Wednesday, July 14, 2010

袴田事件(2)

法の廃墟34

映画『BOX』が提起するもの

袴田事件の深層

 映画『BOX――袴田事件 命とは』(二〇一〇年、監督・高橋伴明)は、死刑冤罪・袴田事件を、無実の罪で死刑囚とされた袴田巌の側だけではなく、無実と思いながらも心ならず死刑判決を書かなければならなかった裁判官・熊本典道の側の視点を重ね合わせて、刑事裁判の「闇」を見事に描き出している。高橋伴明監督は、三菱銀行人質事件を題材とした『TATOO<刺青>あり』以来、一般映画を撮り始め、『光の雨』『禅ZEN』『丘を越えて』を送り出してきた。裁判官・熊本典道を演じたのは、『月はどっちに出ている』『マークスの山』『カオス』『光の雨』『樹の海』『力道山』『旅立ち――足寄より』『鑑識・米沢守の事件簿』の萩原聖人。死刑囚・袴田巌を演じたのは、『GO』『青い春』『血と骨』『ゲルマニウムの夜』『松ケ根乱射事件』『蟹工船』『ヴィヨン妻』『クヒオ大佐』『蘇りの血』の新井浩文。いずれも秀逸な役者であり、できばえは素晴らしい。他にも、石橋凌、岸部一徳、葉月里緒奈、塩見三省、保阪尚希、雛形あきこなどが出演している。

 映画は、袴田巌と熊本典道が同年の生まれとし(事実は異なるが)、まったく異なる境遇の二人の人生を意外な形で交錯させる。一方はアマチュアからプロボクシングへの道を進み、期待されながらも挫折し、静岡県清水市の味噌工場で働くことになり、他方は司法試験に合格し将来を嘱望された裁判官となり静岡地方裁判所に赴任した。袴田巌は、味噌工場専務宅の強盗放火殺人事件で被告人とされた。理由は、従業員の中で巌だけが遠州生まれのよそ者だったこと、元プロボクサーであったことだ。巌を犯行と結びつけるような証拠は実際はなかった。強引な身柄拘束と拷問による自白強要が続き、巌はついに自白調書を作られる。公判で犯行を否認する巌に驚いた熊本判事は、供述調書を精査し、供述の異様な変遷に疑問を抱く。さらに、取調べ時間の異常な長さにも驚く。強引に自白を強要した様子が想像できる。ところが、犯行から一年余り経過した時期に、突如として味噌工場の樽から血染めの犯行着衣が発見され、検察官は犯行着衣を当初のパジャマから変更した。だが、新証拠には数々の疑念があった。熊本判事は、自白調書も新証拠も巌の犯罪立証にはつながらず、それどころか警察による不可解な作為の産物であることを見抜く。

 だが、地方裁判所の裁判体は三人の裁判官による合議だ。他の二人の裁判官は有罪を主張する。熊本の必死の説得にもかかわらず、多数決で判決は死刑と決まる。しかも、判決は主任判事が書く慣例になっている。ただ一人有罪に反対した熊本が死刑判決を書かなければならない。映画は、無実と確信しながら死刑判決を書かねばならなかった熊本の苦悩を描く。捜査批判を展開した「付言」を盛り込むのが精一杯の抵抗であった。判決後、熊本は裁判官を辞職し弁護士となり、大学で刑事訴訟法の講義も担当した。その間、巌の無罪を立証する証拠を作成して、弁護団に送り届けた。しかし、東京高裁でも最高裁でも死刑判決は覆ることなく、巌の死刑が確定した。

 二つの地獄か

 弁護士となり一時は羽振りを利かせた熊本だが、その後の人生は転落の一途だったという。自殺未遂、放浪、家庭の崩壊。見る影もない人生を歩み、妻や子どもたちも「被害者」となった。だが、二〇〇七年二月、紆余曲折を経て、熊本は、自分が無罪と確信しながら死刑判決を書かねばならなかった事実を公表した。世間に衝撃が、刑事司法に亀裂が走った。合議の秘密をあえて侵してでも真実を語り、無実の死刑囚を救おうという熊本の闘いが始まった(山平重樹『裁かれるのは我なり――袴田事件主任裁判官三十九年目の真実』双葉社、二〇一〇年)。

