宮沢剛『他者の声を聴く 在日朝鮮人文学への応答』(三一書房)
https://31shobo.com/2026/04/26003/
もともと志賀直哉など日本文学研究者だった宮沢だが、大学院博士後期課程のころから、在日朝鮮人文学に向き合うようになったと言う。
<「当事者」が非「当事者」とは異なる〈現実〉を生き、異なる〈現実〉を見ているのなら、「当事者」が〝自らの〟文学を研究することには「必然性」がある>
在日朝鮮人による在日文学研究である。
<一方で、同じ権力構造の中をマジョリティ(非「当事者」)として生きる者がマイノリティ文学を如何に読み、如何に論じるのかという問いを折り込みながら行う研究にも意義があると思う。>
宮沢は、あえて素朴な問題意識を披歴することから始める。この社会では、ここから始めること自体が稀有のことだからだ。
在日朝鮮人文学〝論〟ではなく「在日朝鮮人文学への応答」としての宮沢の文学研究は、長く緩やかなカーブを描きながら、自己形成とその修正を辿り続けて、ここに結晶した。
金史良、李恢成、梁石日、金時鐘、黄英治、李龍徳、宗秋月、李良枝、温又柔らの声にひたすら聞き入り、聴き直し、応答しながら、この国と社会の文学のありようを顧みる試みは、つねに破綻の危機を呼び込みながら、自らを問い直す試みである。
宮沢の闘いが孤独に佇まざるを得ないのは、この社会の流儀に反するからだ。この社会では、他者を見出すことさえ難しい。他者に向き合うことは忌避される。他者の声を聞くことは、自己の存立を危うくする冒険だからだ。
それどころか、この社会では、誰も自分の声すら聴こうとしない。上からの声に命じられ、押し流されることが穏当な作法と見なされているからだ。
日本文学と文学研究が差別や排除や迫害に抗するためには、いくつもの学びと自省が必要だが、その用意はできていない。文学だけではない。政治学も法学も社会学も、同様に内向きの心地よい空間で輪舞を繰り返してきた。
空しいメビウスの輪から抜け出して、次の一歩を踏み出すこと。ここから宮沢の次の闘いが始まる。