Tuesday, July 14, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(26)『創』シンポジウムにおける山田健太発言への疑問

特集「ヘイトスピーチにNOを!」『創』2015年8月号
6月11日に『創』編集部が開催したシンポジウム「ヘイトスピーチとナショナリズム」の記録である。300人 以上が参加したという。私も参加したかったが、日程の都合から参加できなかったので、誌上で読めるのはとてもうれしい。8人の発言が記録されている。
安田浩一「社会的少数者差別の先にあるもの」
有田芳生「今も毎週末に差別扇動のデモが・・・」
佐高信「ヘイトスピーチの背後の弱肉強食」
香山リカ「アイヌに対するヘイトスピーチ」
雨宮処凛「かつて感じた言語化できない怒り」
鈴木邦男「ヘイトスピーチと右翼の内情」
小林健治「ヘイトスピーチと差別表現」
山田健太「『表現の自由』と法規制の是非」
それぞれにコメントしたいところだが、時間の余裕がない。一番注目されるのは、刑事規制反対の論陣を張ってきた山田健太(専修大学教授)の主張である。山田健太とは30年以上前の国家秘密法反対運動にいっしょに取り組んで以来の仲であり、敬愛するメディア法研究者である。しかし、この問題では見解を異にする。にもかかわらず、山田は、私の本『ヘイト・スピーチ法研究序説』出版記念会に出席して、発言してくれた。大変感謝している。上記の創シンポジウムでも、山田は規制反対派の役割を引き受けて、冷静に議論をする努力をしている。
さて、創シンポジウム記録によると、山田は、「公的な差別が公然と行われていること」が問題であると指摘し、「メディアの対応にも問題がある」と述べた。その通りである。そのうえで山田は、人種差別を禁止するという点では国際人権法も日本も同じ道を歩んでいるが、その方法には違いがあると指摘した。山田の主張は次の言葉に顕著である。
「日本国憲法は世界に稀な例外を持たない憲法なんですね。/表現の自由の規定は一切例外なしです。『表現の自 由はこれを保障する』――このような例外を持たない憲法は世界中でもごくわずかなんです。そのような選択肢をとったわけですね。」
そのうえで、山田は日本のメディアの自主規制について論じ、さらにヘイトスピーチ対策のための差別救済法や 人権委員会設置、報道倫理の確立の必要性を指摘した。
私は山田の意見の大半に同意する。これまでも山田の著作に学んできた。しかし、上記の引用個所については、疑問を指摘せざるを得ない。いくつかあるが、今回は2点。
第1に、山田は、憲法21条だけを引用しているが、憲法12条を無視するのはなぜか。
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」
このように憲法12条は明らかに「例外」を定めている。「例外を持たない」というのは山田の誤解ではないだろうか。このことは、多くの憲法学者が指摘してきたことである。ほとんどの憲法教科書が「表現の自由は絶対的ではなく、優越的地位である」としている。芦部信喜も佐藤幸治も、辻村みよ子も長谷部恭男も、表現の自由は絶対的ではないとしている。最高裁判例も、表現の自由は絶対的ではないとしている。日本政府も、人種差別撤廃委員会の審査の際に、委員に詰め寄られて、表現の自由は優越的地位にあるが、絶対的ではないと、認めざるを得なかった。
にもかかわらず、山田は「例外なき表現の自由、絶対的な表現の自由」という特異な見解を述べる。それはなぜか。どこに根拠があるのだろうか。山田の独自の思想であって、日本国憲法の立場ではないのではないか。
第2に、山田の主張する表現の自由とはマジョリティの表現の自由であって、マイノリティの表現の自由が無視されているのではないだろうか。憲法12条、14条(法の下の平等、非差別)、21条を踏まえるならば、マイノリティの表現の自由こそ最も尊重されるべきではないだろうか。表現の自由が優越的地位にあるのは、人格権と民主主義に根拠があるからであり、それはマイノリティの表現の自由の尊重を意味しているのではないだろうか。そもそも、マジョリティは権力を保有し、望む政策を実現できる立場にあり、表現の自由はふんだんに保障されている。日本国憲法がそのようなマジョリティの表現の自由を、わざわざ絶対的に保障するなどということはあり得ないことではないだろうか。マジョリティの表現の自由を唱えることは、差別の自由、差別表現の自由を認める人権無視の憲法論に堕する危険性はないだろうか。私は「マイノリティの表現の自由の優越的地位を保障せよ」と主張してきた。この点を、山田はどのように考えているのであろうか。