獄中の巌、再審請求に力を尽くしてきた姉と救う会の人々、そして袴田弁護団は、熊本証言の新局面のもとに再審の扉をこじ開けるために奮闘した。ところが、二〇〇八年三月、最高裁は第一次再審請求を棄却してしまった。熊本の口を封じようとするかのように。現在、第二次再審請求審が進行中である。獄中の巌は七三歳。拘禁症状のため精神状態に困難を抱えている。

熊本も平穏ではいられない。合議の秘密を破ったことへの社会的指弾を受け止め、自らをさらし者にしてでも闘い続ける。長い転落の人生から立ち直るのも容易ではない。一方では、熊本証言を「美談」にしようとするジャーナリストがいる。熊本は自分の話を「美談」にするなと述べる。それでも「美談」であることに違いはない。では、いかなる真実がそこにあるのか(緒方誠規『美談の男――冤罪・袴田事件を裁いた元主任判事・熊本典道の秘密』鉄人社、二〇一〇年)。

ある映画評は、無実の罪で獄中に捕らわれている巌の「地獄」と、心ならずも死刑判決を書かされ生涯苦悩に追い込まれた熊本の「地獄」を「二つの地獄」と評している。映画もそのように描いているといってよい。しかし、この評価には疑問がある。なぜなら、巌と違って、熊本判事には他に選択の余地があった。「無責任な死刑判決を書くよりも、裁判官を辞するという選択肢があった」のだ(本連載12「砕かれた『神話』――袴田事件」本紙二〇〇七年四月)。裁判官を辞職しても弁護士になることができる。現に熊本は死刑判決を書いた後に辞職して弁護士・大学講師になった。熊本が「法と良心」に忠実であったならば、死刑判決を書く前に裁判官を辞するべきであった。そうすれば自身、四〇年も苦悩し家庭を崩壊させることにもならなかったのではないか。「二つの地獄」を対比するのは適切でない。

それでは巌はどうだろうか。熊本が辞職した場合に、巌の一審判決がどうなったかはわからない。他の二人が死刑意見だったのだから、合議体を編成し直したとしても死刑が待っていたかもしれない。

しかし、再審請求についてみるなら「付言」の有無が一つの問題になる。熊本付言は厳しい捜査批判を展開しているため、一審合議体が死刑対無罪に割れたであろうことが想像できた。だが、同時に、熊本付言があるがゆえに(熊本の意に反して)「慎重審理の結果として死刑が選択された」と言うことが可能となっている。付言を上級審が読めば真実を見抜いてくれるはずだという熊本の主張には説得力がない。一審で三人のうち二人が真実を見抜くことができない事実を眼にしながら、上級審に期待したというのは世間知らずでしかないだろう。付言は、熊本の甘い期待に反して、事態を悪化させたと見るべきかもしれない。

ラストシーンで、一面の銀世界の中、それでも真実を追い求め、自分を求めて歩む熊本の後ろに、「うしろのしょうめんだあれ」の歌声に呼び寄せられたように、巌の幻影が姿を現す。ファイティングポーズで向き合う熊本と巌――繰り出される巌のパンチ。そして巌の「BOX」の一言。真っ白な世界をどこまでも走り続ける二人・・・。映画が問いかける、二人の、真実――誰もが、そう、誰もが願っている。

袴田事件(1)

無罪!07-04法の廃墟(12)

