Friday, October 08, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(188)イギリスの宗教的ヘイト・スピーチ法

村上玲「宗教批判の自由と差別の禁止(一)(二):イギリスにおける神冒瀆罪から宗教的憎悪扇動罪への転換に関する考察」阪大法学62巻5号・6号(2013年)

はじめに

第一章      神冒瀆罪の概要

第一節      神冒瀆罪の歴史

第二節      神冒瀆罪が適用される宗教と同罪の成立要件

第三節      神冒瀆罪と欧州人権条約

第二章      宗教的憎悪煽動罪の創設と神冒瀆罪の廃止

第一節      神冒瀆罪の問題点と改廃に関する議論

第二節      宗教的憎悪煽動罪の創設

第三節      神冒瀆罪の廃止

第四節      宗教的憎悪煽動罪の創設と神冒瀆罪の廃止に関する検討

おわりに

村上によると、イギリスでは1688年の王政復古期以来、神冒瀆罪がコモンロー上及び制定法上の犯罪とされてきた。欧州人権条約を批准しても、まだ国内効力が十分なかった時期まで、それが続いた。しかも、宗教一般を保護するのではなく、キリスト教だけを保護する法制であった。1998年の人権法以後、状況が変わり始め、宗教的憎悪煽動罪の創設が2006年、神冒瀆罪の廃止が2008年に実現した。村上はその歴史をていねいにフォローし、20062008年法改正の意味を解き明かす。

神冒瀆罪は20世紀後半まで有効とされていたが、1985年の法律委員会は廃止を提案し、2003年の貴族院特別委員会は、神冒瀆罪は欧州人権条約に適合しないとした。神冒瀆罪の実際の適用はほとんどなくなっていたこと、犯罪成立要件が不明確であったこと、欧州人権条約に適合しないことが意識される中、社会情勢や法律状況にも変化があった。法律では、1986年の公共秩序法により人種的憎悪煽動の禁止が定着した。宗教的憎悪に応用できるかが意識された。2001年の9.11同時多発テロによって、テロ対策法の必要性と、他方で反イスラムの動きが社会問題となった。

1998年の人権法制定を受けて、2003年、貴族院の特別委員会が設置され、神冒瀆罪は差別的なので、非差別の法改正の必要性が指摘された。政府は欧州人権条約に適合した宗教的憎悪煽動罪の創設をめざした。2006年、人種的及び宗教的憎悪法が制定され、宗教的憎悪扇動罪が1986年の公共秩序法に組み入れられた。

村上によると、宗教的憎悪煽動罪が新設されたのは、2005年選挙で労働党がイスラム教指導者らを守ることを公約に入れていたこともあったという。ただ、人種的憎悪扇動罪では、「威嚇的な」の他に、「口汚い」や「侮辱的な」が要件になっていたのに、宗教的憎悪扇動罪では、「口汚い」や「侮辱的な」が削除され、「威嚇的な」場合だけ犯罪となる。また、表現の自由との調整のために、「特定の宗教や信条、信仰体系等に対する、議論、批判又は反感、嫌悪、嘲笑、侮辱を表現することを禁止し、又は制限するといった効果を与えるものではない」と明示されたという。宗教的憎悪扇動罪だが、嫌悪、嘲笑、侮辱の表現は禁止されない。このように宗教的憎悪扇動罪の成立範囲がほんのわずかになったことで、実際の適用事例も限られたものになると予想された。「イスラム教徒をなだめる目的で」最初からザル法をつくったということになる。

村上によると、日本には民事損害賠償裁判はあるが、関連刑事法は存在しない。他方、表現の自由は極めて重要とはいえ、最高裁判所は絶対的保障を認めず、「たとえ表現の自由といえども、決して他の権利に比して絶対的な優越的地位を占めているとは断言していない」。その意味では宗教的憎悪扇動罪の可能性が全くないわけではないようだ。