ヘイトスピーチ刑事規制がもたらすかもしれない弊害についての山田の指摘には同意する面もあるが、憲法解釈については疑問である。次の機会には、山田から教示を受けたいところである。

Monday, July 13, 2015

日本政府の国連安保理改革提案

『マスコミ市民』557号(2015年6月)

拡散する精神/委縮する表現(51)
日本政府の国連安保理改革提案

 日本政府が、ドイツ、インド、ブラジルと共同で国連安保理改革提案を国連に提出したと言う。
提案内容は、安保理事会を現在の一五カ国から二五~二六ヶ国に、常任理事国を現在の五から一一に、非常任理事国を現在の一〇から一四~一五に拡大するというものである。一〇年前の二〇〇五年に提出したものと基本的に同じであるが、非常任理事国を一四としていたのを、今回は一四~一五として、一ヶ国増やす可能性を明示した点が異なる。増加分はアフリカに割り当てるとし、国連内でアフリカ諸国の賛同を得ることを目的としている(『朝日新聞』五月九日)。
今回の提案は、安倍晋三首相が昨年九月の国連総会で常任理事国入りの立候補表明をしたことに始まる。国連創設七〇年の今年から、日本国連加盟六〇年の二〇一六年にかけての二年間を「具体的な行動の年」と位置付けて、安保理改革を呼びかける。さらに、アフリカ開発会議(TICAD)、カリブ諸国首脳にも支持を求めたうえ、今年四月二八日、安倍首相訪米に際してアメリカが日本の常任理事国入りを支持することを確認したと言う。
しかし、朝日記事も的確に指摘しているように、安保理改革の先行きは不透明である。安保理改革の必要性については広く共通認識が形成されているが、具体案となると利害関係が錯綜するからである。日本政府がどのような感触を得ているのかは不明だが、一〇年前の失敗を教訓としたとは到底考えられない。
第一に、〇五年改革提案は各国の間でも大きな話題となり、安保理改革の必要性が支持されたにもかかわらず、常任理事国を増やしたくないアメリカや中国の意向によりあっという間に潰れた。今回、安倍首相はアメリカの支持を確認したというが、果たして具体案を提示して賛成投票をすると約束を取り付けたのだろうか。そうは思えない。
第二に、〇五年改革提案の際は小泉首相、外務省、マスコミが前のめりになって、いよいよ常任理事国入りなどとはしゃいでいたが、私は「絶対なれない」と断言していた。小泉靖国参拝で中国を刺激しながら常任理事国入りを訴えても相手にされるはずがない。国連の「旧敵国」であるにもかかわらず、アジア諸国と和解を実現できていない日本に常任理事国の資格があるのか。この一〇年で状況はかえって悪化した。安倍政権の中国敵視政策はもはや歯止めがきかない状態になっている。
第三に、さすがに各国政府筋は口にしないが、国際NGOの多くが「アメリカの言いなりの属国が常任理事国に入って何の意味があるのか」と指摘していた。ますます属国ぶりを発揮している日本の現状は世界中に知られている。
第四に、経済援助ばらまきによって賛成を取り付ける日本政府の手法は限界にきている。一〇年前、膨大な援助約束にもかかわらず実際の支持を得られなかった理由を反省する必要がある。
第五に、日本、ドイツ、インド、ブラジルの四ヶ国を選定する根拠が不明確である。欧州諸国との和解を実現したドイツは衆目の一致するところかも知れない。しかし、日本には韓国、ブラジルにはアルゼンチン、インドにはパキスタンが牽制の動きを強める可能性がある。「イスラム圏やアフリカからの代表を」という声が出れば押しとどめるのは難しいだろう。まして中国が常任理事国となっている東アジアから二ヶ国とする理由がない。日本を除いてドイツ、インド、ブラジル、南アフリカとする方が説得的である。それだけに日本政府も焦っているのだろう。