砕かれた「神話」――袴田事件

無罪心証で死刑判決

 三月二日の日刊スポーツ(ウェブサイト)は、袴田事件・死刑再審請求審に関して、「袴田事件、元判事『無罪の心証だった』」との見出しで、次のような事実を報道した。

 「静岡県で一九六六年に一家四人を殺害したとして死刑が確定した袴田巌死刑囚(七〇)が再審を求めている『袴田事件』で、一九六八年の静岡地裁の一審で死刑判決を書いた当時の裁判官が『無罪の心証を持っていたが合議の多数決で敗れた』と告白していたことが分かった。袴田死刑囚の支援団体(静岡市)が二日、公表した。/裁判官は合議体で行う裁判の議論内容などを漏らしてはならないという『評議の秘密』が裁判所法で規定されており、こうした告白は極めて異例。/支援団体によると、元裁判官は九州在住の熊本典道さん(六九)。六六年の第二回公判から、合議の裁判官三人のうちの一人として主任裁判官を務めた。/熊本さんは自白や証拠などに『合理的な疑いが残る』として合議の前に無罪の判決文を書いていたが、裁判長ら二人は有罪を主張。多数決で死刑判決が決まり、熊本さんが死刑判決を書いたという。/昨年末、熊本さんからメールが団体に寄せられ、メンバーが三回にわたり面会。うち一回に同行した袴田死刑囚の姉秀子さん(七四)に対し、熊本さんは『力が及ばず、申し訳なかった』と涙を流して謝罪した。/熊本さんは『私と袴田君の年齢を考えると、この時期に述べておかなければならない』とし、支援活動への協力を申し出ている。/袴田死刑囚は六六年に静岡県清水市(現静岡市清水区)でみそ製造会社の専務一家四人を殺害したなどとして八〇年に最高裁で強盗殺人罪などで死刑が確定したが、冤罪を訴えて再審請求を続け、最高裁に特別抗告中。」

 つまり、熊本元判事補は、袴田事件の主任裁判官として無罪の判決文を準備していたが、裁判長など二人の判事の多数意見によって二対一の多数決で有罪と決まったため、死刑判決を書いた。自分では無罪と思いながら有罪判決を書いた。しかも、それが死刑判決だというから驚きである。

 いったん起訴されたら、無実の人間が無罪を獲得するのが非常に困難な有罪率九九・九%の日本の刑事裁判では、裁判官も右から左へ有罪判決を乱発しているのではないかとの「疑い」はずっと指摘され続けてきた。とはいえ、それは外部からの「疑い」の指摘であって、いやしくも裁判官たる者、有罪の確信を持って初めて有罪判決を書いているのだという建前は揺らぐことがなかった。しかし、熊本証言は「神話」を打ち砕いた。「無罪と思いつつ死刑判決を書いた」と本人が言っているのだ。とんでもない裁判官もいたものである。問題は、これが熊本元判事補だけなのかというところにある。裁判所は認めないであろうが、ますます「疑い」が強まる。

再審請求審への影響

 十亀弘史は、熊本元判事補がテレビ朝日「報道ステーション」に登場して「あの事件は無罪だった」と語ったことについて、「四〇年後であるにしろ元裁判官が冤罪事件について自己の誤りを告白するというのは希有な事態であり、それとして勇気を要したであろうことは十分に想像できます。しかし、その四〇年の間に袴田巌さんその人が蒙った、また今も蒙り続けているいいようのない惨苦を思うと、どうしても、当の四〇年前の時点で熊本判事補にもっと何かができなかったのか、と思わずにいられません」と述べる(本誌第二三号)。

 もちろん、できることはあった。無責任な死刑判決を書くよりも、裁判官を辞するという選択肢があった。熊本判事補は、その決断ができなかったが、死刑判決を下した後に苦悩を抱えつつ辞職したという。

 熊本元判事補は「これからは袴田さんの再審活動を共に進める」という。他に誰も知らず、沈黙を守り通すことができたのに、あえて自らの誤りを公表し、あらゆる非難を覚悟で袴田再審に協力しようという勇気ある姿勢には、敬意を表したい。

 問題は熊本証言が再審請求審に与える影響をどのように見るかである。言うまでもなく、第一の可能性は、熊本証言を再審請求事由に組み入れることであり、再審弁護団が十分に検討しているであろう。死刑判決の有罪認定に至る心証形成過程を再検討する必要がある。

 しかし、逆の可能性が懸念される。熊本証言を受け容れることは、無罪心証にもかかわらず死刑判決を書いた裁判官が実在したことを認めることである。このような「ありえない事態」を一つ認めてしまえば、刑事裁判に対する社会的信頼が喪われてしまう。他の裁判でも・・・との疑いが続くことになる。このようなことを現職裁判官が正面から認めることができるだろうか。

