Tuesday, July 27, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(182)c アンチレイシスト入門

イブラム・X・ケンディ『アンチレイシストであるためには』(辰巳出版、2021年)

4章以下で、著者はさまざまなレイシズムとアンチレイシズムを俎上に載せて、分析していく。生物学的レイシズムと生物学的アンチレイシズム(第4章)、民族レイシズムと民族アンチレイシズム(第5章)、身体レイシストと身体アンチレイシスト(第6章)、文化レイシストと文化アンチレイシスト(第7章)、行動レイシストと行動アンチレイシスト(第8章)と、レイシズムは多様な現象形態を有する。

著者はこれらのレイシズムを理論的に提示するのではなく、自分自身の体験を通じて提示する。ある時は友人が、ある時は教師が、そしてある時は著者自身がレイシストとして登場し、レイシズムに影響された発言や行動をする。ある時は、レイシズムに気づき、レイシズムを乗り越えようと格闘するが、こちらのレイシズムからあちらのレイシズムに移行してしまう。著者の成長過程はレイシズムからレイシズムへの旅であり、逆戻りであり、試行錯誤であり、失態の連続である。

もちろん、著者は単に個人的体験を語っているのではない。1980年代にアメリカに生まれ、1990年代から2000年代にかけて成長した黒人男性が遭遇するレイシズムと、それとの葛藤を描くと同時に、個人的体験を全米の黒人男性の問題としてとらえ返し、さらに近代の奴隷制や黒人差別の歴史と照らし合わせ、現代のアメリカの政策を検証する。これによって叙述が厚みを増し、多角的な分析が可能となり、読者は一つひとつ確認しながら読み進めることができる。

「ぼくは優秀なクラスメートたちの目を通して自分を見ていた――この場にいるのがふさわしくない者だと。無視してもいいやつだと。ぼくは優秀な知性の海のただなかで、独り溺れて死にそうになっていた。/ぼくは、自分が勉強の出来が悪くて苦しんでいるのは、自分だけでなく、黒人全体の出来が悪いからだと考えていた。なぜなら、ぼくは周りの人々の目――あるいはぼくが勝手に想像していた周りの人々の目――と、自分自身の目を通して、黒人を代表していると考えていたからだ。」

カラーリズムとカラーアンチレイシスト(第9章)、反白人のレイシスト(第10章)、黒人のレイシスト(無力だからという自己弁護)(第11章)、階級レイシストとアンチレイシストの反資本主義者(第12章)、空間レイシズムと空間アンチレイシズム(13)、ジェンダーレイシズムとジェンダーアンチレイシズム(14)、クィアレイシズムとクィアアンチレイシズム(第15章)。

あらゆる差異がレイシズムを生み出す。皮膚の色もジェンダーも階級も性的マイノリティも。白人優越主義が隆盛するが、反白人のレイシストも生まれる。黒人が黒人を卑下し、見下すレイシズムも存在する。レイシズムはくみしやすい敵ではない。レイシズムは外からやってくるだけでもない。反レイシズムのつもりがレイシズムを内面化してしまっている場合もある。多様なレイシズムの生命力を軽視してはならない。アンチレイシズムは固定した使嗾ではなく、つねにレイシズムとの格闘を求められている、現在進行形の思想でなくてはならない。

「アンチレイシストであろうとする者は、レイシストと白人を混同しない。白人のなかにもアンチレイシストはいるし、有色の人々にもレイシストはいることを知っているのだから。/アンチレイシストであろうとする者は、白人をひとくくりにしない。一般的な白人は、有色人種を踏みつけにすることもあるが、頻繁にレイシズムパワーの被害を受けてもいる。」

 「レイシズムとアンチレイシズムは表裏一体なのだと認めれば、ぼくたちは自分の内面にあるレイシズム思想やレイシズムポリシーについて未整理な考えを客観視できるようになる。/たとえば、ぼくは人生の大部分で、レイシズムとアンチレイシズムの両方の考えをもち、レイシズムとアンチレイシズムの両方のポリシーを支持してきた。ある瞬間にはレイシストだったし、またある瞬間にはアンチレイシストだった。」

 第12章「資本主義とレイシズムの双子」では、階級レイシストを、階級を人種化し、そうした階級を圧迫する人種資本主義ポリシーを支持し、正当化している人と定義する。マーティン・ルーサー・キングにならって、レイシズムの問題、経済搾取の問題、戦争の問題は結びついていると見る。「世界システム」論を参照し、大航海時代が植民地主義、帝国主義の時代であり、植民地と奴隷制の中に「資本主義とレイシズム」を確認する。アンチレイシズム的反資本主義への入り口に立つ。