Friday, October 19, 2018

歴史、責任、主体――東アジアにおける知識人の対話


徐京植・高橋哲哉『責任について――日本を問う20年の対話』(高文研)


「戦後73年、明治維新150年。

この国は白昼公然とヘイトスピーチが飛び交い、嫌韓・嫌中、

さらには沖縄まで刃が向けられる排外主義が蔓延する社会が出現した。

戦後民主主義という「メッキ」が剥がれ、この国の〝地金〟がむき出しになった。

戦後責任を問い植民地主義を批判し続けてきた哲学者と、

この国の植民地主義に対峙して来た作家が、

日本マジョリティの「責任」について語り合う。」


『私の西洋美術巡礼』『半難民の位置から』『植民地主義の暴力』『日本リベラル派の頽落』の徐京植。

『記憶のエチカ』『戦後責任論『靖国問題』『犠牲のシステム 福島・沖縄』の高橋哲哉。

日本軍性奴隷制(「慰安婦」問題)をはじめとする戦後補償問題、「戦後50周年」をめぐる政治、9・11と9・17後の世界と日本の激動、沖縄米軍基地をめぐる民衆の抵抗、フクシマ原発事故被災。四半世紀の東アジアにおける日本問題を、正面から問い続けてきた2人の対話である。

「Ⅰ 戦後民主主義という「メッキ」」において、応答責任から逃避した日本の20年を振り返り、高橋と加藤典洋との論争におけるナショナリズムと日本リベラル派の基本構制を抉りだす。女性国際戦犯法廷/NHK番組改ざん事件、教育基本法改正、靖国問題──感情の錬金術を論じることで、戦後民主主義の限界を的確に浮き彫りにする。

「Ⅱ 日本の「地金」」において、1989年の昭和天皇の死、天皇の戦争責任をめぐる軽薄な語りの意味を探り、「言論弾圧」と「空虚な主体」の実相をあぶりだす。他方、小泉訪朝/日朝平壌宣言/日本人拉致問題、『前夜』創刊、朴裕河『和解のために』を振り返り、「共感的不安定」のレトリックに頽落の一因を見る。リベラル派の頽落は、『帝国の慰安婦』現象において絶頂(どん底)に達する。

「Ⅲ「犠牲のシステム」と植民地主義」において、この国の「犠牲のシステム」とは何かを、「フクシマ」と「福島」や、米軍基地引き取り論を通じて解き明かす。広島・長崎の経験にもかかわらず、核を否定できない二重基準の国の問題を指弾する。

「Ⅳ「普遍主義」の暴力」では、逆に植民地主義的思考が普遍主義的形態をとって現象することを、「日本的普遍主義とは何か」「象徴天皇制という地金」「虚構の平和主義」として論じる。

最後に、高橋哲哉は、「日毒」の消去という課題を提示し、徐京植は、日本型全体主義の完成に言及する。「明治維新150年」を騒ぎ立てる日本植民地主義との精神の闘いが続く。
徹底して思想の徒でありながら、行動する知識人でもある2人の交流は東アジアにおける知識人の歴史的社会的責任に関する比類のないモデルとなるであろう。

Monday, October 15, 2018

ヘイト・スピーチ研究文献(116)近代を誤解する前近代の憲法学


駒村圭吾「ヘイトスピーチ規制賛成論に対するいくつかの疑問」『金沢法学』61巻1号(2018年)


「<記録>シンポジウム『ヘイト・スピーチはどこまで規制できるか』」に収められた報告である。


駒村論文は次のように始まる。

「まず、はじめに申し上げておきたいことは、私は憎悪表現を憎悪している、という点です。日本社会において憎悪表現と指称される発話のいくつかはまったく私の言論作法の埒外にありますし、二度と耳にしたくないものです。したがって、私は、時に誤解されるのですが、“ヘイトスピーチ容認派”ではありません。」

そして、駒村は。自分はヘイト・スピーチ規制消極派ではなく、「むしろ積極派に分類していただきたいところです」という。違いは、駒村は既存の法的手段でヘイト・スピーチ規制は可能かつ十分と考えるのに対して、いわゆる“積極派”はそれでは不十分として新たな規制を提案している点だという。


