講義 ヨーロッパ文明とキリスト教」では、一神教としてのキリスト教の形成と思想を略説している。それはわかるが、キリスト教の現場はいわゆる中近東だ。後にローマが舞台となり、はるか後にヨーロッパでプロテスタントが登場する話も出て来るが、第一講義は「ヨーロッパ文明とキリスト教」というタイトルにふさわしい内容になっていない。なぜか一つだけ掲載されている図「ユダヤ教成立当時の周辺状況」も、エジプト、パレスチナ、メソポタミアの歴史だ。キリスト教がいかにしてヨーロッパを形成したのかにもっと焦点を当ててくれるとよいのだが。第三講義の「イスラム文明の世界」は、よくあるイスラム紹介の焼き直しだ。個人的に面白かったのは、中国の儒教の解説で、EUと中国を対比している部分だ。これも著者の独創とは言えないが。全体として、小さな新書で世界の大宗教をごく大雑把に概説するという意味では、なるほどという著書ではある。

Tuesday, October 15, 2013

ただただスタンディング・オベーション

こまつ座『ムザシ』(井上ひさし作、さいたま芸術劇場)を観た。あっという間に終わった3時間の公演に感動し、ただただスタンディング・オベーション。演出の蜷川幸雄に泣かされてしまった。ちょっと悔しい。音楽担当の宮川彬良も素晴らしい。武蔵(藤原竜也)、小次郎(溝畑淳平)、乙女(鈴木杏)、沢庵(六平直政)、柳生(吉田鋼太郎)、まい(白石加代子)、平心(大石継太)らの演技もお見事。初演の話題の時に、「武蔵を藤原竜也?」と思ったのは、愚かだった。藤原竜也の武蔵、大した役者だ。溝畑淳平は今回初参加ということだが、若手らしくまっすぐに、しかものびのびと役にぶつかっているのが、なんとも爽快だった。そもそも井上ひさしの『ムサシ』という話を聞いた時に違和感があった。文学者評伝シリーズ、昭和庶民伝3部作、広島もの、そして東京裁判3部作と続いた井上ひさしのテーマとは異なると勝手に勘違いした。このため、今回初めて『ムサシ』を観た。しかし、21世紀の「テロとの戦争」の時代にふさわしい「殺すな」というメッセージが溢れんばかりの武蔵と小次郎の物語は、想像できなかった。原作を読んだ時に、一応理解したが、舞台で見て初めて本当に理解できた。長年の井上ひさしファンなのに、我ながらお粗末。いつもながら井上ひさしに脱帽。

Wednesday, October 09, 2013

日本の沖縄植民地支配を問い続ける

知念ウシ『シランフーナーの暴力』(未来社)                                                     『ウシがゆく――植民地主義を探検し、私をさがす旅』(沖縄タイムス社)、共著『闘争する境界――復帰後世代の沖縄からの報告』(未来社)で、沖縄の歴史と現状を根底的に考える視点と思索を提示した著者の「政治発言集」は、シランフーナー(知らんふり)の日本人の意識と行動を鋭く鮮やかに分析する。「日本人よ、沖縄の基地を引き取りなさい!」というストレートな問題提起にたじろぐ日本人は、シランフーナーに逃げ込むか、話題をすり替えるしかできない。日本の平和運動が沖縄の平和運動に連帯しているという姿勢では、「沖縄に米軍基地を押し付けているのは日本であり、日本人であり、そこには日本の平和運動も含まれる」という当たり前のことを見忘れる。忘れた方が楽だからだ。著者は「知らないふりは暴力であり、攻撃である」と踏み込む。日米同盟論に立ち、中国敵視政策を進めている日本政府や政策決定エリートだけの問題ではない。沖縄に癒されたがる観光客も、沖縄の平和運動を指導したがるヤマトの平和運動家も、沖縄米軍基地を撤去するための闘いの場であるはずの東京で何をしてきたか。何を成し得たか。何もなしえない日本人は、シランフーナに逃げ込むことで、実は「無意識の植民地主義」(野村浩也)に安住している。先住民族、朝鮮半島、台湾、アジア太平洋諸地域に対する植民地支配と侵略の歴史を直視せず、責任回避を続けてきた日本への重要な問いかけである。沖縄の米軍基地撤去は「日米の帝国主義の要をはずす」闘いである。日本帝国主義、植民地主義、そして人種差別との闘いが続く。日本で広く読まれるべき著作である。