ただ、宗教の定義の困難性、保護される宗教と保護されない宗教という差別が生じる恐れ等を考えると、村上は、「どの宗教に対しても国家が平等であるためには、積極的に保護を与えるのではなく、敢えてどの宗教にも関与しない」ことが「公正」だという。議論は二転三転する。憲法201項後段や憲法21条の趣旨からいっても、イギリスの宗教的憎悪扇動罪の手法を採用すると、日本国憲法に反する恐れがあるという。「以上のことから考えても、現状において日本政府が宗教に関する差別的表現に関して採りうる方策について、神冒瀆罪及び宗教的憎悪扇動罪と憲法との適合性を鑑みる」ならば、「差別的行為を放置し、何もしないという方策」を補強する要素しか見当たらないという。宗教的ヘイト・スピーチを規制せず、放置せよという結論である。

そう述べつつも、村上は、最後に、子どもの権利条約と子どもポルノ禁止法の関係のように、国内外の要請を受けて新しい罪が制定される可能性も残されているので、宗教的憎悪扇動罪の可能性を全否定はしない。国際自由権規約があるからだろう。立法事実があるのであれば「社会及び治安の維持を目的に一定の表現機影が認められうる余地が生じてくる」という。

それでは可能性があるかというと、そうではなく、議論は三転四転して、「イギリスが採用した表現規制をあくまで参考に留め、当該規制を日本の宗教観を踏まえた日本国憲法の解釈に合わせた形で、制約を極力限定化することによって表現の自由を最大限確保するという法政策がなされなくてはならないものと考える」――これが村上の最後の結論である。

村上論文はイギリスの宗教的憎悪扇動罪を、神冒瀆罪の歴史の検討、そこからの変遷過程の分析を通じて詳細に論じているので、とても参考になる。

最後に議論が三転四転するのは、「キリスト教原理主義」に匹敵する「表現の自由原理主義」にとらわれているからである。村上に限らず、多くの論者に共通だが、論理が空転している。次のような構造になっている。

1.宗教的ヘイトが増えているから、対策が必要だ。

2.しかし、表現の自由が大切だ。

3.国際条約でも処罰せよとしているから、対策が必要だ。

4.しかし、表現の自由が大切だ。

5.イギリスでも立法しているので参考になる。

6.しかし、表現の自由が大切だ。

7.立法事実があるのであれば立法も必要だ。

8.しかし、表現の自由が大切だ。

この論法は日本の憲法学に共通である。「アベスガ論法」とさして変わらない。奇怪な話である。

日本国憲法の表現の自由の解釈・法理について、村上の議論はぶれる。(1)途中まではアメリカ憲法論を参考にした憲法学のレベルで論じていると見える。(2)だが、途中で村上は「最高裁判所は絶対的保障を認めていない」ことに注意を喚起している。(3)ところが最後に村上は「当該規制を日本の宗教観を踏まえた日本国憲法の解釈に合わせた形で、制約を極力限定化することによって表現の自由を最大限確保するという法政策がなされなくてはならない」とする。ここでは最高裁判例よりもアメリカ憲法流の憲法学が念頭に置かれていると思われる。

日本の憲法学は表現の自由については、最高裁判所の確立した判例を理由も示さずに排斥する。頭にあるのはアメリカ絶対主義だからだ。

最高裁判所判例が確立していても、そこに不備があれば批判するのは当然である。しかし、憲法学は1970年代以来半世紀の間、アメリカ判例という古くさい法理を持ち出して最高裁判所を批判してきた。その批判は受け容れられなかった。同じ批判を延々と続けても、そこに対話は生まれない。それでもえんえんと続けるのは、芸がないというか、思考力がないというか。

キシリトール政権語録02 シャオシャオとレイレイ

10月8日、岸田首相の所信表明演説が衆議院本会議で行われた。直後に解散する方針を表明しておいて、何が所信表明なのかよくわからないが、それを了とするのが日本社会である。野党もメディアも含めて、まともな政治はしない、というお約束。

 

*****************************

 