 免田・財田川・松山・島田死刑再審四事件は、いずれも三〇年という長期にわたる凄絶な闘いを経て、ようやく再審請求事由の存在を裁判官に認めさせ、それによって原判決の事実誤認を認めさせ、無罪判決を勝ち取った。原判決の誤りが正されたが、あくまでも新証拠による事実認定の変化という事態であった。袴田事件における熊本証言の衝撃は、質が異なる。刑事裁判官のプライド(アイデンティティ)そのものへの衝撃となりかねない。「精密司法」と称して優秀さを誇ってきた日本刑事司法の担い手にとって、あくまでも認めがたい事実である。

 熊本証言の衝撃を抑え込む方法はいくつもありうる。第一に、今になって再審請求のためにこのような証言をしているが、四〇年前に果たしてそのような事実が本当にあったのか疑念を付すことである。第二に、熊本証言が真実であったとしても、他の二裁判官は有罪心証で死刑判決に関与したのだから、事実認定には何ら問題がないと判定することである。熊本元判事補が特異な人物であったかのように描き出せれば、なおよい。

 再審請求審担当判事にとって、熊本証言を正面から受け容れることは多大な心理的困難を伴う。さらに、熊本証言を除外して客観的証拠による再審開始事由があったとしても、再審開始を認めてしまえば、世間は熊本証言によるものと推測するであろう。熊本証言の衝撃は、裁判官に、いかなる事由であれ袴田事件の再審を認めてはならないという決断を惹起しかねない。こうした懸念を踏まえて、再審請求弁護団と支援者の闘いをいっそう強化しなければならないだろう。

ぐろーばる・みゅ~じっく(16)いぢょんみ



李 政美さんの「わたしはうたう」(1997年)です。
「わたしはうたう」「京成線」「ありのままの私」「ひでり」「星とたんぽぽ」「わたしと小鳥とすずと」「遠い道」「せつなさのむこう」「セノヤ」「満月の夜」「子守唄」「祈り」「おてんとうさまりがとう」が収録されています。
もっと新しい「オギヤディヤ」をお勧めしようと思っていたのですが、なぜか手元にありません。

Saturday, July 10, 2010

ぐろーばる・みゅ~じっく(15)ちぇそんえ


CHOI Sun-ae Lois, Piano, my Identity, 2009.
崔 善愛さんの、2009年5月録音のアルバムです。
グリーグのアリエッタ、ブラームスの間奏曲、シューマンのトロイメライ、ショパンの幻想即興曲、ベートーヴェンの悲愴第2楽章と第3楽章、モーツアルトのトルコ行進曲など。 
2007年夏のピースボートで、ノルウェーのソグネ・フィヨルドで「白夜のコンサート」を行なった思い出に始まって、ノルウェーの「北欧のショパン」グリーグのアリエッタ以下の解説が、ご本人によって記されています。
ルポライターの鎌田慧さん、ジャーナリストの本田雅和さんのエッセイもついています。

Thursday, July 08, 2010

堀越事件東京高裁判決

法の廃墟

堀越事件東京高裁判決

逆転無罪判決

三月二九日、東京高裁は、日本共産党機関紙を配ったとして国家公務員法違反の罪に問われた被告人(元社会保険庁職員堀越明男)を逆転無罪とする判決を言い渡した。判決要旨は次のように述べている(便宜上、段落ごとに番号を付して紹介する)。

①表現の自由は民主主義国家の政治的基盤を支えるものであり、公務員の政治的中立性を損なう恐れのある政治的行為の禁止は、範囲や方法が合理的で必要やむを得ない程度にとどまる限り、憲法が許容する。規制目的は国民の信頼確保にあり、判断するのに最重要なのは国民の法意識であり、時代や政治、社会の変動によって変容する。

②罰則規定を合憲とした猿払事件最高裁大法廷判決当時は国際的に冷戦下にあり、国民も戦前からの意識を引きずり、「官」を「民」より上にとらえていたが、その後大きく変化した。勤務時間外の政治的行為の禁止も、滅私奉公的な勤務が求められていた時代とは異なり、現代では職務とは無関係という評価につながる。ただし集団的、組織的な場合は別論である。