以下、私のコメント。

第1に、駒村は、自分の個人的感情ないし心情と、ヘイト・スピーチの法的規制の可否という問題を混同している。おそらく故意に混同しているのだろう。駒村が憎悪表現を憎悪しているか否かは、憎悪表現の刑事規制の可否をめぐる憲法論とは関係ない。関係ない話題を持ち出して議論を始めるところに駒村憲法学の特徴がある。これは、ヘイト・スピーチ問題をめぐる議論が始まった時期に、一部の評論家が「ヘイト・スピーチは汚い言葉だから聞きたくないが、表現の自由だ」と述べたのと同じレベルの話である。ヘイト・スピーチは汚い言葉であるが、汚い言葉がヘイト・スピーチではない。このことを敢えて混同させることによって、論じるべき本質問題を見えなくさせるのが駒村の「言論作法」なのであろう。

2に、駒村は、ヘイト・スピーチを言論問題と決めつけている。だから「言論作法」という言葉が出てくる。現実のヘイト・スピーチ問題を知っているのだろうかと疑いたくなる。憲法学者がヘイト・スピーチと呼んできた事件の代表は京都朝鮮学校襲撃事件、新大久保ヘイト・デモ、川崎ヘイト・デモ・集会等である。これらを見て「言論だ」というのであれば、駒村は器物損壊、威力業務妨害、暴行、脅迫、迫害を「言論」と考えていることになるだろう。現実の事例の中から言葉だけを切り取って、他の事実を無視して言論について語る憲法学者が多いが、駒村もその一人である。


駒村論文は、Ⅰ憲法学的観点から、Ⅱ刑事学的関連から、Ⅲ哲学的観点から、の3つの部分からなる。憲法論は5頁に満たない。ここで駒村は威力業務妨害等の事実にも触れるが、それには現行の法的対応が可能であり、「これらの法的対応を尽くしてもなお残るもの」は「ある種の『品格』の問題が残るのみ」として「不品行としてのヘイトスピーチ」と呼ぶ。そして、集団誹謗に対する法的規制について、憲法21条を持ち出して、内容規制や見解規制になると指摘する。

「集団誹謗の法的規制は、個人の集合的アイデンティティを前提とする話になりますので、あらゆる歴史的・社会的文脈から個人を析出することを旨とする近代的前提と原理的な不整合を生む恐れがあります」と指摘する。


以下、私のコメント。

ここで注意を要するのは、「刑事規制と集団」に関連する理解のあり方である。連座のように集団的な刑罰の禁止という局面と、集団誹謗のように集団を保護する局面とは全く異なるはずだ。近代法の原理の一つに個人主義を仮設することが適切であるとしても、従来の刑法理論では、連座処罰や集団処罰の禁止が念頭に置かれていた。個人主義だから集団を保護してはならないという理屈には飛躍があるのではないだろうか。個人主義であっても、個人を保護するために諸個人の集団を保護する論理は可能であろう。

駒村は「近代的前提と原理的な不整合を生む」というが、どこの「近代」に言えることなのか不可思議な話である。近代の社会と思想を産み出したイギリス、フランスをはじめEU諸国はすべてヘイト・スピーチを処罰する。集団誹謗類型の規定も少なくない。駒村によれば、イギリスやフランスをはじめとするEU諸国は「近代的前提と原理的な不整合を生む」ということである。奇抜な思考である。

駒村は、ヘイト・スピーチを表現、言論に抽象化し、被害をすべて無視する。多くの憲法学者と同様に、駒村論文はヘイトの被害を語らない。「品格」の問題に過ぎないとし、「そのような残余の言論に明白かつ現在の危険があるのか、という問題です」という。被害が起きていることを認めないので、結果が起きているにもかかわらず、結果を否定し、さらに「危険があるのか」と語るのである。

セクシュアル・ハラスメントでも同じような議論が繰り返されてきた。セクハラ被害により通院を余儀なくされるなど、多大の被害を訴えても、「品格」の問題に過ぎないとして、被害を否定する論法がまかり通った時代があった。


以上が駒村論文の憲法論文である。その後に政治学的関連や哲学的観点と称する素人談義が続く。哲学的観点の結論は「思想の自由市場論」である。

「私が他所でよく使う言葉に“意味の秩序”というものがありますが、それに倣えば、意味の秩序の構築・解体は思想の自由市場における発話の反復に委ねよ、ということになります。」