100代総理のキッシーです。

1代の伊藤博文公にはじまり、ついにわが国の総理が第100代となりました。わたくしキッシーが、この記念すべき第100代となりましたことは、やはり選ばれたる首相と申しますか、わたくしがこの日本という国の舵取りをお任せいただいたことに万感の思いでおります。

中学歴史教科書にも第1代伊藤博文公のお名前が出てまいりますが、次の教科書には私の名前も並べて記載することにします。そのための深慮遠謀として、文科大臣を変えました。バキュームハギューダ文科大臣も優れモノではありますが、彼に任せておくと、伊藤博文公とアクムのシンゾー前首相が教科書に載ることになりそうです。私の名前を載せるために、バキュームハギューダさんを経済産業大臣に横滑りさせて、世も末のスエちゃんを文科大臣に任命しました。先ほどスエちゃんに教科書検定基準の「歴代総理の扱い」を見直すよう指示したところです。世間ではアクムのシンゾーの「二人羽織内閣」などと称しているようですが、私なりにきっちり計算の上での周到な人事であります。他の大臣は誰でもよかったのです。どうせ10日間ですし。

次に、新型コロナウイルス感染症の対応に関してでありますが、これまで欠けていたシレっと司令塔機能を強化いたします。対応が不十分な場合や、政策の失敗が明らかになった時に、批判をシレっとかわす機能は危機管理として最重要です。新型コロナにつきましては、人流抑制と医療資源確保のための法改正で危機管理を抜本的に見直す方針です。今頃になって遅いと言われますが、ご批判はアクムのシンゾーとパンケーキのガースーに言ってください。わが政権としては、遅ればせながら対応策をとった振りをいたします。

経済政策としましては、格差是正という夢を抱いて、「馬鹿らしい資本主義」をめざします。「成長と分配の混乱循環」と「コロナ後の馬鹿らしい社会の開拓」による実現が肝要であります。持たざる者から徹底的にハギトール、ムシリトール、キシリトール「馬鹿らしい資本主義」の実現こそ、日本が生き延びる道であります。格差是正は夢のままですが、夢は夢として大切にいたします。

わたくしキッシーは被爆地・広島出身の首相として「核兵器のない世界」をめざす決意も、ここにいちおう、ついでに表明しておきたいと思わないでもありません。現実無視の核兵器禁止条約を批准することは金輪際ありえませんが、核兵器がなくなると良いな、という希望だけは持ち続けたいと存じます。はい、もちろん、「北の核兵器」をなくし、アメリカの核戦略に付き従う。この素晴らしい二枚舌路線をしっかりと維持いたします。本来なら自前の核武装によって一人前の国家をめざしたいところですが、アメリカ様のお許しが出るまではおとなしくしておきます。

ちょうど先ほど、上野公園の双子パンダの名前が決まりました。オスを「シャオシャオ(暁暁)」、メスを「レイレイ(蕾蕾)」と命名したとのことであります。一瞬、シャアシャアかと思いました。私のことを「いけしゃあしゃあと」などと非難する輩がいたものですから。わが政権はいけしゃあしゃあと麗々しく本領発揮と行ききたいものです。

 最後に、国民の声を真摯に受け止める信頼と共感を得られる政治が必要であります。わたくし自身と全閣僚による市民との車座対話を始めます。人の話を聞くことが私の特技であり、天性であり、才能でありますから、国民の声を聞き、内政は上に忖度しながら、外交はアメリカの命令を聞いて、それぞれ着実に実行いたします。パンダに学びながら、いけしゃあしゃと麗々しく総選挙にチャレンジいたします。

Thursday, October 07, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(187)宗教冒涜表現に関する研究

村上玲「欧州人権裁判所判例における宗教を冒涜する表現に関する考察」『淑徳大学大学院研究紀要』26(2019)

欧州人権裁判所における宗教的ヘイト・スピーチに関する研究が、既に存在していた。著者は淑徳大学コミュニティ政策学部助教の村上玲。以前、「阪大法学」にイギリスにおける宗教的ヘイト・スピーチに関連する論文を書いていた。それもまだ読んでいないので、これから読まなくてはいけない。