前回、安保理改革は流れたが人権理事会を創設するという別の改革が実現したように、国連改革の力学は意外な展開を示すことがあるから、日本政府としては、ともかく手を挙げ続け、流れを作り出すことを考えているのかもしれない。とはいえ、東アジアの平和と安定に貢献できない、ビジョンなき日本が国際平和と安全に責任を有する常任理事国にというのは、国際社会で十分な支持を得られる話ではないだろう。

どちらが捏造なのか--吉田証言をめぐる報道の検証


*『マスコミ市民』556号(2015年5月)

拡散する精神/委縮する表現(50)


今田真人『緊急出版・吉田証言は生きている――慰安婦狩りを命がけで告発! 初公開の赤旗インタビュー』(共栄書房)は、昨年八月以後、朝日新聞や赤旗が「吉田証言は虚偽だから記事を取り消す」としたのに対して、一九九三年一〇月の吉田清治氏へのインタビュー全文を公開し、解説を加える。吉田証言の一部を切り取って、その証言価値を否定する詐欺的手法を批判し、吉田証言全体を読めば証言は虚偽とは言えず、むしろ多くのことを教えてくれることが分かるという。時代背景や現地の具体的状況に照らして納得できる証言だからである。
著者は当時、赤旗記者として吉田氏に取材した。その取材資料の中にあったワープロ用のフロッピーを保存していて、本書第一章に全文を収録している。九三年一〇月四日のインタビューでは、「慰安婦狩り」の実態について、国家犯罪という点について、労務報告会とは何か、済州島の現地訪問について等の質問をしている。続く九三年一〇月一八日のインタビューでは、産経新聞の攻撃への反論について、イヤガラセの卑劣な具体的内容、戦後直後の証拠焼却、かかわった慰安婦の数、著書に書いた年月日について、フィクションの所はどこか、吉田氏の本名等について、質問している。
第二章では、インタビュー時の時代状況を説明したうえで、吉田証言で言及されている事実を分析し、「裏付け得られず虚偽と判断」という認識論は大きな誤りと述べる。民間業者が戦争末期の朝鮮で慰安婦狩りをすることはできず、国家的行為でないとできなかったと言う吉田証言の合理性を指摘し、その他数々の論点を取り上げて、虚偽や捏造と言う非難に根拠がないことを明らかにする。
第三章では、吉田証言を取り消した朝日新聞と赤旗の「検証記事」を検証し、適切な検証がなされていないことを明らかにする。
第四章では、吉田証言を虚偽とし、吉田氏を「詐話師」と非難した秦郁彦『慰安婦と戦場の性』を検証する。秦の手法は「自分を棚に上げ、相手の人格を貶める手法」、「ウソをつきながら、相手を『ウソつき』と断定する手法」、「裏どり証言がないだけで、証言を『ウソ』と断定する手法」、「電話取材での言質を証拠に、『ウソつき』と断定する手法」、「白を黒と言いくるめるための、引用改ざんの手法」であると特徴づけ、さらに「何人もの研究者が秦氏の著作のデタラメさを指摘」とし、三人の研究者(前田朗、南雲和夫、林博史)が秦の論著を批判していることを紹介し、秦を徹底批判する。
私の名前が出てくるのは、私が作成した図を秦が盗用したことを批判したためである。私が公表した文章のうち『マスコミ市民』三七〇号(九九年一〇月)と『季刊戦争責任研究』二七号(〇〇年春季号)の論文が紹介されている。もう一つ『Let’s』二九号(〇〇年一二月)にも秦批判を書いた。秦の歴史学とは盗用、捏造、憶測の歴史学だ、というのが私の結論であった。これに対して秦は弁解にならない弁解を並べた挙句、もう歳だから、などと述べた。噴飯ものであるが、それ以上続けると「個人攻撃」となりかねないこともあって、私は追撃しなかった。そのままになっていた文章を、著者が思い出させてくれた。
吉田証言をどう見るかはなかなか難しい問題であるが、吉田証言を批判した秦郁彦こそ憶測や捏造の歴史学者の疑いがあり、きちんと検証する必要があるのは間違いない。
秦だけではない。吉方べき「『朝日』捏造説は捏造だった」(『週刊金曜日』一〇三五号)によると「朝日新聞や日本の弁護士が騒ぎ始める前は、韓国では『従軍慰安婦』問題など出ていなかった」という渡辺昇一(渡部昇一の誤り)等が広めた話こそが捏造であるという。一九五〇年代から九〇年代の韓国メディアで、様々な時期に様々な形で「慰安婦」問題が報道されていたからである。
秦郁彦、渡部昇一をはじめとする歴史修正主義者が、憶測や捏造を繰り返してきたのではないか。きちんと検証する必要がある。


