Tuesday, October 14, 2014

ヘイト・スピーチの憲法論(4)

4 生存権――憲法第二五条 
 日本国憲法第二五条一項は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」として、生存権を規定している。
 「すべて国民」としているが、日本国籍保持者のみならず、日本社会構成員全員が有する権利である。ただし、生存権を保障するために国がどこまでの作為義務を有するかは、一律には定まらない。
 通常、生存権は福利厚生や生活保護や年金などの問題として議論される。しかし、それは社会的に生存権を確保できている場合に、いかにプラスにするかと言う枠組みである。社会的に生存権を否定されることがないのが当然だからだ。
 他方、ヘイト・スピーチは他者の存在に対する攻撃であり、アイデンティティに対する攻撃である。「殺せ」「日本から叩き出せ」と言った罵声は、被害者の人間存在そのものを否定している。すなわち社会的に生存権を否定する事態である。このような事態を憲法学は想定してこなかったように思われる。
 京都朝鮮学校襲撃事件民事訴訟第一審の京都地裁判決は「排除」に着目した。
判決は「本件活動による業務妨害及び名誉毀損が人種差別撤廃条約上の人種差別に該当すること」において、被告人らが差別意識を有していたこと、自分たちの考えを表明するために示威活動を行ったことから「本件活動が、全体として在日朝鮮人に対する差別意識を世間に訴える意図の下に行われた」とした。
 その上で、判決は被告らによる数々の差別的発言を確認し、「以上でみたように、本件活動に伴う業務妨害と名誉毀損は、いずれも、在日朝鮮人に対する差別意識を世間に訴える意図の下、在日朝鮮人に対する差別的発言を織り交ぜてされたものであり、在日朝鮮人という民族的出身に基づく排除であって、在日朝鮮人の平等の立場での人権及び基本的自由の享有を妨げる目的を有するものといえるから、全体として人種差別撤廃条約一条一項所定の人種差別に該当する」と判断し、「民法七〇九条所定の不法行為に該当すると同時に、人種差別に該当する違法性を帯びている」とした。
 ここで注目するべきことは、「排除」と明言し、「人権及び基本的自由の享有を妨げる目的を有するもの」と判断したことである。私の知る限り、メディアも研究者もなぜかこのことに言及していない。
 人種差別撤廃条約第一条一項の定義は「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先」としている。「区別、排除、制限又は優先」のうち「区別」や「制限」に当たることはもとよりであるが、判決は「排除」に着目した。単に差別的な表現を行ったというものではなく、「排除」する行為である。
よく誤解されるように、ヘイト・スピーチは単なる汚い表現や悪意の表明だけではない。他者を排除する意思の表明であり、排除する行為である。他者の安全や存在を危殆化する行為であり、放置しておくと「迫害」につながるような行為である。「迫害」が組織的に行われた場合、人道に対する罪となることがあることを想起するべきである。さらに、ヘイト・スピーチの極限形態であるジェノサイド煽動型は、生存権だけではなく、生命権(憲法第一三条)をも侵害する危険性を有する。
 このようにヘイト・スピーチは、差別表明型や名誉毀損型だけではなく、脅迫型や迫害型もあり、他者を排除し、迫害する犯罪である。差別の煽動はまさに排除の意思表明である。社会的排除は、被害者の生存権の侵害であり、生命の具体的危険にもなる。
 私人によるヘイト・スピーチであって、日本政府が被害者の生存権を侵害したわけではない。しかし、日本社会において他者の生存権を侵害する人権侵害が継続的に生じているにもかかわらず、政府がこれを規制することなく、ヘイト・スピーチを放置し続けていることは、やはり政府の責任が問われるべき事態である。まして、ヘイト・デモは公安委員会の許可を得て行われている。政府(地方政府)がヘイト・スピーチの「共犯」として、マイノリティの生存権を侵害しているのではないか。
 憲法前文は「圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」すること、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ」ることに言及している。生存権の規定は憲法の基本精神に従って解釈されるべきである。日本社会構成員は「圧迫と偏狭」や「恐怖と欠乏」からの自由を保障されなければならない。誰もが迫害されることなく社会生活を維持できなければならない。
 ヘイト・スピーチの法律論を試みた法学者の中で、憲法第二五条に着目したのは、私以外では金尚均のみであろう。遠藤比呂通が憲法第九条を引き合いに出したのも、同じ趣旨かもしれない。金や遠藤に倣って、この点をさらに強調しておかなければならない。


