Saturday, March 08, 2014
大江健三郎を読み直す(9)「反・牧歌的な現実生活の作家」になるために
大江健三郎『われらの時代』(新潮文庫)
『芽むしり仔撃ち』からほぼ1年後、1959年7月に中央公論社から刊行された作品で、当時は、著者が作家としての主題を獲得し、新たな文学的冒険の出発点となると評された。新潮文庫には1963年6月に収められている。大江文学史の画期区分は、今となっては、まったく違う区分でまとめられる。半世紀を超える長さとその充実度から言って、最初期の傑作といえども、今となっては、重要度がかなり低くなっている。それゆえ、50時間の対話でつづる「自伝」という『大江健三郎 作家自身を語る』(新潮文庫、2007年)において、本作への言及はない。「性的人間」と「政治的人間」への言及はあるが、それは主に「性的人間」、「セヴンティーン」をめぐる話である。
本作を読んだのは高校2年の終わり頃だ。冒頭の靖男と愛人の頼子のベッドシーンが、高校生には好奇心をそそるものだったが、フランス文学を学び、フランス留学のかかった懸賞論文が受賞するほどのエリート大学生と、「外国人相手に十年のあいだ娼婦をしてきた女」である頼子の人間関係が最後までよくわからなかった。外国人というのはほとんど駐留米軍関係者であり、大江最初期作品でも四国の森の奥にまで米軍がやってきたことが取り上げられており、米軍兵士体験が当時の青年の意識形成に影響を与えていたことはわかる。それがエリート大学生と外国人相手の娼婦の関係として表象されている。靖男と頼子のただれた、あいまいな、そしてそれぞれに我儘な関係は、靖男の受賞、頼子の妊娠をはさみ、頼子とウィルスン氏の結婚へと展開していく。
他方、靖男の弟である康二とその仲間たちの3人組ジャズバンド《不幸な若者たち(アンラッキー・ヤングメン)》たちの猥雑と怠惰な生活の果てに呼び込んだ冒険譚が、本作のもう一つの大きな筋立てとなっている。まだ不確かな形ながらも、ここで大江は<天皇制>に出会う。《不幸な若者たち》が天皇の車に手榴弾を投げることを思いつくのは、政治的な半天皇制とは関係なく、どん詰まりに陥った自分たちの何らかの突破口を作りたいという意識、加えて未熟な冒険心のレベルのことだが、主要な登場人物に天皇の車に手榴弾を投げさせようとした大江の意識はマイ伯と言ってよいだろう。もっとも、冒険は失敗に終わり、代償行為としてのもう一つの冒険で《不幸な若者たち》のうち2人は死んでしまう。そこから急転直下の終結で小説は幕を閉じる。
文庫版末尾には大江自身による「《われらの時代》とぼく自身」という一文が収録されている。本作は「ほとんどあらゆる批評家から嫌悪されていた」という大江は、「セヴンティーン」に対する批判は政治的だったが、本作に対する攻撃は「過度に厳粛な文学の名においてなされた」とし、自らの変容を「牧歌的な少年たちの作家」から「反・牧歌的な現実生活の作家」になるために「性的なるものを採用」したのだという。
当時の批評がどうであったかとは別に、大いに後智恵であるが、現在から見るとどうなのだろうか。大江の前には石原慎太郎の『太陽の季節』(1955年、芥川賞)があり、後には村上龍の『限りなく透明に近いブルー』(1976年、芥川賞)がある。それぞれの時期に、若者の性行動と意識を描いた作品だが、こうした方法の有効性はいつの時期まであったのだろうか。
もう一つ、これも今となっては思い出す人も少ないかもしれないが、大江の後に、柴田翔『されどわれらが日々――』(1964年、芥川賞)が続き、さらに後に三田誠広が『僕って何』(1977年、芥川賞)で登場した。「われらの時代」から「されどわれらが日々――」、そして「僕って何」への変容に、当時の青年の意識の変容を見る評論をみかけたものだ。また、栗本薫が『ぼくらの時代』(1978年、江戸川乱歩賞)を出している。かくして近代的自我を求めてさまよった戦後民主主義世代の物語は終わりの始まりを迎えた。