「この点、思想の自由市場が生み出すダイナミズムに賭けるというのが表現の自由論のレガシーであったわけです。私自身はその方向性を大事にしたいと思っております。」


以下、私のコメント。

「思想の自由市場」論については何度も批判してきた。

思想の自由市場論は、憲法原理でもなければ社会科学理論でもない。一度も検証されたことのない仮説であり、単なる比喩的表現に過ぎないのではないか。

 第1に、思想の自由市場を経済市場と類比する根拠や具体的内容が明らかでない。思想の自由市場論は比喩的表現であるが、比喩の正当性自体疑わしい。ウォルドロンは、思想の市場というイメージの支持者を批判して、「彼らはロースクールの学生に、『思想の市場』という呪文をまくしたてることを教えるだけである。経済市場においては政府による一定の規制が重要だと一般的に思われている。にもかかわらず、私たちは、『思想の市場』に関しては、そうした規制に類比されるものを何も生み出してこなかった。そうしたものがあれば、ヘイト・スピーチ規制に賛成または反対の議論をするのに役立つことだろう。思想の自由市場の支持者は、こうした事情を学生に思い出させることをしないの である」と述べる(前記『ヘイト・スピーチという危害』186頁)。経済市場には貨幣という「共通言語」があり、市場参入者は経済的合理性に従って利潤を追求する。思想の自由市場にはこうした「共通言語」が存在しない。

第2に、思想の自由市場論が成立するためには、市場参入者の同質性と平等性が保障されていなければならない。この前提を掘り崩すヘイト・スピーチに思想の自由市場論を適用することはできない。同質的で平等な市民同士の意見交換の場合であれば、少数意見が多数意見に変わることもありうるかもしれない。しかし、マジョリティとマイノリティが異なる人種・民族に属するがゆえに、構造的差別の下でヘイト・スピーチが発信されている場合、マイノリティがマジョリティに変わる可能性は最初からない。小谷順子によれば「ヘイト・スピーチの衝撃的かつ威圧的なメッセージ性ゆえに、被害者や一般市民が沈黙してしまう可能性があり、そうなると対抗言論が発信されないままになる可能性があるほか、仮に論理的な対抗言論が発信されても、威圧的かつ感情的なヘイト・スピーチによってかき消されてしまう可能性があることが指摘されている。そうなると、ヘイト・スピーチへの対抗言論が将来的に『真実』または『良い思想』として社会や市場を制覇する可能性はきわめて低くなる」。

 第3に、思想の自由市場論はタイムスパンを明示しない。仮に長期的には思想の自由市場論が当てはまる場合がありうるとしても、一般的に適用できるとは限らない。まして短期的には、大衆がナチスを支持し、マッカーシズムの熱狂がアメリカを席巻する。最終的にナチスが崩壊し、マッカーシズムが消失したとしても、渦中にあって甚大な被害を受けた人々の救済を阻む理由にはならないだろう。

 第4に、市場の論理に喩えるのであれば、思想の自由市場論を唱える前に、「悪貨は良貨を駆逐する」という常識を考慮する必要がある。経済市場だけではなく、思想の市場においてこそ悪貨が良貨を駆逐してきたことは、マスメディアを見ればたちどころに明らかである。ましてインターネット時代においては改めて証明する必要がない。

 第5に、ヘイト・スピーチ被害者が思想の自由市場に参入するつもりがない場合に、なぜ参入を強制されなければならないだろうか。ヘイト・スピーチ加害者が一方的に押し掛けてきて罵声を浴びせる事例で、被害者に対抗言論を強制することは二次被害の拡大でしかない。

 思想の自由市場論をヘイト・スピーチに適用する論者は、ヘイト・スピーチに様々の行為類型があることを考慮していないように見える。名誉毀損型や差別表明型だけではなく、迫害型やジェノサイド煽動型に至る多様なヘイト・スピーチを見るならば、その暴力性が明らかになり、人間の尊厳に対する侵害が見えてくる。これを「思想」と呼ぶことで、見えなくなるものが大きすぎることに注意する必要がある。

 結論として、①思想の自由市場論は検証されたことのない仮説であり、その内容は極めてあいまいであり、比喩的表現を超えるものではない。そもそも検証可能性のない妄想を仮説と称することは疑問である。②思想の自由市場論が仮に検証されても、それをヘイト・スピーチに適用することの相当性が明らかにされていない。③思想の自由市場論がアメリカにおいて採用されているとしても、日本国憲法がこの仮説を採用しているという論証がなされたことは一度もない。