ヘイト・スピーチの憲法論(3)

3 法の下の平等――憲法第一四条
 日本国憲法第一四条第一項は「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と定める。
 この規定は、「国民」が差別されないことを規定しているが、ここにいう「国民」はつねに日本国籍保持者に限定されるものではない。国政選挙権のように、事柄の性質上、日本国籍保持者に限定される場合を除いて、日本国籍保持者以外にも法の下の平等は適用される。
また、国民が「差別されない」ことを明示しているが、政府による非差別の保障がどこまで義務的であるかについての見解は多様でありうる。政府が積極的に差別を行った場合には政府の行為が違憲であると判断されることがありうるが、政府が社会的差別を是正できなかったからと言って直ちに政府の責任が問われるわけではない。しかし、社会的差別による被害が生じていることを知りながら、長期にわたってそれを是正する措置を講じることなく、差別を放置していれば、政府の責任が問われることがある。
なお、「人種、信条、性別、社会的身分又は門地」が明記されているが、これは限定的列挙ではなく、例示的列挙であると理解されている。人種、信条等に類比できる事柄に基づいて不合理な差別を行うことも禁止されており、例えば民族もここに含まれると理解するべきである。
 法の下の平等の意味について、佐藤幸治は「元来平等は国家による不平等な取扱いを排除するという自由権的文脈で捉えられていた」としつつも、次のように述べている。
 「しかし、上述の平等観念の変容とも結びつきながら展開してきた現代積極国家にあって、国家は自ら差別してはならないだけでなく、社会に事実上存在する不平等を除去しなければならないという、積極的ないし社会権的内容を盛り込んで平等権を捉えようとする考え方が強くなってきた。そして、このことと関連して、社会の中の根強い差別意識のため、通常の社会経済的過程から疎外されている者が存すると認められる場合に、国家は、その者の平等を保障するための措置をとる義務を負うとともに、その者を通常の過程に参与させるために必要やむをえないと考えられるときは、一時的にその者に対して一般の人に対すると異なる特別の優遇措置を講ずることが求められるという考え方が登場する。」
 辻村みよ子は、形式的平等と実質的平等に関連して、次のように述べている。
 「しかし、上記のように、平等の観念自体に変化が生じ、実質的平等保障の要請が強まっていることによって、一四条にも実質的平等の保障が含まれると解することも妥当となる。ただし、実質的平等をも保障していると理解する場合にも形式的平等の原則が放棄されたわけではない。理論上はあくまで形式的平等要請が原則であり、法律上の均一的な取扱いが要請されるが、一定の合理的な別異取扱いの許容範囲内で実質的平等が実現されると解するのが筋であろう。」
ここでも、第一三条と同じ構図で考えることができる。誰もが法の下に平等であって、差別されない権利を有している。日本において人種その他の理由による差別を許さないことの中核には、かつて日本の戦争とファシズムによって被害を受けたアジアの人民が含まれるのが当然である。このことを抜きに憲法第一四条を解釈してはならないだろう。憲法第一四条は、アジアの人民が日本で「ヘイト・スピーチを受けない権利」の根拠である。
憲法教科書では、法の下の平等と言うと、貴族制の禁止、外国人差別の禁止(たとえば政治活動や参政権問題)、部落差別問題などを論じるが、かつて日本の戦争とファシズムによって被害を受けたアジアの人民に対する差別にはほとんど言及がない。これは奇妙なことである。大日本帝国憲法には人種や民族による差別を禁止する規定はなかった。日本国憲法には人種や民族による差別を禁止する規定が盛り込まれた。それはなぜなのかを考えれば、アジア人民が差別されない権利、ヘイト・スピーチを受けない権利こそ、日本国憲法の中心論点のはずだ。
アジアの人民が日本でヘイト・スピーチにさらされないように特別の措置を講じることは、それ以外の人々に対する逆差別になるという反論は適切ではない。かつて被害を受けた人々であり、現在も日本社会において圧倒的に少ないマイノリティ存在(外国人人口は日本の人口の1~2%レベル)であり、被害を受けやすく、現に被害が生じているからである。


Monday, October 13, 2014

ヘイト・スピーチの憲法論(2)