本論文で、村上は欧州人権裁判所の宗教冒涜に関連する判例を5つ取り上げて分析している。

    Otto-Preminger-Institute v. Austira事件(1994)

    Wingrove v. UK事件(1996)

    I.A. v. Turkey事件(2005)

    Giniewski v. France事件(2006)

    Klein v. Slovakia事件(2006)

これらの分析を通じて、村上は、欧州人権裁判所判例における宗教冒涜表現に関連して、表現の自由の判断枠組みが深化してきたことを示す。

判例は表現の自由の制約するために必要な3つの要件として、特に「制約が民主社会にとって必要であること」を重視し、より子細に検討するようになってきたという。初期の判決以後、一貫して、①表現の自由は民主社会の本質的基礎の一つであること、②好意的な表現だけでなく、衝撃や攻撃となる表現にも表現の自由が保障されること、③民主社会における多元主義、寛容さ、寛大さが必要であること、④しかし、自由と権利の行使には「義務と責任」が伴うこと(信徒の宗教感情や他者の権利を侵害する表現を、可能な限り避ける義務)、⑤この問題について欧州に統一的な概念が存在しないので、加盟国には広い評価の余地が残されているとしつつ、欧州人権裁判所は、「民主社会にとって必要であること」の要件をさらに細分化して議論するようになってきたという。

村上論文は、5つの判例分析を通じて、欧州人権裁判所の判断枠組みの深化を抽出している。分かりやすく、説得力がある。

村上論文は2019年発表だが、論文に含まれている情報は2007年以前のものである。その後の欧州人権裁判所には関連する動きがないのだろうか。

私は欧州人権裁判所については研究してこなかった。最近、若干の資料を紹介したにとどまる。

ファクトシート:ヘイト・スピーチ(欧州人権裁判所)(1)

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/09/blog-post.html

また、ヘイト・スピーチについては特に人種・民族ヘイト・スピーチを重視して研究してきたため、宗教的ヘイト・スピーチについては研究できていない。

預言者ムハンマドの風刺画と宗教的ヘイト・スピーチ

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/10/blog-post_40.html

Tuesday, October 05, 2021

預言者ムハンマドの風刺画と宗教的ヘイト・スピーチ

103日、犬の体をしたイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を描き、命を狙われていたスウェーデンの画家ラルス・ビルクスが、交通事故に巻き込まれて死亡した。

ビルクスは何度も命を狙われてきたため、警察の保護対象であり、同乗していた警察官2人も死亡した。走行中にタイヤが破裂した可能性があるという。

いくつかのニュースを見たが、最初は単なる交通事故と報じていたのが、やがてタイヤの破裂が判明したようだ。

また、ニュースではヘイト・スピーチについて不正確な情報が流されている。

1に、日本ではヘイト・スピーチが犯罪とされていない、許されているので、それを前提とした解説をする評論家がいる。しかし、欧州ではヘイト・スピーチは犯罪と見るのが普通であり(EU加盟国はすべて犯罪としている)、スウェーデンも一定のヘイト・スピーチを犯罪としている。

2に、ヘイト・スピーチの中でも宗教に関連する場合をどう理解するか。宗教的ヘイト・スピーチを犯罪とするかどうかである。ニュースでは、マクロン大統領の「宗教批判の自由がある」という発言を紹介して、宗教批判はヘイト・スピーチに当たらないという解説をしている。

しかし、欧州諸国の中には宗教的ヘイト・スピーチを処罰する例がある。フランス刑法でも宗教的動機によるヘイト・スピーチを犯罪としている。マクロン大統領の発言は、たしかにそう述べたのだろうが、「ヘイト・スピーチに当たらない限り、宗教批判の自由がある」という意味のはずだ。そうでないと、理解できない。