植民地解放闘争を矮小化する戦略

植民地解放闘争を矮小化する戦略
――朴裕河『帝国の慰安婦――植民地支配と記憶の闘い』(朝日新聞出版)
*『社会評論』169号(2015年4月刊)に掲載
一 ねじれにねじれを重ねるプロジェクト

 賛否両論が分かれる本だ。賛成・支持する論者の中に、日本の道義的責任を果たすべきという論者と、「慰安婦」問題などなかった、日本に責任はないという論者の両方が含まれ、奇妙な同床異夢状態ができあがっている。批判する論者も一様ではない。その意味で「問題提起」的な著作である。
 書評の難しい本だ。「慰安婦」問題でねじれた日韓関係をさらにねじれさせるために書かれたとしか思えない。加害国側の日本男性である評者が、被害国側の韓国女性の本書を批判しても、ねじれが解消するどころか、いっそうこじれるだけで生産的でない。それでも書評をする理由は、日本側の事情の変化にある。第一に、二〇一四年八月の朝日新聞記事訂正に始まる一連の狂騒によって「慰安婦」問題をめぐる議論が混迷を深めているからである。第二に、一部とはいえ本書礼賛が常軌を逸しているからである。
日本側の事情が変更になったから書評をするというのも奇妙な話だ。しかし、本書は二〇一三年八月に韓国で出版された著作の「日本語版」と宣伝されているが、実は<WEBRONZA>連載の日本語版から書き始められた。最初から日本に向けて発信されたメッセージである。そうであれば本書をどのように読むのか、日本の読者にストレートに問いかけられている。日韓の双方を行きつ戻りつしながら、あえてねじれにねじれを重ねようと奮闘する著者のプロジェクトとは何であるのだろうか。少し考えてみたい。
なお、評者の認識について、『「慰安婦」バッシングを越えて』(大月書店)、『「慰安婦」・強制・性奴隷』(御茶ノ水書房)、『日本人慰安婦』(現代書館)参照。