具体的に検討すると、本件は地方出先機関の社会保険事務所勤務の厚生労働事務官で、職務内容・権限は年金相談のデータに基づき回答するという裁量の余地のないもので、休日に職場を離れた自宅周辺で公務員であることを明らかにせず、無言で、郵便受けに政党の機関紙などを配布したにとどまる。

④被告人の行為を目撃した国民が、国家公務員による政治的行為だと認識する可能性はなかった。発行や編集などに比べ、政治的偏向が明らかに認められるものではなく、配布行為が集団的に行われた形跡もなく、被告人単独の判断による単発行為だった。

⑤このような行為を、罰則規定の合憲性を基礎付ける前提となる保護法益との関係でみると、国民は被告人の地位や職務権限、単発行為性を冷静に受け止めると考えられるから、行政の中立的運営、国民の信頼という保護法益が損なわれる抽象的危険性を肯定することは困難である。被告人が公務員だったと知っても、国民が行政全体の中立性に疑問を抱くとは考え難い。

 ⑥本件配布行為への罰則適用は、国家公務員の政治活動の自由に対する必要やむを得ない限度を超えた制約を加え、処罰の対象とするものであり、憲法違反との判断を免れず、被告人は無罪である。

判決には次のような付言がついている。

⑦国家公務員に対する政治的行為の禁止は一部とはいえ、過度に広範に過ぎる部分があり、憲法上問題がある。政治的行為の禁止は、法体系全体から見た場合、さまざまな矛盾がある。

⑧時代の進展、社会的状況の変革の中で、国民の法意識も変容し、表現の自由の重要性に対する認識は深まっており、公務員の政治的行為についても、組織的なものや、ほかの違反行為を伴うものを除けば、表現の自由の発現として、相当程度許容的になってきているように思われる。

⑨また、グローバル化が進む中で、世界標準という視点からもあらためてこの問題は考えられるべきだろう。公務員制度改革が論議され、他方、争議権付与も政治課題とされている中、公務員の政治的行為も、さまざまな視点から刑事罰の対象とすることの当否、範囲などを含め、再検討されるべき時代が到来している。

法解釈の歪み

国公法による「政治」的行為処罰には、憲法学、労働法学、刑事法学のいずれの分野からも厳しい批判があり、猿払事件最高裁判決は集中非難を浴び、判例としての価値にも疑問が付されてきた。本件以前、長期間にわたって検察も同種行為を立件することができなかった。判例としての意義はほとんど失われていた。流れが定着しようとしていたのを、本件訴追によって逆流を謀り、東京地裁が漫然と有罪判決を書いたことによって、時代錯誤の最高裁判決がよみがえることになった。

その意味では、東京高裁判決は画期的な無罪判決である。先例を前に思考停止することなく、果断に無罪判決を言い渡したことを高く評価したい。何よりも、裁判闘争を見事に闘い抜いた被告人と弁護団に敬意を表したい。その上で本判決の法解釈には、方法論的に看過できない問題点があることを指摘し、検討を加えておきたい。

第一に、付言⑦の認識が本当にあるのならば、適用違憲ではなく罰則自体の違憲を選択すべきであった(最高裁判決があるため難しかったのだろうが)。市民的権利と「政治」的権利の憲法論的考察が不十分である。

第二に、①以下で展開されている「国民の法意識」論では、憲法にも国公法にも書かれていない要件である「国民の法意識」を、保護法益論を媒介として法解釈に取り込んでいる。刑法解釈における国民の法意識論、国民性論、一般人標準説などは、いずれも立法者意思の確認もなく、法意識や国民性の科学的認識もなく、何らの論証抜きに、裁判所が恣意的に認定してきた。ごまかしのマジックワードにすぎない。

第三に、②の「法意識変容」論も恣意的認定でしかなく、その都度、裁判所が任意に判断してきた。憲法よりも「国民の法意識」を上に置き、「国民の法意識」を裁判所が恣意的に決める。

第四に、②で「集団的、組織的な場合は別論」としているが、これも憲法にも国公法にも書かれていない要件を、保護法益論を口実に盛り込んでいる。その判断が論理的に行われる可能性は皆無であろう。憲法によって保障された表現の自由を、単独なら違法性がないとしながら、集団なら違法とする恣意的解釈である。