フランスについては私も誤解していた。シャルリ・エブド事件の時、最初、私はフランス刑法では宗教的ヘイト・スピーチを処罰しないと思い込んでいた。後に訂正した。

スウェーデンについて私は十分な情報を持っていないので、ここでは断定的なことを言えない。なお、欧州人権裁判所も宗教的ヘイト・スピーチの処罰を肯定している。

宗教的ヘイト・スピーチについては、フランスやイギリスについて憲法学者による論文が書かれているが、総合的研究はこれまで行われていないと思う。今後研究が重要だ。

 

シャルリ・エブド事件の時の私の誤解は、下記。

宗教的ヘイト・スピーチ(1)

https://maeda-akira.blogspot.com/2015/01/blog-post_13.html

宗教的ヘイト・スピーチ(2)

https://maeda-akira.blogspot.com/2015/01/blog-post_87.html

宗教的ヘイト・スピーチ(3)

https://maeda-akira.blogspot.com/2015/01/blog-post_14.html

 

また、宗教的ヘイト・スピーチに関する欧州人権裁判所の判決については、

ファクトシート:ヘイト・スピーチ(欧州人権裁判所)(5)

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/09/blog-post_6.html

自壊しつつある国と社会の点検

青木理・安田浩一『この国を覆う憎悪と嘲笑の濁流の正体』(講談社+α新書)

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000352460

いま一番信頼できるジャーナリストの対談である。共同通信記者出身の青木と、週刊誌記者出身の安田。社会部出身で警察、司法に強い青木は、外信部にもいてソウル特派員も経験。いまは政治・社会に幅広く発言している。ヘイト・スピーチや外国人に対する差別問題の第一人者の安田は右翼取材も手がけてきた。この2人が、「ネットに吹き荒れる誹謗中傷、国民を見殺しにする政府や権力者、強気を助け、弱気を挫くメディアの病巣、日本の歪な現実の病巣」を抉る。

まえがき 切り捨ての時代を招いたもの

第一章 対韓感情悪化の源流とそれをもたらした日本社会の構造的変化

第二章 友好から対立へ 日韓それぞれの事情

第三章 恫喝と狡猾の政治が生む嫌な空気

第四章 社会を蝕む憎悪の病理 ヘイトクライムを生む確信犯的無責任と無知

かつて世界で第2位の経済力を誇った日本だが、バブルがはじけ、1990年代の「失われた10年」に始まり「失われた20年」を経て、経済成長が止まったまま、ついに経済競争力は世界で30位と言われるようになった。世界で稀に見る極度な高齢化社会となり、高度経済成長時代に整備した社会資本にも限界が来た。傾向的低下がとどまらない。

それだけに自己認識が分裂し、傲慢と嫉妬のナショナリズムに走る。ヘイトと排外主義、周辺諸国に対する羨望と蔑視、外国人に対する排斥と差別が、文字通り濁流となって社会のど真ん中を覆っている。線状降水帯的な自画自賛と、集中豪雨的な他者蔑視。論理も倫理も失われた憎悪の社会が形成されてきた。

青木と安田は「日本社会の構造的変化」を指摘し、特に日韓関係にそれが顕著に表出されていると見る。社会だけでなく、政治も恫喝と狡猾、隠蔽と改竄、腐敗が根深く、どこまでも転落していく様を確認する。

この国の病理は深刻だが、矛盾から逃げずに、いかに生きるべきなのか。ジャーナリストとして2人はこれからも疾走し続けるのだろう。

Sunday, October 03, 2021

非国民がやってきた! 003

三浦綾子『続・氷点(上下)』(角川文庫) 

大ベストセラー『氷点』(1965)の続編である。三浦綾子は、その後『ひつじが丘』『積木の箱』『塩狩峠』『道ありき』『裁きの家』を続々と送り出し、『続・氷点』(1971)に至っている。どれも読んでいない。三浦綾子の代表作をいくつか読もうと思うが、長編小説だけでも『雨はあした晴れるだろう』(1998年)まで夥しいので、ごく一部しか読めない。というわけで、『続・氷点』である。