憲法学等の動向について、前田朗『ヘイト・スピーチ法研究序説』では、奥平康弘、内野正幸、小谷順子、奈須祐治、上村都、遠藤比呂通、芦部信喜、佐藤幸治、辻村みよ子、初宿正典、長谷部恭男、渋谷秀樹、赤坂正浩、市川正人、川口是などの見解を検討した。

その後、成嶋隆、塚田哲之、尾崎一郎、市川正人、齊藤愛、浅野善治、光信一宏、木村草太、齋藤民徒、藤井正希、曽我部真裕、田代亜紀、榎透、奈須祐治、山邨俊英、桧垣伸次等の見解を紹介・検討してきた(これについては次の私の本で取り上げる)。

ここでの最大の論点は、レイシズムは民主主義と両立するか、しないかである。私見では両者は両立しない。それゆえレイシズムの具体的現象形態であるヘイト・スピーチは民主主義と両立しない。ヘイト・スピーチを容認・放置すると民主主義の基礎を掘り崩すことになる。民主主義を重視し、表現の自由の保障を実現するためにはヘイト・スピーチを規制する必要がある。マイノリティの表現の自由を考慮するならば、マジョリティの差別表現の自由に優越的地位を認めることはあってはならない。マジョリティの表現の自由を一方的に尊重するのではなく、マイノリティの表現の自由こそが優越的地位を認められるべきである。民主主義と表現の自由を真に尊重するにはヘイト・スピーチ刑事規制が不可欠である。

以上が、これまで何度も繰り返してきた私見の基本命題であるが、これに対する憲法学者からの応答は見られない。駒村論文にも私見への応答はない。陳腐な「思想の自由市場論」の“反復”という“無意味の秩序”に過ぎないのではないか。

Thursday, October 11, 2018

ヘイト・スピーチ研究文献(115)金沢シンポジウムの記録


「<記録>シンポジウム『ヘイト・スピーチはどこまで規制できるか』」『金沢法学』61巻1号(2018年)


金沢大学基礎法研究会が主催し、2017年12月16日に、『ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか』の著者エリック・ブライシュ(ミドルベリー大学教授、政治学)を招いて開いたシンポジウムの記録である。


東川浩二「はじめに」

エリック・ブライシュ「基調講演『ヘイト・スピーチとは何か』」

冨増四季「ヘイトスピーチ事案における不法行為法・填補賠償法理の担う役割への再評価」

駒村圭吾「ヘイトスピーチ規制賛成論に対するいくつかの疑問」

奈須祐治「ヘイト・スピーチと『公の施設』」


エリック・ブライシュの基調講演は、ヘイト・スピーチという古くて新しい現象の総体を把握するために、この概念定義の困難さ、あいまいさの理由を追跡する。国際人権法やアメリカ法におけるこの概念及び関連する概念が、どのような状況、どのような射程で用いられてきたかを確認する。ヘイト・クライムやハラスメントも含めたアメリカの用語法をフォローし、次いでヨーロッパ法の変遷を若干見たうえで、「ヘイト・スピーチとは何か」に、「正確で簡便な答えを出すことはできない」としつつ、「しかしこの問題を探求することで、この問題をより深く理解することは可能」という。そして3点指摘する。

「第1に、ヘイト・スピーチは1つの定義に集約させることはできません」。

「第2に、ヘイト・スピーチは概念的ツールであり、また政治的ツールでもあります。」

「第3に、ヘイト・スピーチ法とその政策は、その規制主体が置かれた状況によって相当大きく異なっているということです。」

最後にブライシュは類型論の必要性を強調して講演を終えている。


ブライシュの指摘は正しい。日本の議論でも、ヘイト・スピーチ概念の定義の困難性は常に焦点とされてきた。国際人権法上の概念もあいまいと言えばあいまいである。ブライシュは政治学者で、国際人権法学者ではないためか、ラバト行動計画や人種差別撤廃委員会の一般的勧告35を十分分析していないが、これらを踏まえても、定義の困難さという論点が残ることは否めない。

ただし、即座に補足しておかなくてはならないことは、一義的に明確で争いのない法概念などほとんどないという事実である。刑法における殺人罪の「殺人」という概念は極めて多義的であり、窃盗罪の「財物」という概念はもっと幅広い。判例や学説の積み重ねの結果として、専門家の間で一定のお約束が出来上がっているが、それもしばしば現実に裏切られるのである。刑法上の基本概念が多義的であり、あいまいであるのに、ヘイト・スピーチについてだけ完全無欠の明確性を求める議論をなぜ続けているのか、不思議な話である。