第五に、逆に言えば、国民主権と議会制民主主義のもとでは、刑罰法規の合憲性が「国民の法意識」に裏打ちされるべきは当然のことである。国公法の場合にだけ「国民の法意識」を持ち出すのは欺瞞でしかない。「国民の法意識」を誰がどのように判断すべきなのか。

第六に、⑨では「国民の法意識」に依拠せずに裁判所の判断がストレートに述べられているが、矛盾である。

全体として言えば、もともと最高裁判決が捩れていたのを正すのではなく、「いっそのこともっと捻じ曲げれば正しい結論を導き出せる」という方法論に基づいている。この国の裁判の理論水準をよく体現していると言うべきだろうか。

ヘイト・クライム(15)

無罪!10-02

法の廃墟(32)

ヘイト・クライムの現在(二)

警察に守られて

 「在日特権を許さない会(在特会)」と称する犯罪集団が各地で暴力事件を惹き起こしている。今年になってからも、一月一三日、西宮市で日本軍性奴隷制の解決を求める水曜デモに対して襲撃し、器物損壊や傷害行為に出た。警備に出た警察は、一応は在特会の暴走を抑えてはいたが、暴力行為をきちんと阻止しなかったという。同日、大阪毎日放送(MBS)に押しかけて、本社前抗議行動を行った。MBSは一二月二二日に在特会の行動に批判的なコメントを付したという。

一月一四日、京都朝鮮初級学校に押しかけ、昨年一二月四日と同様、差別と排外主義の罵声を浴びせかけた。この日、学校側は事前に子どもたちを非難させていたという。

 一月二四日、臨時大会と外国人参政権断固反対を掲げて新宿行進を行った。通常のデモ行進ではなく、わざわざ外国人が多数居住している新大久保地域を通り抜け、住民に罵声を浴びせる差別デモである。

 ウェブサイトによると、休日には各地で一斉行動も取り組まれている。例えば、一月一七日には、福岡市天神で外国人参政権断固反対の緊急街宣行動、大阪堺筋でパチンコをやめようデモ(在日朝鮮人にパチンコ業者が多いので、パチンコをやめようと訴える)、名古屋の名鉄百貨店前で反民主党街宣行動などを行っている。組織再編も繰り返し発表されている。以前は東京、札幌、愛知、大阪、福岡などだったのが、今では全国各地に多数の支部が結成されている。

 警察の対応も相変わらずである。大阪市生野の在特会デモによる差別発言に対して、住民がやめさせるように指摘したところ、警察は「表現の自由だ」と答えたという。在特会は警察に守られて人種差別を堂々と繰り返している。各地でトラブルが発生して怪我人が出ている。侮辱罪、脅迫罪、威力業務妨害罪、器物損壊罪などに当たると思われる行為を続けても、在特会の暴力を警察は見てみぬふりをする。

 侮辱罪とは、具体的事実を摘示せずに公然と人を侮辱する罪である(刑法二三一条)。侮辱とは、人の人格を誹謗中傷する軽蔑の価値判断を表示することであり、罵言を浴びせたり、嘲笑したりするのが典型例とされる。脅迫罪とは、本人またはその親族の生命、身体、自由、名誉または財産に対して害を加えることを告知して脅迫する罪である(刑法二二二条一項)。差別発言や排外主義発言によって危難を告知し、居住地から追い出そうとする行為はこれにあたる。威力業務妨害罪とは、人の意思を制圧するような勢力を示す方法によって人の業務を妨害する行為を内容とする罪である(刑法二三四条)。威力は、主として暴行・脅迫であるが、それに至らない場合であっても、社会・経済的地位、権勢を利用した威迫、団体の力の誇示、騒音喧騒等およそ人の意思を制圧するに足りる一切を含むとされている。器物損壊罪とは、財物を損壊、傷害する罪である(刑法二六一条)。文書、建造物、艦船など以外の財物の損壊がこれにあたり、動産・不動産だけでなく、動物も含まれる。主に物の形状を変更し、あるいは滅失させる行為を指す。ところが、これらの条項はないに等しい。警察は、眼前で行われている犯罪を制止しない。在特会は差別と暴力やりたい放題となっている。