陽子の自殺未遂で幕を閉じた前編では人間の原罪が主題だった。続編も同じ人物群が中心だ。父親啓造、母親夏枝、息子の徹、娘の陽子、医師の村井など。続編では陽子の実母である恵子、その息子・達哉らが加わる。旭川と札幌を中心に北海道という場も同じである。京都・南禅寺にも出かけるが、サロベツ原野や北海道大学キャンパスや支笏湖など、北海道という舞台を駆使する。主題は赦しである。前編と続編を通じて全体テーマは愛と罪と赦しということになる。

稚内でのエピソードとともにサハリン(樺太)が出て来る。樺太が出て来る小説は珍しいのではないだろうか。1945年まで樺太は日本領だった。千島樺太交換条約で千島が日本、樺太がロシアとなったものの、その後の歴史過程で南樺太が日本領となった。第二次大戦終了後に、ソ連軍が千島に攻め込んで、現在の北方領土問題となっているが、何処からどう見ても奇妙な話だ。千島列島全体を日本領土と主張する声はほとんどない。なぜか南千島を「北方領土」と呼び換えて領土主張をしているが、北千島や中千島と切り離す合理性がない。また樺太については領土主張をしていない。北海道でも、千島の択捉・国後出身者による「北方領土返還運動」は続くが、樺太については聞いたことがない。

私は札幌郊外の生まれ育ちだ。子どもの頃、近所に2カ所、樺太からの引揚者住宅があり、そこの子どもが遊び仲間だった。特に2人は小学校の同級生で親しかった。周囲は一戸建ての住宅地に、2カ所だけ引揚者住宅の貧しい長屋があり、真ん中には小さな広場と井戸があった。子どもの頃、樺太からの引揚者住宅とは何か、その意味を知らなかった。1か所は中学生の頃に、1970年までに、長屋がなくなった。

もう1か所がいつなくなったかはわからない。私は1974年に東京に出た。1990年に帰省した時、すでに長屋はなくなり、大きなマンションが建っていた。一戸建て住宅地に1カ所だけマンションビルになっていたのを記憶している。

『続・氷点』(1971)の頃、北海道各地に樺太からの引揚者住宅があったのだろう。樺太からの引揚者がどのくらい、どこに住んでいたのか知らない。彼らの歴史も現在も知らない。

樺太が私の視野に入ってきたのは1990年代、サハリン残留韓国人問題が浮上した時だ。1つは、残留問題だ。日韓併合で韓国人に日本国籍を押し付けて、サハリンに強制連行しておきながら、戦後、日本国籍を剥奪した。日本人だけが帰国し、韓国人を現地に棄ててきた。日本人でないからだ。もう1つは、虐殺事件だ。正確なことは知らないが、敷香などで帰国を訴える韓国人を殺して、日本人だけが逃げた話があったようだ。

近現代日本史に樺太はほとんど登場しない。これも奇妙な話だ。日本文学でも樺太は忘れられているのではないだろうか。『続・氷点』にも小さなエピソードとして少し登場するだけで、主題となっているわけではないが、三浦綾子は樺太問題を知っていたのだろう。

非国民がやってきた! 001

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/07/blog-post_11.html

非国民がやってきた! 002

https://maeda-akira.blogspot.com/2021/09/blog-post_76.html

Friday, October 01, 2021

キシリトール政権語録01 アマリモノの福笑い

ジミン新総裁は大方の予想通り、キッシーの勝利に終わった。予想外だったのは、1回目投票でキッシーが1票差とはいえトップに立ったことと、サナエが多くの票をさらったことであり、「ブロック本部長」ことワクチンタローの惨敗であった。