2 人格権――憲法第一三条
 ヘイト・スピーチと言うと、多くの憲法学者や弁護士は条件反射のごとく憲法第二一条の表現の自由を口にする。その時点で、終わっていると言うしかない。
 ヘイト・スピーチの憲法論は、憲法第一三条から始めなければならない。
日本国憲法第一三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とする。個人の尊重、人格権、幸福追求権などの規定である。
第一三条を直ちに権利請求の根拠とすることができるか否かについては議論がある。憲法学上、政府が個人の尊重に反する行為を積極的に行った場合には、当該行為が違憲であると判断されることがありうるが、政府の不作為に対して、個人が政府に作為を求める規定とは理解されていない。
これは国家の役割をめぐる議論につながる。近代国家における自由と人権が、かつては「国家からの自由」と理解されたように、国家は介入しないことが求められた。もっとも、個人の尊重や人格権の場合、単に自由権ではないので、不介入が最初から予定されていたと見るべきかどうかは疑問も残る。現代国家においては、国家が市民の権利を実現するために積極的に介入することを求められる場合がある。
佐藤幸治は、憲法第一三条の権利を「包括的基本的人権」と位置づけて、個人の尊重について次のように述べている。
「では、『個人として尊重される』とは、いかなる意味か。それは、上述のように、一人ひとりの人間が人格的自律の存在として最大限尊重されなければならないということである。この『個人の尊重』は、『個人の尊厳』、さらには『人格の尊厳』の原理と呼ぶこともできる。次の一四条は『人格の平等』の原理を規定しており、一三条と一四条と相まって、日本国憲法が『人格』原理を基礎とすることを明らかにするものである。『人格の尊厳』は当然に『人格の平等』を意味する理であるが、『人格の尊厳』は、他の人格との関係をひとまずカッコに入れて、『人格』それ自体のあり方ないし内的構造を示すものである。」(佐藤幸治『日本国憲法論』成文堂、二〇一一年、一七三~一七四頁)
ドイツ憲法にいう人間の尊厳と日本国憲法の人格権が同じことを意味するかどうかは異論もあり得るだろうが、ここではそう大きな問題ではない。個人の尊重、人格の尊厳、人格権といったアイデンティティの根幹を憲法が尊重しようとしていると理解すれば足りる。
辻村みよ子は、憲法第一三条の権利を「包括的権利と基本原則」に位置づけて、次のように述べている。
「一三条前段の『すべて国民は、個人として尊重される。』という規定は、いわゆる個人主義の原理を掲げたものと解される。個人主義の原理とは、『人間社会における価値の根源が個人にあるとし、何にもまさって個人を尊重しようとする原理』である。一方では、『他人の犠牲において自己の利益を主張しようとする利己主義』を否定し、他方では『「全体」のためと称して個人を犠牲にしようとする全体主義』を否定することで、『すべての人間を自主的な人格として平等に尊重』している。」(辻村みよ子『憲法・第四版』日本評論社、二〇一二年、一五三~一五四頁)
第一三条は「すべて国民は」と定めているが、日本国籍保持者に限定される趣旨ではなく、日本社会構成員が含まれると解釈するべきであるし、そのように解釈されている。
また、「個人の尊重であるから人種・民族差別問題とは関係ない」と解釈するべきではない。個人の尊重の原理は個人主義の立場であるから、人種や民族が憲法第一三条の主体になることはない。しかし、人種・民族等の属性に対する攻撃は、他者のアイデンティティに対する侵害であり、諸個人の尊重を妨げる明白な行為である。憲法第一三条は「他人の犠牲において自己の利益を主張しようとする利己主義」を否定するものであって、ヘイト・スピーチの否定も当然ここに含まれる。
ヘイト・スピーチが憲法第一三条の人格権を侵害するものであることは、すでに金尚均が指摘している。憲法学は憲法第一三条に言及することがほとんどなかったが、刑法学は積極的に言及してきた。ヘイト・スピーチを規制する場合の保護法益論として、ドイツの民衆煽動罪において「人間の尊厳」が焦点となってきたことを参考に、楠本孝、櫻庭総、金尚均等はヘイト・スピーチが人格権や人間の尊厳を侵害することを繰り返し指摘している。

人格権の保障を日本国憲法の基本精神に立って再検討すれば、第二次大戦とファシズムによる被害を受けた人々の人格権の再建こそが第一の課題でなければならない。日本の戦争と軍国主義による被害を受けたアジア各国人民の人格権の保障は日本国憲法の前提である。かつて被害を受けた人々を再びヘイト・スピーチに曝すことは許されない。人格権、人間の尊厳を守るために、ヘイト・スピーチを規制しなければならない。

Saturday, October 11, 2014

ヘイト・スピーチの憲法論(1)