人種差別撤廃条約第四条は、人種差別の助長・煽動の処罰、人種差別団体の犯罪化を掲げているが、この条項を日本政府は留保している。日本ではヘイト・クライムは犯罪とされていない。

ヘイト・クライムとは

多くの諸国には人種差別禁止法やヘイト・クライム法がある。アメリカにおけるヘイト・クライム法について、ネイサン・ホール(ポーツマス大学講師)は次の四類型にまとめている。

 ヘイト・クライムの刑罰を重くする法――女性に対する暴力法(一九九四年)は、被害者のジェンダーによって動機づけられた犯罪は、ジェンダーに基づく差別からの自由という被害者の権利を侵害する犯罪とした。ヘイト・クライム重罰化法(一九九四年)は、犯行者が、被害者の人種、宗教、皮膚の色、国民的出自、民族、ジェンダー、障害または性的志向に対する偏見によって犯行を行なった場合、量刑を三〇%重くすることができるとした。教会放火予防法(一九九六年)は、教会・礼拝所に対する放火事件が続発したため、教会放火の量刑を加重するとともに、被害を受けた教会再建のために連邦がローンの保証をすることにした。

 犯罪的行動を新しい犯罪とする法――オバマ大統領が署名したヘイト・クライム予防法(二〇〇九年)は、ヘイト・クライムを重罪とし、連邦検事局の訴追権限を強化した。「マシュー・シェパード法」とも呼ばれる。当初は人種や皮膚の色を念頭に置いていたが、ジェンダー・アイデンティティ、性的志向、障害が加えられたことにより、ヘイト・クライムの対象範囲が大きく広がった。

 公民権問題に関連する法――人種、皮膚の色、宗教、国民的出自のゆえに暴力や威嚇によって、選挙権、教育権、雇用の権利などの権利に介入することを禁止している。ヘイト・クライム予防に関連すると理解されてきた。

 ヘイト・クライム統計法――一九九〇年統計法は、司法省をはじめとする法執行機関が、ヘイト・クライム情報を毎年収集し、公表すると定めた。人種、宗教、性的志向、民族によって動機づけられた犯罪に関連する情報を収集するもので、謀殺、故殺、強姦、暴行、傷害、放火、器物損壊などについて調査する。毎年、統計情報が公表され、どのような加害者、被害者、行為類型があるかが分析されている。

州法には、ヘイト・クライム法において、年齢に関する規定(四州)、暴行傷害(四五州およびコロンビア特別区)、民事訴訟(三〇州等)、情報収集(二三州等)、ジェンダー(二五州等)、制度的蛮行(四二州等)、人種、宗教、民族集団(四三州等)、性的志向(二八州等)の規定がある。

ヘイト・クライム法は多くの諸国に見られる。また、英米法のヘイト・クライムとは異なるが、ドイツにおける民衆煽動罪(とりわけ「アウシュヴィッツの嘘」罪)も重要である。これを加えると五類型となる。人種差別撤廃条約が人種差別禁止法の制定を求めているから、大半の諸国には何らかの人種差別禁止法があるし、ヘイト・クライム法がある。

法規制だけでヘイト・クライムに十分対処できるわけではないが、政府がヘイト・クライムを許さないと表明する事は重要である。社会に「ヘイト・クライムに寛容であってはならない」というメッセージを送ることができる。

ぐろーばる・みゅ~じっく(14)いとぅ~ば




カリブ海の軍隊のない国家センルシアの首都のミュージック・ショップで買った1枚。




ITOOBAA, Freedom.






セントルシアのヴューフォート出身のITOOBAAの本名はSylvestter Peter。サウンドはレゲエです。ボブ・マーリーを思い出せば、だいたい想像できるサウンド。セントルシアはイギリスの植民地だったので、ジャマイカ同様、英語です。すぐ近くのキューバやハイチと違って、英語なのでアメリカに進出しやすく、ITOOBAAもアメリカで活躍していたようです。