二 練り上げられた方法論の特徴

 本書の方法にはいくつもの特徴がある。WEB連載、韓国語版を経て、改めて日本語版がまとめられた経緯から言って、本書が採用した方法は意識的自覚的に選び取られ、練りあげられたものである。その方法論的特徴を確認していこう。以下に列挙する方法論的特徴はそれぞれ独立しているのではなく、相互に密接に関連し、補完しあう性格のものである。まずは分説してみよう。
 第一に<物語化>である。「帝国の慰安婦」という表象が「戦争犯罪の犠牲者=生存者」という表象に対する批判として提示され、「慰安婦」たるべく前向きに生きた「主体」が仮構される。そのために「主体の語り」が選定され、著者の論旨に沿わない語りは剪定される。それゆえ著者は千田夏光の「画期的な仕事」である『従軍慰安婦”声なき女”八万人の告発』(一九七三年)に依拠し、千田が「慰安婦」を<愛国>的存在として理解していたことを発掘する。そこに「慰安婦」証言の中から好都合な語りを縫合していく。
ここに本書の言う「記憶の闘い」の特殊な意味が明らかになる。著者は次のような表象を全面批判する。「慰安婦」を利用し、抑圧し、戦後は戦地に放置し(場合によっては殺害し)、戦後も沈黙を余儀なくさせた男性中心的価値観による「慰安婦」イメージの押しつけ、歴史の否認と記憶の抹消を図ってきた日本国家と日本男性(男性的価値観を共有してきた女性も含む)による「記憶の消去」に抗って、韓国をはじめアジア各地で日本国家の責任を追及する「主体」として登場した「慰安婦」被害者=生存者たち――こうした従来の認識枠組みを否認すること。これが本書の戦略目標である。記憶を消去・占有しようとする国家権力に対して抗う被害女性の「記憶の闘い」は無化される。
本書は、「被害者」イメージを強調してきた韓国挺身隊問題対策協議会(以下「挺対協」)などの補償要求運動によって構築された「記憶」に、<愛国>のために生きた女性たちの「記憶」を対置する。これによって二つのことが可能となる。一つは、「記憶」の抑圧が日本国家によってではなく、補償要求運動によってなされたと描き出す。その結果として日本国家の責任を解除する橋頭堡を確保する。二つには、異なる「記憶」を有する女性たちの「記憶の闘い」を主戦場とすることによって、次に指摘する<相対化>を招き寄せる。
第二に<相対化>である。「性奴隷か、売春婦か」、「強制連行か、国民動員か」といった二者択一が次々と繰り出される。いずれかの決着をつけることが目指されているわけではない。二者択一を提示しつつ、双方に一応の根拠があると言えば、著者の論述は「成功」を収める仕掛けになっている。それゆえ著者は概念定義もせず、判断基準も提示しない。定義や基準を明示することは自殺行為となりかねないからである。
同じ理由から、著者は<()権利(ヒト)>を否認する。国内法であれ、国際法であれ、著者の行くところ見事に刈り取られて残骸のみが横たわる。国内法で言えば、従来何度も指摘されてきたように、植民地時代の朝鮮半島に適用された日本刑法には国外移送目的誘拐罪の規定があった。帝国の外に連れ出す目的で行われた誘拐であるが、朝鮮半島で誘拐され、人身売買された女性の事件に適用できた刑法第二二六条を日本政府は適用しなかった。適用しないために国家的努力を積み重ねた。著者はそのことを知悉しているはずだが、軽視する。国際法について従来、一九一〇年の白色奴隷条約(醜業条約)、一九二六年の奴隷条約、国際慣習法としての奴隷の禁止、一九三〇年の強制労働条約、そして人道に対する罪などが議論され、国連人権委員会でもILO条約適用専門家委員会でも、日本政府の責任が問われてきた。ところが、著者は内容の検討抜きに、「日本に法的責任はない」と断定する。定義も基準も検討しないが、結論だけは明快である。<()権利(ヒト)>の否認は徹底しており、理念や規範が瀕死状態となる。
 <法>の否認の背後には、植民地時代の帝国が勝手に制定した法に過ぎないという認識がある。だが、当時の法にさえ違反していたことが内外で確認されているのに、そのことは重視されない。また、当時の法は法として、そこに人権論を読み込む法律家の努力が積み重ねられてきたのに、一顧だにしようとしない。極端な「法ニヒリズム」である。