ついでに書いておくと、ブライシュの頭の中では、世界はアメリカとヨーロッパだけでできている。ブライシュに限らず、日本の議論でも、世界にはアメリカとヨーロッパと日本だけしか存在しないという大前提を疑うことが許されない。不思議な話である。


東川浩二「はじめに」は、シンポジウム主催者としての経過説明だが、冒頭に「我が国では、2013年ごろから在特会を中心として、主として在日韓国・朝鮮人を対象としたヘイト・スピーチが問題化した」として、京都朝鮮学校事件判決や大阪市条例、ヘイト・スピーチ解消法に言及している。こうした認識は、東川に限らない。ジャーナリストや評論家の多くは「2007年頃からヘイト・スピーチ問題」と語る。法学者の東川は、判決の出始めた2013年からと語る。
しかし、日本におけるヘイト・クライム/スピーチは2007年や2013年の問題ではない。朝鮮人に対する差別とヘイトは長い間、この社会の重大問題であり続けた。私自身は1988年の世界人権宣言40周年の記念集会を契機に在日朝鮮人の人権擁護を掲げる市民運動にかかわってきた。1989年のパチンコ疑惑騒動、1994年の核疑惑騒動、98年のテポドン騒動、2002年のピョンヤン会談、その都度、日本社会は在日朝鮮人に対する差別と憎悪を振りまいてきた。襲撃事件も何度も起きた。私は1994年以来、被害調査を踏まえて、国連人権機関に訴えてきた。日本の法律家にいくら言っても聞こうとしないからだ。さかのぼれば、阪神教育闘争があり、戦前には関東大震災朝鮮人虐殺がある。こうした歴史をすべて抹消して、2007年や2013年のヘイト・スピーチを語る姿勢では、問題の本質を隠蔽することにしかならない。

Tuesday, September 18, 2018

アフガニスタン女性の闘い 清末愛砂は語る


アフガニスタン女性の闘い

清末愛砂は語る





戦禍とテロの続くアフガニスタン、女性差別の厳しいアフガニスタン。

こうした形容が当たり前のように使われてきたアフガンで30年にわたって女性の自由と権利を求めて闘ってきたアフガニスタン女性革命協会(RAWA)。

私たちRAWAと連帯する会は、RAWAに学び、RAWAとアフガンの現状を日本に紹介してきました。

今回はRAWAやアフガンの女性団体との交流を続けてきた清末愛砂さんにアフガン女性の闘いについて語ってもらいます。



日時:10月14日(日)午後1時30分開場、2時開会~5時

開場:IKE-Biz(旧豊島勤労福祉会館)第3会議室



資料代:500円           

インタヴュアー:前田朗



清末愛砂(きよすえ・あいさ)さん:室蘭工業大学大学院准教授。専門は憲法学、家族法学。主な著書に『パレスチナ 非暴力で占領に立ち向かう』(草の根出版会)『緊急事態条項で暮らし・社会はどうなるか』、『これでいいのか!日本の民主主義――失言・名言から読み解く憲法』、『自民党改憲案にどう向き合うか』(以上現代人文社)、『右派はなぜ家族に介入したがるのか』(大月書店)など多数。





            主催:平和力フォーラム

192-0992 東京都八王子市宇津貫町1556 東京造形大学・前田研究室

042-637-8872  070-2307-1071(前田)   E-mail:maeda@zokei.ac.jp

インタヴュー講座<憲法再入門>第9回 日本国憲法と植民地主義


インタヴュー講座<憲法再入門>第9回

日本国憲法と植民地主義



平和主義と民主主義の日本国憲法のもとで、自由も人権も保障されないのはなぜ? 差別とヘイトがあふれるのはなぜ? 人間の尊厳が踏みにじられるのはなぜ?