キッシーはまずジミンの党役職を選任した。アホのアッソー副総裁、アマリモノ幹事長、サナエ政務調査会長、フックン総務会長、ブチユーコ組織運動本部長、ワクチンタロー広報本部長など。要職はアホのアッソーとアクムのシンゾーの配下が占めることとなり、論功行賞だとか、3A人事だとか、忖度人事だとか、八方美人人事だとか、真空人事だとか、さまざまな論評がなされた。内閣官房長官にも、最初はバキュームハギューダを予定したものの、あまりに露骨との批判を受けて、プッツンマックンになる見込みである。

 

*********************************

 

 え~この度、ジミン幹事長を仰せつかったアマリモノでございます。ホーソーダ派でありながら、キッシー候補の選対部長として大活躍しましたので、当然の功労人事でありまして、ありがたく堂々と拝命することにいたしました。何より、キッシー総裁とアホのアッソー副総裁とアクムのシンゾー前総裁を繋ぐ忖度の赤い糸をしっかりと結びつけたのがわたくしでございます。アマリモノに福と昔から言うじゃありませんか。ハッ、ハッ。

メディアでもジミン内部でも「論功行賞だ」などと低レベルな妬みの声があがっていますが、論功行賞こそ人事の王道であり、わがジミンの伝統であります。何もしない輩に限って「論功行賞はけしからん」などと頓珍漢な嫉妬発言に陥るのであります。

一部メディアでは「真空人事」などと意味不明の非難をしておりますが、とんでもございません。党人事も閣僚人事も、キッシー新総裁の指導と采配の下、アホのアッソー副総裁とアクムのシンゾー前総裁の思し召しのまま、すべて完璧に忖度した「3密人事」であります。3Aならぬ3密です。時節外れにモリカケサクラの3点セットなどと壊れた蓄音機ががなりたてていますが、もちろんすべて闇の彼方の空遠くです。再調査など言語道断。人の道に外れた愚策を弄する人物はジミンから出て行ってもらいます。ハッ、ハッ。

えっ、お前の不祥事はどうしたですって? いい加減なことを言わないでもらいたいものです。わたくしは不祥事など、これっぽっちも、露一つもございません。ちょっと大臣室で現金授受を行っただけです。何か問題ありますか。こそこそ口座払い込みなどせずに、堂々と現金授受。株券や裏証文ではなく堂々と現金授受です。何も後ろ暗いところはございません。私はちゃっかり席を外したことにしていますから、何も問題ありません。責任は全て秘書が被ることになっています。これがジミンの基本のキ、美しい伝統です。ジミンミンゼミの秘書になるということは、全責任を負って議員を守るということです。もちろん、その後の人生は最後まで支援しますよ。後顧に憂いなく、場合によっては命に代えてでもボスの地位を守るのが有能な秘書の仕事です。不祥事だらけのブチユーコも組織運動本部長として活躍することになりました。キッシー新総裁のもと、心機一転、従来通りのリケン政治をしっかりと推進していく所存です。エダーノのリケンミンシュだって、リケン、リケンと吠えているじゃありませんか。わがジミンもリケンでは負けません。

説明責任? 何をおっしゃる。説明責任などという言葉は日本国憲法のどこにも書かれておりません。ジミン綱領にも説明責任などという言葉は見当たらないのであります。わたくしは日本国憲法とジミン綱領に従って、何一つ恥じることなく、政治家としての本分、職責を果たしてまいりました。これからも説明すべきは説明し、隠すべきはしっかり隠し、改竄すべきは徹底改竄して、この国の民主主義を守る所存です。

わがジミンは自由と民主主義を柱とする政党であり、国民の負託に応える責務があります。表現の自由、学問の自由、学術会議任命拒否の自由、営業の自由、資本の自由、賄賂の自由、改竄の自由、解雇の自由、増税の自由を基調として、美しい国をつくっていくのがキッシー新総裁のお約束です。

今やスガーリンも過去の人です。キッシー新総裁はパンケーキなど口にすることなく、新型コロナ緊急宣言解除のおかげで堂々と料亭にこもって酒色にふけることができます。料亭政治こそジミンのお家芸ですから、徐々に本領発揮といきたいものです。ハッ、ハッ。