1 憲法の基本精神――解釈基準
 ヘイト・スピーチの憲法論を展開するためには、まず何よりも日本国憲法とは何か、なぜ大日本帝国憲法が「改正」されて、日本国憲法とならなければならなかったのか、を明らかにする必要がある。換言すれば、日本国憲法の基本精神を踏まえて、条文解釈のための基準を抽出する必要がある。
 言うまでもなく、日本国憲法は第二次大戦とファシズムへの反省の上に成立したものである。大日本帝国憲法の下、日本軍国主義のアジア侵略と戦争が内外に多大の被害を生み出した。
一九四三年のカイロ宣言は日本国の侵略の制止を掲げ、「日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ」、「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムル」とし、日本の無条件降伏を追及することにしている。
 一九四五年のポツダム宣言は「無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者」を批判し、「無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス」とし、「日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化」を掲げ、「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立」を求めた。それゆえ、大日本帝国憲法の「改正」として、日本国憲法の制定が要請されることになった。
 憲法前文第一段落は「日本国民は・・・諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」するとしている。第一に、「諸国民との協和による成果」に言及している。第二に、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」するとしている。ここに憲法の基本精神である平和主義と国際協調主義の前触れが明らかになっている。
 憲法前文第二段落は「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」としている。第一に、平和主義(恒久の平和を念願)、第二に、国際協調主義(平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼)を前提にして、第三に、国際社会における「名誉ある地位」を願う姿勢である。第四に、「圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」することを国際社会の課題としている。第五に、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ」ることを求めている。
 ヘイト・スピーチが憲法前文の「圧迫と偏狭」「恐怖と欠乏」に関連しないという解釈を採用することはできないだろう。
 憲法前文第三段落は「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」としている。ここでも国際協調主義が再確認されている。
 以上のことから、日本国憲法は第二次大戦とファシズムへの反省に立って制定されたものであり、その基本精神に従って解釈されなければならないことが明らかである。ヘイト・スピーチの憲法論にとっても、これが最大の要諦である。
 遠藤比呂通は「アウシュヴィッツが二度とあってはならないということは、教育に対する最優先の要請です」というアドルノの言葉を引用して、この視点から「表現の自由とヘイト・スピーチ」について再検討する。それは「日本国憲法下の表現の自由を考えるとき何よりも重要なのは、民主主義と憲法九条の思想的連関を明らかにすることであろう」と述べる。

実に重要な指摘である。憲法前文及び第九条が宣明している平和主義の観点をしっかりと踏まえて、ヘイト・スピーチについて検討するべきである。

Thursday, October 09, 2014

ヘイト・スピーチの法的研究を読む(5)

金尚均編『ヘイト・スピーチの法的研究』第6章「言論規制消極論の意義と課題』(小谷順子)は、第5章「表現の自由の限界」に続いて、ヘイト・スピーチ規制に消極的な意見が多いのはなぜなのかと問う。議論の前提として、ヘイト・スピーチの定義の困難さ、とりわけ憎悪の対象となる集団の属性についても多様性がありうるので、規制対象の限定の困難さがあることを確認している。
その上で、アメリカにおける規制消極論の背景を論じ、伝統的なリベラル派による消極論と、保守派による消極論が並立混在していると見る。伝統的な規制消極論は、表現内容規制に対する警戒感に由来する。恣意的な立法のおそれ、恣意的な運用のおそれ、そして規制乱発のおそれである。さらに、政治的言論の規制に対する警戒感も見られる。
他方で、1980年以降に登場したポリティカル・コレクトネスPCへの反発もある。保守派はアファーマティヴ・アクションやPCに反対するようになり、PC論争の激化に伴ってリベラル派にも戸惑いが広がった。
もう一つ、規制効果価に対する懐疑論に基づく規制消極論がある。実際に規制できる範囲は僅かであれば、それだけの効果のためにわざわざ立法が必要かと言う問題である。規制の副作用の検討は、規制がマイノリティに適用される恐れにも及ぶ。
小谷はアメリカの議論状況を紹介・検討したうえで、だからと言って、ヘイト・スピーチの拡散を放置すべきという意味ではないと言う。アメリカにはヘイト・スピーチ処罰法はないが、何もしていないわけではない。
「ヘイト・スピーチをピンポイントで規制する立法こそ設けていないものの、人種的な動機で遂行された犯罪に刑罰を加重するヘイト・クライム法は現在も存在している。また、連邦の市民的権利に関する法律は、不特定多数の利用する施設における人種差別を禁じている。さらに、こうした立法に加え、政府も人種差別や宗教差別の解消をめざすメッセージを積極的に発信している。つまり、アメリカは、表現規制こそは避けているものの、それ以外の様々な施策を通して、人種的な偏見の解消に努めるとともに、こうした憎悪や偏見がマイノリティの社会生活に支障をきたすという事態を防止することに努めているのである。」