日時:10月13日(土)午後2時(会場1時30分)

会場:新宿文化センター第1会議室

新宿区新宿6-14-1 Tel:03-3350-1141

大江戸線・東新宿駅 A3出口より徒歩5

丸の内線・新宿三丁目駅 E1出口より徒歩7

・資料代:500円

宋連玉さん(青山学院大学名誉教授)

「日本国憲法と植民地主義」

                      インタヴュアー:前田朗



★宋連玉:青山学院大学名誉教授、文化センターアリラン館長。主著に『脱帝国のフェミニズムを求めて――朝鮮女性と植民地主義』(有志舎)『軍隊と性暴力――朝鮮半島の20世紀』(現代史料出版)『歴史をひらく――女性史・ジェンダー史からみる東アジア世界』(御茶ノ水書房)など。





 主催:平和力フォーラム

東京都八王子市宇津貫町1556 東京造形大学・前田研究室

042-637-8872  070-2307-1071

E-mail:maeda@zokei.ac.jp

Wednesday, September 12, 2018

滂沱、呻吟、そして証言を聞くこと


キム・スム『ひとり』(三一書房)


<韓国で現代文学賞、大山文学賞、李箱文学賞を受賞した作家、キム・スムの長編小説。

歴史の名のもとに破壊され、打ちのめされた、終わることのない日本軍慰安婦の痛み。

その最後の「ひとり」から小説は始まる…… 慰安婦は被害当事者にとってはもちろん、韓国女性の歴史においても最も痛ましく理不尽な、そして恥辱のトラウマだろう。

プリーモ・レーヴィは「トラウマに対する記憶はそれ自体がトラウマ」だと述べた。

1991814日、金學順ハルモニの公の場での証言を皮切りに、被害者の方々の証言は現在まで続いている。

その証言がなければ、私はこの小説を書けなかっただろう。…… (著者のことばより)


自分が完全にひとりだと感じる彼女は、自分の外から自分を見つめてみたい、と思う。外から見ると地球が全く違って見えるように、自分も違って見えるだろうか。自分の悲しい体験、自分のいとおしい記憶、自分の秘められた歩みを、もう一度、ふたたび、くりかえし、辿り直し、生き直し、必ずもう一度女に生まれたい。台無しになった人生を、自分の苦痛をどんな言葉で説明できるだろうか。「私は慰安婦じゃない」。


カササギの生きている死体。

死んだ蛾に群がる蟻。

うごめくカワニナの幻影。

玉ねぎの網に捕らわれた子猫。

鶏の砂肝ほどに縮みあがった子宮。

猫が蛙に覆いい被さる。

プンギル!

死ななかった13歳のプンギル。


一年前、私は、歴史研究における記憶論についての若干の疑問を記したことがある。


記憶をめぐる言説の危うさについて



この考えは現在いっそう強くなっている。もちろん、記憶をめぐる研究は重要である。体験、出来事、記憶、証言、再構築・・・・・・歴史が積み重ねられ、刻まれ、再構成される。その作業は不可欠である。

しかし、記憶論にはいくつもの陥穽がある。記憶し、記録を残し、記憶を語る当事者の心的営みと別次元で、研究者が積み重ねる、発掘し、取材し、分析する記憶論の限界である。しかも、「慰安婦」問題で顕著なように、記憶論の実態は「ハルモニから主体性を剥奪すること」に転落している。研究者が「学問の自由」を振りかざし、あるいは「フェミニズム」と称しながら、実は「尊厳を求めて立ち上がった主体」を「客体」に封じ込める。学問化したフェイク・フェミニズムは研究者の特権を「学問の自由」とはき違える。そこでは、日本軍性奴隷制被害者の尊厳回復の闘いは、研究の客体に押しとどめられる。証言が散り散りに切り取られ、記憶が泥の海に埋め込まれる。生きられた体験が空虚な手垢のついた物語に仕上げられる。――こうした研究が跋扈していないか。


キム・スムは小説という文学形式において、以上の問いに全面的な回答を与えてくれる。「暴力的な歴史の渦の中でひとりの人間が引き受けねばならなかった苦痛」を主題として、「その苦痛を『慈悲の心』という崇高で美しい徳に昇華させた、小さく偉大な魂」に作家自らのすべてをゆだねる。被害者の証言録を渉猟し、「私のハルモニの代わりに、あの地獄に行ってこられた」被害者の証言に耳を傾け、記憶を記憶のままに記憶し直し、小説的方法によって息を吹き込み、不安も恐怖も苦痛も、夢も願いも喜びも、すべてを保全し、編み直し、読者に手渡す。末尾に記載された313の註の一つひとつが、暗黒と絶望と恥辱と侮蔑と暴力の時代を撃ち抜く。「慰安婦」被害者が、たったひとり、最後の被害者が、この恐ろしい世界に気づきながら、13歳の自分に還る時、再び自分に出会う時・・・・・・


