Thursday, March 20, 2014

大江健三郎を読み直す(12)半世紀に及ぶ文学的主題としての反核

大江健三郎『ヒロシマ・ノート』(岩波新書、1965年)                                                                                                    「広島への最初の旅」以後、1963~64年の数回の広島訪問と取材の成果を雑誌『世界』に発表し、新書にまとめたのが1965年6月である。大江が20代最後の日々のルポである。2012年に書店で入手した版は88刷である。加筆も修正も加えられることなく、まもなく半世紀を迎える秀逸のルポである。                                                                                                              私が読んだのは、『沖縄ノート』よりも後だったはずだが、よく覚えていない。大学生になってからかもしれない。覚えているのは、第九回原水爆禁止世界大会の混乱と分裂状態が報告されていて十分に理解できず、読み進めるのに困難を感じたことだ。広島・長崎の悲劇を世界に告発し、被爆者たちの「悲惨と威厳」を伝え、核兵器の残億差を訴え、平和を希求するのに、原水爆禁止世界大会の混乱や分裂を書いて、どういう意味があるのかよくわからなかった。                                                                                             しかし、最後まで読み終えると、すーっとよく理解できる。胸に落ちるということだろうか。人間のいのちと暮らしを守るための、被爆者や医師たちの懸命の闘いにもかかわらず、政治的な思惑に駆られて原水爆禁止世界大会を混乱させ、分裂させている政治主義を浮かび上がらせることで、大江は読者に、本当に考えるべきことはこんなことではないのだ、一人ひとりが自分の目で広島・長崎を見つめ、自分の頭で考えるべきだと伝えようとしたのだ。第九回原水爆禁止世界大会の混乱と言う一局面を報告した本書が、半世紀後にも読まれ続けるのは、人間にとって普遍的な問題を正面から取り上げることで時代と切り結んでいるからである。個別の偶然的な出来事の描写を通じて普遍性を提示する手法の教科書と言ってよい。                                                                                                                      大江は最近の講演の中で、『ヒロシマ・ノート』の時は若かったからあのような書き方をした、今なら違う書き方をしただろうという趣旨のことを述べている。冒頭から「僕」が語り出す『ヒロシマ・ノート』の主観性のことだ。「自分の最初の息子が瀕死の状態でガラスはこのなかに横たわったまま恢復のみこみみはまったくたたない始末」で、「すっかりうちのめされていた」と書き出してさえいるのだから。広島から戻って、大江は『個人的な体験』を書き上げることになるが、そうした切迫感がルポと小説の間を往還していた時期である。今ならもっと客観的に書くということは言えるかもしれないが、執筆時期の状況が大きく影響することになる。本書は主観的方法なればこその訴求力を持ったのであろう。いずれにしても、大江の文学的主題の一つがここで固まったという意味でも記念碑的作品である。