Monday, October 07, 2013

ヘイト・スピーチと闘うために

有田芳生『ヘイトスピーチとたたかう!』(岩波書店)                                                               昨日は京都朝鮮学校襲撃事件民事訴訟で、京都地裁が、在特会の差別街宣は人種差別撤廃条約にいう人種差別に当たり、不法行為であり、高額の損害賠償と街宣差止を命じるという、非常に良い判決を出した。今朝の朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、京都新聞、琉球新報、沖縄タイムズ、岐阜新聞などが社説で取り上げている。しかし、朝日新聞社説をはじめ主流は「表現の自由か、ヘイト・スピーチの規制か」という奇妙な二者択一を掲げる。毎日新聞に登場している識者もこの二者択一を唱える。これでは議論にならない。思考停止状態だ。「表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを規制しなければならない」。こう考えるべきだ。「表現の自由だから規制できない」というのなら、EU加盟国すべてが処罰していることをどう説明するのか。EU諸国には表現の自由がなく、日本にだけ表現の自由があるとでも言うのだろうか。ヘイト・スピーチという言葉は今年になって日本で普及し始めた。議論の蓄積がない。このため初歩的知識すら持っていない法律家が多い。ジャーナリストも条件反射のごとく表現の自由と唱える。現場を知らず、被害実態を無視した議論である。本書は著名なジャーナリストで参議院議員の著者の、在特会などによる異常な差別街宣、ヘイト・スピーチとのたたかいの記録である。差別の現場へ行き実態を把握し、国会内で2度にわたって討論集会を開催し、国会質問でも取り上げ、研究者の意見に耳を傾けながら、著者はヘイト・スピーチといかにたたかうのか、思索し、議論し続けている。表現の自由は大切だが、ヘイト・スピーチの問題は必ずしも表現の自由の文脈で考えるべきではないことも指摘されている。人種差別撤廃条約を批准しながら条約の実施に後ろ向きの日本政府と法律家の限界を乗り越えるため、実態把握と、諸外国の法規制の調査を進め、公的な議論を呼びかける。とりあえず罰則のない人種差別禁止法をつくり、人権機関や救済機関をつくる。そのためにまず調査委員会をつくる。その前提としてヘイトスピーチ研究会を発足させると言う。著者は最後に、「法的規制は必要ないという専門家には、ぜひ各地の『現場』へ足を運び、デモの異様さを感じていただきたいのです。・・・そして被害者の声を直接聞いていただきたい」と述べる。巻末には、在特会を取材し続けてきたジャーナリスト安田浩一、ヘイト・スピーチ法に詳しい専門家・師岡康子との座談会が収録されている。

「それからのブンとフン」を見る

昨日は天王洲銀河劇場で、井上ひさし「それからのブンとフン」(こまつ座、ホリプロ)だった。1970年の井上ひさし小説出版デビュー作『ブンとフン』を、1975年に演劇用に脚本を作ったものだ。売れない作家・大友憤の小説「ブン」の主人公である4次元世界の泥棒ブンが小説から現実世界に飛び出て来て暴れる。次から次と盗みを働き、できないことはない大泥棒だが、やがて、形あるものではなく、人間の記憶を盗み、いやなやつからいやなところを盗み、重病人からその病を盗む。そして、人間が大切にしている「権威」を盗む。国家権力、社会的権威に対する公然たる挑戦である。『ブンとフン』を読んだのは大学2年か3年の時だ。その後も井上作品を読むと、かつて上智大学学生だった井上ひさしが東京四谷近くに住んでいたことがあるため、四谷、しんみち通り当たりがよく出てきた。当時、私は新宿区若葉町、四谷駅から徒歩5分のアパートに住んでいたので、まさに小説の現場だった。そんなこともあって、ますます井上ひさしを読んだ。その後、『吉里吉里人』の大ブレイクで、トップランナーになった井上ひさしは小説だけでなく、戯曲でも大活躍するようになった。その最初期の作品「それからのブンとフン」だ。紛争世代の学生運動、アポロ月着陸など、70年の時代背景が出てくるが、痛快軽快なドタバタ演劇では、ブンとフンの闘いにもかかわらず、結局、権威と権力が勝利を収め、「元に戻ってしまった」と呟くしかない状況になる。まさに「元に戻ってしまった」。時代状況の悪化に落胆した井上ひさしは、暗く冷たい地下牢に閉じ込められた作家・フンを絶望させることなく、懸命に立ち上がらせようとする。そこで幕が下りるのだが、次の闘いは井上ひさし自身がそれから40年近くかけて続けて行ったことになる。井上ひさしの分身であるフンを市村正親、泥棒ブンを小池栄子、フンと敵対する悪魔を新妻聖子、クサキ・サンスケ警察長官を橋本じゅんが演じる。いずれも好演、熱演だ。演出は栗山民也、ピアノは朴勝哲。                                                   こまつ座 http://www.komatsuza.co.jp/ 