証言を聞くこととは、私がキム・スムになることである。

Monday, September 03, 2018

私にはこの本を読む能力がない

上野千鶴子ほか編『戦争と性暴力の比較史へ向けて』(岩波書店)


春に読み始めたが、序盤から違和感を抱く点がいくつかあったことと、何よりも多忙のため、挫折した。違和感は、編者と私の学問方法論がまったく異なるからであって、さほど大きな理由ではない。第1章から意欲的な論文が続き、勉強にもなる。そこで、夏休みに再読のチャレンジ。ところがふたたび挫折してしまった。


何度か読書を断念しかけつつ、なんとか読み進んだ。しかし、第5章の茶園敏美「セックスというコンタクト・ゾーン」の途中、次の箇所で、ついに放棄せざるをえなかった。

「レイプ被害者は、レイプした相手に金を要求することで、占領兵の問答無用の暴力、そして『モデル被害者』の語りしか受け付けない社会に対して異議申し立てを行っていると解釈できるかもしれない。これこそ、占領兵と占領地女性との出会いの空間であるコンタクト・ゾーンにおける、『モデル被害者』ではない女性たちの生存戦略である。」(本書155~156頁)

リズ・ケリーの「性暴力連続体としてのレイプ/売買春/恋愛/結婚」という認識枠組みを、上野千鶴子による「序章 戦争と性暴力の比較史の視座」に従って採用する茶園は、占領下における米兵と「パンパン」と呼ばれた日本女性の関係に、レイプだけではなく、恋愛や結婚を発見する。

茶園は、自らの方法論を「徹底的な帰納法分析」と宣言する(145頁)。茶園は帰納法がお気に入りのようで、150頁他でも「帰納法」を語る。

それでは上記引用文のどこが問題なのか。4点に分けて説明しよう。以下の4点は密接なつながりを有し、全体として茶園論文の方法論を見事に示している。

1に、レイプ被害者が異議申し立てをしている相手として、「占領兵の問答無用の暴力」と「『モデル被害者』の語りしか受け付けない社会」を唐突に並列し、完全に同等扱いをしている。このような方法がいかにして可能となるのか、常識外というしかない。

2に、「異議申し立てを行っていると解釈できるかもしれない。」という、およそまともな文章とは言えない断定である。

「AはBである」

「AはBであると解釈できる」

「AはBであると解釈できるかもしれない」

ほとんど思考停止論文と言うしかない。

3に、そこから「これこそ、・・・・・・、『モデル被害者』ではない女性たちの生存戦略である。」という論理破壊が続く。「解釈できるかもしれない。これこそ、生存戦略である」とはまったく呆れた話であり、論理の飛躍どころか論理的思考の否定である。茶園は次のように述べる。

「レイプ被害者は、レイプした相手に金を要求することで、~~社会に対して異議申し立てを行っていると解釈できるかもしれない。これこそ、『モデル被害者』ではない女性たちの生存戦略である。」

次の一文を比較してみよう。

「縄文人は、狩猟生活をすることで、核兵器を保有する社会に対して異議申し立てを行っていると解釈できるかもしれない。これこそ、縄文人の生存戦略である。」

この2つの文は論理的に等価である。検証可能性も反証可能性もない、譫言に過ぎないという意味で。

4に、それゆえ、「徹底的な帰納法分析」などというのは真っ赤な嘘である。茶園は帰納法によってではなく、ケリー/上野の認識枠組みに合わせて、証言をあてはめただけである。そのために無理をするから、「解釈できるかもしれない。これこそ」などと力むことになる。

以上のことは、茶園論文の一部、枝葉末節を取り出しての難癖ではない。茶園論文の方法論の本質が鮮明に示された箇所である。科学論文で言えば、実験データを書き換え、捏造して、分析を施しているのに等しい。


本書は2900円+税で販売されている。方法論を欺き、読者をだます論文で金儲けするとは、「お金を返せ!」と叫びたくなる代物だ。

と書いて、思い出した。私は本書を購入していない。編者の一人から献本していただいた。ありがたいことだ。献本いただいた本はきちんと読むのが礼儀というものだ。いつもはこの礼儀を守ってきた私だが。

前言訂正。「時間を返せ!」。

他の論文は優れた論文なのかもしれないが、申し訳ない。私にはこの本を読む能力がない。