ヘイト・スピーチ論議では必ずと言ってよいほど、アメリカでは処罰しないことが語られる。アメリカ以外の状況を無視する論者が多い。小谷はこれまでの論文で、アメリカやカナダの状況を紹介しつつ、アメリカの議論の変遷を詳しく辿り、その意味を探ってきた。そして、具体的な問題解決のために、アメリカの議論のどの部分に学ぶべきかを示そうとしてきた。その延長に本論文がある。

Friday, October 03, 2014

大江健三郎を読み直す(30)沖縄へのパスポート

大江健三郎『沖縄ノート』(岩波新書、1970年)
沖縄返還に日本が湧いていた時期に、沖縄の歴史を何も知らなかった私は本書に出会って初めて少しものを考えるようになった。沖縄へ行くのにパスポートが必要だった時代に、大江は繰り返し沖縄を訪れ、東京でも沖縄出身者との対話を重ねて、本書を書いている。大江は、1969年1月9日に東京で急死した沖縄県人会事務局長・古堅宗憲に「死者よ、怒りをこめてわれわれのうちに生きつづけてください、怯懦なる生者われわれのうちに怒りをかきたてつづけてください」と呼びかけつつ、「われわれの古堅さんの死を悼む心は、まさに恥の心にかさなるほどにも暗然たる、惨憺たる深みに沈みこまざるをえない」と繋ぐ。怒りと恥――沖縄に対する差別の実態を前に、古堅の怒りを共有しながら、同時にやまとんちゅの一人として恥なければならない。差別するやまとんちゅの一人から逃れられない以上、古堅の怒りを伝え、沖縄の人々の怒りを伝えるために彼の地を訪れ、人々に出会い、出来事を目撃し、聴き取るべきことを聞き、本土に伝えつづけなければならない。そうして大江は「日本が沖縄に属する」と喝破した。沖縄が日本に属するのではなく、日本こそが沖縄に属する。単なる逆転の発想ではない。核基地とされた沖縄に米軍戦略が依拠している以上、アジアの東に位置するべきは核基地・沖縄であって、日本はその附属物に過ぎない。その日本が沖縄を壟断し、差別する。
44年後の現在も状況は変わらない。本年8月20・21日にジュネーヴで開催された人種差別撤廃委員会に参加した糸数慶子・参議院議員は、琉球の民族衣装をまとって、人種差別撤廃委員に沖縄の現状を訴えた。その時、私を突き刺したのは、大江の最後の文章だった。
「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、という暗い内省の渦巻きは、新しくまた僕をより深い奥底へとまきこみはじめる。そのような日々を生きつつ、しかも憲法第二二条にいうところの国籍離脱の自由を僕が知りながらも、なおかつ日本人たりつづける以上、どのようにして自分の内部の沖縄ノートに、完結の手だてがあろう?」
大江の沖縄ノートに完結がなく、今もなお大江が沖縄に向き合い、自分に向き合い続けていることは周知のことだ。

おそらく、140万の人々が国籍離脱の自由を行使して、私たちがパスポートを持って琉球を訪れる日がやって来るまで、私たちの「沖縄ノート」は恥の歴史を上塗りし続けるのだろう。差別しない日本人などというものを私たちが想像だにできない現状では。

Wednesday, October 01, 2014

ブラック企業に負けない闘いを

今野晴貴・川村遼平『ブラック企業に負けない』(旬報社、2011年)
NPO法人POSSEの2人が以前出していた本を最近入手した。冒頭でブラック企業の人間破壊システムを批判的に検討し、次にその7種類のパターンを紹介している。そして、ブラック企業に負けない就職活動を勧め、「会社の言うことがすべてではない!」「あきらめない!自分を責めない!」「おかしい・つらいと感じたら専門家に相談する!」「証拠・記録を残す!」という合言葉を確認して、さまざまの「対処術」を紹介し、最後に労働市場の変化や「年功的職場秩序」の崩壊などブッラク企業発生の背景分析も行っている。後の今野晴貴のベストセラー新書につながる重要な1冊だ。
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