Sunday, March 16, 2014

ネグリを超えるネグリ?

廣瀬純『アントニオ・ネグリ――革命の哲学』(青土社)                                                                                 ベストセラーのネグリ&ハート『<帝国>』をあまり評価しなかったので、『マルチチュード』はよみかけたが、その後のネグリ本を読んでいない。思想家としては凄いブームで、『芸術とマルチチュード』『自由の新たな空間』『講演集』『さらば、近代民主主義』『未来派左翼』『ディオニュソスの労働』『野生のアノマリー』『革命の秋』『戦略の工場』『スピノザとわたしたち』『コモンウェルス』『叛逆――マルチチュードの民主主義宣言』などが続々と翻訳出版されている。年に2冊は出ている。                                                                                         そのネグリの「日本語としては初」のモノグラフィが、『闘争の最小回路』『闘争のアサンブレア』『蜂起とともに愛がはじまる』『絶望論』の著者によって送り出された。廣瀬は、膨大なネグリの著作をまとめ直して解説する方法を取らない。ネグリの生涯を描くこともしない。そういう手法だと膨大な分厚い著作になってしまう。廣瀬は190頁ほどの本書で、2つの工夫をしている。                                                                                          1つは、存在論と主体論に絞り込んで、ネグリの思想を描き出すことである。もちろん、他に書き出せばいくらでも書けるであろうが、あえて存在論と主体論という核心に限定する。そして、もう1つは、「ネグリとバディウ」「ネグリとバリバール」「ネグリのレーニン主義」「ネグリとドゥルーズ」「ネグリとフーコー」と言う形で、他者との論争を通じてネグリの思想と特質を浮き彫りにする。この2つの工夫によって、ネグリの思想の核心が素人にも分かる仕掛けとなっている。「マルクスを超えるマルクス」「レーニンを超えるレーニン」を掲げ、現代マルクス・レーニン主義を生き、「革命の希望」を手放さないネグリが見えてくる。                                                                                            ところが、廣瀬はネグリの「革命の希望」に反して、革命の不可能性を唱えたドゥルーズに与し、「安易な希望に溢れたこの世界で絶望を真の力能として作り出す、おのれの眼前に不可能性の壁を屹立させそれに強いられて逃走線を描出する」という『絶望論』を書いた。ネグリの闘争から、廣瀬の逃走へ。                                                                                                                すわ、「ネグリを超えるネグリ」宣言か、と思いきや、廣瀬は本書後半で「安易な希望」に「転向」する。2013年のネグリ来日に際してネグリと会って話したので、ネグリ派に戻って、希望を追いかけることにしたと言う。直接会って話したので師弟愛が復活した、いい話だ。素晴らしい。だから日本には思想家が育たないのだ。外国思想のお勉強家は掃いて捨てるほどいるが、思想家はいない。お勉強(受け売り)が好きなんだな、骨の髄まで。