 しかし、奴隷条約を単なる「帝国の法」と特徴づけることはできない。奴隷条約に至るまでに百年以上の奴隷解放を求める民衆の闘いがあった。カリブ地域の民衆による独立運動と奴隷解放運動(ハイチ革命、グレナダ革命等)に始まり、各地で成果を上げた。最後にアメリカ合州国の奴隷解放につながり、国際連盟での奴隷条約に結実したのである。「帝国」に抗する民衆が新しい「法」を形成する運動のメカニズムこそが重要である。しかし、「慰安婦」は帝国に従って<愛国的>に振る舞わなければならないという本書のテーゼにとって不都合な真実は消去される。
 第三に<主観化>である。<物語化>と<相対化>に呼応し、これらを支えるのが<主観化>である。「慰安所」政策の歴史や背景、その客観的事実とは別に、「慰安所」に置かれた女性たちの体験は主観的に「記憶」され、「証言」されてきた。そうした証言を再び客観的状況に照し合せ、位置づけ直して、その意味を検証するのが歴史学の役割である。ところが、本書における<主観化>は、主観的に構築された物語の絶対化を意味する。それゆえ、主観と記憶を根拠に客観的条件を<相対化>することが可能となる。個別の女性の思いが歴史認識の根拠とされる。しかも、田村泰次郎、古山高麗雄など日本人男性作家が書いた小説が根拠になる。このことを指摘しても批判にならない。著者は最初から物語を語っているのであって、小説に依拠するのは「正しい」作法なのだから。
第四に<分断>と<個別化>である。著者によって、「主体」は「他者によって争奪戦を繰り広げられるべき戦場」に変容される。「記憶の闘い」は「主体をめぐる闘い」に移行し、亀裂と分断がフィールドを覆う。このフィールドで著者はふつふつと滾る憎悪を込めて挺対協を糾弾する。挺対協こそが歴史認識を歪めた元凶であり、運動方針を誤った愚者であり、「実質的」に謝罪した日本政府を根拠もなしに非難して解決の糸口を失った責任者であり、被害女性を利用している、と論難する。
著者の論理は明快である。日本政府を説得しなければならないのに挺対協はそれに失敗したのだから運動を失敗に陥らせた責任がある。著者は、被害女性にもいろいろな考えがあると、被害者の要求を分断しつつ、被害者と「被害者を利用する」挺対協を分断していく。韓国の被害女性とアジア各地の被害女性も分断される。
挺対協の論理は、国連人権委員会に受け入れられ、ILO委員会に受け入れられ、日本の戦後補償運動にも、台湾やフィリピンの被害者団体や支援者にも受け入れられ、そして二〇〇七年にはアメリカ、EUなど世界各国の議会や政府にも受け入れられた。これだけの支持を得たことは、通常は、その論理の正しさの傍証と理解される。しかし、本書によれば、日本政府を説得しなければならないのだから、挺対協の失敗は明白である。つまり、日本政府が絶対の判断基準であり、それと異なる判断をした全世界がすべて誤っている。
批判的読者はこの主体の争奪戦に参入しないように用心しなくてはならない。本書韓国語版に対して被害女性たちが、名誉毀損であるとして出版差し止めと損害賠償を求めて提訴したが、著者は「原告は元慰安婦の方々の名前になっています」としつつ、「実質的」にはそうではないとして、被害女性の主体性を著者の都合に合わせて整形する。分断線を引く権利は、著者にある。「実質的」や「本質」の論定も、誰が主体となるかも、著者の権限で決まる。
 かくして、責任を問われずに済む日本人男性の語りが始まる。「朝日文化人」が欣喜雀躍して本書を歓迎し、著者をハンナ・アーレントに比肩する珍無類の解釈が登場する。九〇年代に「知識人」と自称した人々が国家と一体となって設立した「アジア女性基金」を絶賛する著者は、「男性知識人」たちの「女神」として降臨する。同時に、日本の責任を全否定する歴史修正主義者たち、植民地主義に開き直る論者たちもスタンディング・オベーションで迎える。『和解のために』の前例から言って、著者自身も十分予測していたであろう現象である。「本書が右翼に利用される」という危惧を述べる論者がいるが適切ではない。利用されるのではなく、主体的に確たる自信を持ってハーモニーを奏でているのである。
 <相対化>や<主観化>と結びついた<個別化>が見事に猛威を奮う。個別の「慰安婦」女性にはそれぞれの思いがあり、記憶があり、闘いがあるのだから、一般化を拒否する権利もある。しかし、歴史認識や国家責任を問うフィールドで<個別化>とは何を意味するか。アウシュヴィツ収容所におけるすべての被害者の思いや記憶が同じということはありえない。旧ユーゴの「民族浄化」やルワンダ・ジェノサイドの渦中でも人々の思いは限りなく多様であった。だからこそ一般化しなければ歴史も国家責任も語ることはできない。個別の思いを重ね合わせつつ、いかに一般的認識を形成し、共有するかが重要である。

