Monday, August 30, 2021

ヘイト・スピーチ研究文献(185)

萩原優里奈「ヘイトスピーチ規制に関するアメリカとドイツの比較法的考察」『言語・地域文化研究』第26号(2020)

目次

はじめに

第1章         アメリカのヘイトスピーチ規制

1 ヘイトスピーチ規制の合憲性をめぐる議論

2 ヘイトスピーチ規制に関する判例の動向

第2章         ドイツのヘイトスピーチ規制

1 集団侮辱罪

2 民衆扇動罪・ホロコースト否定罪

3 SNS

第3章         両国の比較

1 表現の自由の観点

2 歴史的視座

おわりに

アメリカとドイツを比較する論文で、書かれていることはそれなりに合理的で、ヘイトスピーチ規制積極説という意味では私と同じ立場なので、その点では高く評価したい。もっとも、比較法学の研究としてはいま一歩と言わざるを得ない。

1に、アメリカおよびドイツについては先行研究があり、萩原もそれらに依拠している。研究内容に新規性がなく、かなりの部分は先行研究からの孫引きである。

2に、なぜアメリカとドイツなのか、その選択の理由が説得的に提示されていない。長い間、日本憲法学は表現の自由と言えばアメリカ法ばかりを研究してきた。日本刑法学は圧倒的にドイツ刑法学の影響下にあった。この2つの偶然的理由から、ヘイト・スピーチの刑事規制となると、アメリカ法研究かドイツ法研究かに分かれる。その状況に左右されている。

両国の比較のところで、表現の自由と歴史的視座に着眼したのは的確であり、アメリカとドイツの相違だけでなく共通性にも視線を送っているのも的確である。

もっとも、歴史的アプローチの重要性を唱えながら、「日本においてこの歴史的アプローチを運用することは決して容易ではないのではないだろうか」という。自分の研究の意義を否定しかねない記述で終わってしまっている。行き着く先は最後の一文である。

「こうしたヘイトスピーチ規制制定に不可欠な基盤構築が、我が国の喫緊の課題である。」

これはない。

基盤構築論は2013年の桜庭総の研究の結論である。ならば、萩原はこれを出発点にすべきではないだろうか。基盤構築というのなら、具体的に何をどうするのか。誰が担当するのか。いつまでに基盤構築できるように目指すのか。最低限明示するべきことがあるはずだ。その検討がまったくなされていない。

もともと、表現の自由の保障とヘイト・スピーチの刑事規制を対立させて、それをアメリカ法とドイツ法に読み込むのは、日本憲法学が設定した特異な土俵である。国際的にはこのような土俵設定は一般的とは言えない。萩原はこの土俵で議論することに疑問を感じるべきではないだろうか。

というのも、萩原自身が「表現の自由と規制は決して二者択一的なものなどではない」としているからだ。この認識は正しい。これに気づいた点で、萩原のセンスは買うことができる。日本の憲法学者の多くが、表現の自由の保障とヘイト・スピーチ刑事規制を対立させ、あたかも二者択一のように論じてきたのに対して、萩原はそうではないと気付いている。ならば、ここから議論を進めるべきだろう。

私の『ヘイト・スピーチ法研究序説』はしがき冒頭に次のように書いた。

「表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを刑事規制する。それが日本国憲法の基本精神に従った正当な解釈である。国際人権法もヘイト・スピーチ規制を要請している。ヘイト・スピーチ処罰は国際社会の常識である」

私の『ヘイト・スピーチ法研究原論』はしがき冒頭の一文も全く同じである。

私はこの10年間、「表現の自由とヘイト・スピーチ刑事規制は矛盾しない。対立しない。逆である。表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを刑事規制する。ヘイト・スピーチを刑事規制しないと民主主義を守れない。表現の自由を保障できない」と主張してきた。

この考えは私のオリジナルではない。これを私は19988月の人種差別撤廃委員会で学んだ。2013年の国連のラバト行動計画でも2019年の国連人権特別報告者共同声明でも、同じことが言われている。日本の憲法学者からは無視されているが、国際人権法の世界では当たり前となっている言葉だ。

萩原の前の論文は私の『序説』を引用しているのに、最重要点に言及がないのは残念だ。出発点をきちんと探して、そこに立つ必要があるのではないか。