Thursday, March 06, 2014

レイシストになる自由?(5)

ブライシュ『ヘイトスピーチ』(明石書店)は、「4 アメリカは例外なのか?」において、自由民主主義にアメリカ型とヨーロッパ型の差異があるかを問う。本書の中核部分である。結論は、本書のこれまでの記述に照らしてすぐに想像がつく。                                                                                       「国際的なスペクトラムで見れば、アメリカは最も言論の自由を重視する位置にあるが、しかしものすごく外れた位置にあるというわけでもない。アメリカ国内でも、人種差別表現に対する制限は設けられている。ヨーロッパ的観点から見れば、それは取るに足らないものかもしれない。しかしそうした制限があるということを確認することで、アメリカではあらゆる状況でヘイトスピーチが認められている、という誤解を解くことができるだろう。ヨーロッパ諸国と同様にアメリカもまた、表現の自由を支持することとヘイトスピーチを制限することの間で、バランスをつることを余儀なくされているのである。」                                                                                   この穏当な結論をきっちり証明するのが本書の中身である。                                                                                                            19世紀から1930年代の議論、連邦最高裁における議論で「言論の自由」の原則が確立した。憲法修正第一条の解釈のレベルで言論の自由の原則が形成されたが、まだ「支持され始めたばかり」であって、バランスのとり方に苦心していたという。1940年代から50年代には言論規制が進んだ。州レベルでヘイト・スピーチ規制法が作られ、有罪判決が出されていた。「喧嘩言葉」や「集団に対する名誉棄損」を巡る議論が続いた。1942年、連邦最高裁は、チャプリンスキー事件判決において、「ファシスト野郎」「くそチンピラ」と言った激しい怒りの言葉を投げつけた行為を有罪とした。集団に対しては有名なボハネ事件判決が出された。1960年代から70年代に流れが変わる。連邦最高裁は「ヘイトスピーチの保護へ」舵を切った。1969年ブランデンバーグ事件、1972年ウィルソン事件を通じて、全米のヘイト・スピーチ法は表現の自由に対する侵害であり、憲法違反とされていく。1977年スコーキー事件で、ナチのデモ行進の自由が確立する(ただ、幸運なことにネオナチ運動はアメリカでは広がらなかった)。1990年代には、ヘイト・スピーチを制限する別の試みが登場する。KKKで知られる十字架を焼く行為による憎悪と威嚇の規制である。他方、雇用差別禁止法は人種差別発言が環境型ハラスメントになる場合を認めている。大学キャンパスにおけるスピーチコードも広がり、ハラスメント禁止規定が多くつくられている。                                                                                                    それでは1960年代にアメリカでなぜこのような変化が生じたのか。ブライシュの説明はこうである。                                                                                                                 「アメリカがヨーロッパ諸国と違う道を歩むようになるのは1960年代から70年代のことである。公民権運動やヴェトナム戦争への反対運動のような反体制運動が盛んとなったこの時期、エスニック・マイノリティは体制に抵抗するために最大限の言論の自由を求めた。ヘイトスピーチを制限するための法は、マイノリティ自身の表現を規制するためにも用いることができるものであった。そのため、ほとんどのマイノリティ集団は、そうした法を政府に求めないことを速やかに決断した。この点に関して意見を同じくした連邦最高裁は、公民権運動の時代を通じて、言論の自由をアメリカの中心的価値として定着させた。そこでは、人種やエスニシティ、あるいは宗教にかかわるマイノリティを攻撃する言論にさえ、それを保護するロジックが適用されたのである。」                                                                                                                     なるほど、公民権運動があってさえヘイト・スピーチ処罰法ができなかったのではなく、公民権運動はヘイト・スピーチ法を求めず、運動のための言論の自由を求めたと言うのである。かなりアメリカ的な特殊性を帯びた話である。日本で「アメリカではヘイト・スピーチ処罰法は表現の自由に反するとされる」と言うたぐいの議論をするときに、あたかもそれが普遍的な話であるかのごとく持ち出されるが、そうではないことに注意が必要だ。アメリカ現代史に由来することを具体的に把握する必要がある。