三 分断の彼方で再び

 本書の特徴は、正当な指摘が不当な帰結を生み出すアクロバティックな思考回路にある。例えば、「慰安婦」強制の直接実行者が主に民間業者であったことは、当たり前の認識であり正しい。ならば民間業者の責任を問う必要があるが、著者はそうしない。民間業者を持ち出すのはひとえに日本政府の責任を解除するためだからである。
 本書は、「慰安婦」問題を戦争犯罪から切り離して、植民地支配の問題に置き換える。植民地であれ占領地であれ交戦地であれ軍事性暴力が吹き荒れた点では同じだが、植民地であるがゆえに「慰安婦」政策を貫徹できた限りで、本書も正しい。ならば植民地支配の責任を問うべきであるが、著者はそうしない。植民地に協力した<愛国的>努力を勧奨するからである。植民地の現実を生きるのだから<愛国的>に植民地支配に協力せざるを得ないこともある。しかし、その体験と記憶を根拠に歴史を裁断すれば、カリブ海でもアルジェリアでもナミビアでも、世界は「善き植民地」に覆われることになる。
 <法>を否認する本書は「人道に対する罪としての性奴隷制」についての法的考察を棚上げし、植民地解放闘争の理論と実践や、国連国際法委員会で審議された「植民地犯罪」論や、人種差別反対ダーバン世界会議で議論された「植民地責任」論も脱色してしまう。植民地支配の責任を問う法論理が出てこない(人道に対する罪について、前田朗『人道に対する罪』青木書店)。
 「慰安婦」問題を日韓関係に閉ざして挺対協叩きに励んでも、問題解決を遠ざけるだけである。植民地支配に抗し、人道に対する罪や戦時性暴力と闘う世界の民衆の法思想は、「慰安婦」、旧ユーゴ、ルワンダ、シエラレオネ、コンゴ民主共和国、アフガニスタン、イラクの現場で、おびただしい犠牲と底知れぬ悲しみに襲われ、翻弄されながら、徐々に鍛えられてきた。「慰安婦」問題の法的解決がリーディング・ケースとなると期待しながら、世界を引き裂いてきた分断の彼方で人々が再び出会うために、謝罪と被害補償を求める運動はさらなる闘いを続けるであろう。



Monday, July 06, 2015

ヘイト・スピーチ研究文献(25)カウンター運動における右傾化

『人権と生活』第40号(2015年6月、在日本朝鮮人人権協会)
「特集・現代日本の排外主義にどう立ち向かうか――ヘイト・スピーチ、歴史修正主義、民族教育を考える」
2015年2月28日に開催されたシンポジウムの記録。コーディネータは李春熙 (弁護士)、パネラーは金尚均、板垣竜太、鄭栄桓。「ヘイト・スピーチだから表現の自由だ」という言葉尻にとらわれた皮相な議論を的確に批判している。


論考、朴利明「ヘイトスピーチをめぐる運動における右傾化に ついて」は、「歴史修正主義の立場をとりながらもヘイトスピーチには反対するということがまかりとおっている」とし、民族差別に鈍感な 「反レイシズム運動」や、カウンター行動にまぎれこんだ「ナショナリズム」を検証する。