Thursday, October 03, 2013

福沢諭吉神話徹底批判完結

安川寿之輔『福沢諭吉の教育論と女性論――「誤読」による<福沢神話>の虚妄を砕く』(高文研)                                                 『福沢諭吉のアジア認識』(2000年)に始まり、『福沢諭吉と丸山真男』(2003年)、『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(2006年)に続いて、本書において、著者の福沢諭吉批判、そして福沢を「民主主義者」であるかのごとく虚偽の神話を作った丸山真男批判、その神話を無批判に継承している論壇、研究者に対する批判が完結した。『福沢諭吉のアジア認識』は衝撃的だった。韓国人や在日朝鮮人から福沢批判を耳にして、少しは知っているつもりだったが、自分で調べていなかったので、やはり<福沢神話>を逃れることはできない。福沢諭吉の侵略的姿勢とアジア蔑視と激しい差別には愕然とした。その福沢を民主主義者と持ち上げている日本の思想界の腐敗ぶりも徹底的に暴露されている。その後、慶応義塾関係者が安川への反論を試みて、論争が行われたこともあったが、今では安川批判はなく、むしろ、一部の論者は、安川の議論を無視して、相変わらずの福沢神話流通に励んでいる。13年経った今でも同様に、都合の悪いことは無視して、恣意的な引用と誤読をもとに福沢を持ち上げる例が次々と登場している。本書には、西澤直子『福沢諭吉と女性』(慶応義塾大学出版会、2011年)や宮地正人『国民国家と天皇制』(有志舎、2012年)への批判が含まれている。安川の徹底批判の姿勢も見事だが、いくら批判しても無視する「研究者」も「見事」だ。「見事」という言葉にもいろんな意味がある。本書末尾では、司馬遼太郎の「明るい明治」と「暗い昭和」の図式に対して、安川は「明るくない明治」と「暗い昭和」の連続性を探り、その「お師匠様」としての福沢諭吉を確認する。明治日本がなぜ、いかにして帝国主義国家として「自立」し、アジア侵略を積み重ね、アジア人蔑視と差別に精を出し、虐殺や日本軍性奴隷制度の歴史に突き進んだのか。近代日本総体の最高の「お師匠様」が福沢諭吉であったのではないか。そして、いまもアベとかイシハラが福沢諭吉を持ち上げている。

パテク・フィリップ博物館散歩

時計会社パテク・フィリップの時計博物館は、ジュネーヴ市内、プランパレ公園やジュネーヴ大学の近くにある。15世紀のドイツはニュルンベルクやアウグスブルクでつくられたものから現代までの時計が陳列されている。ポケット時計(懐中時計)、腕時計、ペンダント時計、柱時計、置時計。いつに多彩な装飾時計の数々が並ぶ。金、銀、メノウ、貝など各種の装飾が見事だ。肖像画、キリスト教にちなんだ図柄も目立つ。古いものは一般販売ではなく、王侯貴族からの注文品だろう。ロシアの歴史やポーランドの歴史を描いたシリーズものもある。時計も精巧だが、図柄もさまざまに工夫を施してあり、精密だ。金、銀、真珠、宝石類をちりばめた見事な装飾品だ。時計が壊れて止まっても、装飾だけで意味がある。時計や時間の研究に関する書籍も多数陳列されている。また、時計づくり工房の様子を、当時使った専用机、工具、写真で展示している。今や電子時計の時代だが、逆に希少価値があって、一層素敵な装飾が求められる。一番気になったのはルソーの系譜だ。16~17世紀ジュネーヴの時計の歴史にルソーの名が刻まれている。1549年にジュネーヴにやってきたディディエ・ルソーの孫ジャン・ルソーは時計職人だった。その息子がダヴィド・ルソーで、孫がイザク・ルソー、ともに時計職人だ。3代続いた時計職人の家に1712年に生まれたのが、ジャン・ジャック・ルソー。職人としてはできそこないで口先ばかり達者だったジャン・ジャックは、パリに出て『人間不平等起源論』『社会契約論』の著者になる。著作ではいつも「ジュネーヴ市民」と名乗っていたが、啓蒙の旗手ルソーは一時、時の人として故郷に凱旋するも、やがて権力に追われる身となり、故郷では出版禁止の憂き目にあう。最後は「ジュネーヴ市民」と名乗るのを止めることになった。今、ルソーの生家はジュネーヴ旧市街に残され、観光客が訪れる。パテク・フィリップ博物館ではジャン・ジャックのことは名前しか出てこないが。