Sunday, July 05, 2015

ヘイト・クライム禁止法(94)ホンデュラス

二〇〇二年に条約に加入したホンデュラス政府が人種差別撤廃委員会に提出した初めての報告書(CERD/C/HND/1-5. 13 May 2013)によると、憲法第六〇条は、平等の権利と差別からの保護を定め、「性別、人種、階級その他の人間の尊厳を損なう理由によるすべての形態の差別は処罰される」となっている。二〇一〇年八月一七日、最高裁判所憲法部は平等原則について、すべての者が法の下に平等の取り扱いを受けること、特別の事情の下で異なる取り扱いがなされることを妨げないことを確認した。憲法第六一条は、いかなる差別もなしに、安全、自由、平等、所有権を保障されるとしている。
刑法第三二一条は差別犯罪を次のように定める。「性別、人種、年齢、階級、宗教、政党、政治的姿勢、障害、その他の人間の尊厳を損なう理由に基づいて他人を差別した者は、三年以上五年以下の刑事施設収容および三万以上五万レンピラ以下の罰金に処す。実行者が外国人の場合、判決執行後に国外追放することができる」。
この定義は条約第一条の人種差別の定義に合致していない。条約の定義に合致させるために、刑法第三二一条の改正案が国会に提出されている。「性別、ジェンダー、年齢、性的志向、ジェンダー・アイデンティティ、政治的意見、市民的地位、先住民やアフリカ系ホンデュラス人の一員であること、言語、国籍、宗教、家族的背景、財産状態、社会状態、異なった能力や障害、健康状態、身体的外見、その他の人間の尊厳を損なう理由に基づいて、個人又は集団の権利の行使を、恣意的又は違法に、妨げ、制限し、減少させ、妨害し、または無効にした者は、三年以上五年以下の刑事施設収容および三万以上五万レンピラ以下の罰金に処す」。「実行行為に暴力が伴った場合、刑罰は三分の一加重される。公務員や公的従業員が職務中に行った場合、累犯の場合、当該公務員や公的従業員の刑事施設収容期間を二倍とする。実行者が外国人の場合、判決執行後に国外追放することができる」。
刑法第三一九条はジェノサイドの罪を定める。ジェノサイドの煽動及び共謀も処罰される。ジェノサイドの直接煽動は八年以上一二年以下の刑事施設収容、間接煽動は五年以上八年以下の刑事施設収容である。
司法人権省は、刑法第一一七条の殺人罪について、憎悪動機があった場合は刑罰加重事由とするという改正案を国家に提出している。

労働法、子ども青年法、民事訴訟法、公選法、基礎教育法、文化遺産保護法などにも差別禁止規定がある。

Saturday, July 04, 2015

日韓関係を見直すための実践的研究

吉澤文寿『日韓会談1965――戦後日韓関係の原点を検証する』(高文研)
http://www.koubunken.co.jp/0575/0570.html
この10年ほどの間に、日韓両国で公文書が10万枚公開された。日本政府に公開を求める市民団体の共同代表として公開請求と裁判を続けてきた歴史家である著者は、日韓両政府の公開文書を読み解いて、1965年の日韓条約に至る過程をていねいに明らかにする。基本的な問題意識は次のようにまとめられる。
「日韓基本条約が締結され、国交が「正常化」して50年が経った今、なぜ、日本と韓国は歴史認識や領土問題で対立を繰り返すのか?」
日本軍性奴隷制(「慰安婦」)問題や、竹島問題をはじめとする両国の間の矛盾と軋みの出発点こそ日韓条約であった。10数年にわたる日韓会談の結論としての日韓条約は、問題解決のための条約ではなく、問題隠蔽のための条約になってしまった。植民地支配責任を明らかにすることなく、中途半端な認識のまま、双方が都合の良い解釈の余地を残して妥協した結末であった。
このことを著者は、条約締結過程、韓国併合条約の「無効」論、「在日韓国人・法的地位」、文化財問題、竹島/独島領有権問題に即して、検証する。専門研究だが、一般読者にも読みやすく理解しやすい。
著者は次のように述べる。
「歴史対話を欠いたまま、「未来志向」を目指す手法は限界に来ている。」

現在でも、「慰安婦」問題や竹島問題を棚上げにして、日韓が「未来志向」でやっていくべきだという主張がよく登場する。しかし、「未来志向」論は少しも新しくない。それどころか50年以上に及ぶ失敗の歴史、破綻の歴史を持つ、手あかのついた主張に過ぎない。「何が未解決なのか」。植民地主義を克服するために、「原点」に返る必要がある。